2024年  4月 28日  復活節第5主日(白)

      聖書 :  使徒言行録          8章 26節~40節
            詩篇               22編 26節~32節
            ヨハネの手紙Ⅰ        4章 7節~21節
            ヨハネよる福音書       15章 1節~8節

      説教 : 『 愛という絆あればこそ 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  181、 271、 402、 289

今日の説教は以前、富士教会におられた明比輝代彦先生で、現在は新霊山教会で説教応援をされて
います。

聖書の中で、一番最初に登場するくだものは何でしょうか?

創世記には、エデンの園で蛇の誘惑に負けて、アダムとエバが食べたくだもののことが書かれています。すると
禁断の木の実である「りんご」でしょうか。しかし、創世記の禁断の木の実は「りんご」とは書かれていません。ラ
テン語で「悪」と「りんご」という語が同じマルムという語であることから、古来西欧キリスト教世界で「りんご」と解
釈されたことによります。

聖書で初めて引用したくだものが、リンゴでないなら、何でしょうか。それは、禁断の木の実を食べた後に、ア
ダムとエバが裸を隠すために腰に巻いた 「いちじく」 です。

しかし、旧約・新約聖書を通じて最も多く用いられているくだものは 「ぶどう」 です。パレスチナはぶどうの産
地であり、旧約聖書では、イスラエルはぶどうの木、神のぶどう畑として譬えられています。ぶどうの栽培には、か
なりの手間を要したと言われます。普通は、段丘で栽培されますが、土地は完全に整備されていなければなら
ず、枝は棚の上で仕立てられます。時には低いふたまたの杭で支えて、地上に這うようにされました。ぶどうの
木は、非常な勢いで茂るので、徹底的な刈り込みが必要でした。ぶどうの若木を植えて、3年間は実を結ば
せないのが普通でした。より豊かな収穫のために、不要な枝を切り落とし、剪定をしなければなりません。

ぶどうから取れる「ぶどう酒」は、祝宴には欠かせない飲み物でした。ヨハネ2章には、カナの婚宴で、ぶどう酒
が不足するという緊急事態を、主イエス様が水をぶどう酒に変えて、解決してくださった、という第一の 「しるし」
が書かれています。ぶどうは、イスラエル民族の日常生活に深く結びついたくだものでした。紀元前150年頃の
、マカベア王朝の貨幣の紋章として、ぶどうの木が用いられています。

明比牧師が以前、チャプレンとして奉仕していらした 「拳母ルーテル幼稚園」 では、19994月から、従
来の年齢別保育から、縦割り保育に変えたとのことです。それに伴い、クラスの名前も変えました。聖書から名
前をとり 「ぶどう・おりーぶ・ひつじ・ほし」 の5クラスになりましたが、もちろん「ぶどう組」があります。

ヨハネ伝151節で、主イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と言われまし
た。ユダヤ人たちが、自分たちはぶどうの木である、と自負している時代に、主イエス様は 「まことのぶどうの木は
、このわたしなのです。ぶどう園の農夫は、父なる神様なのです。」 と宣言しておられます。

さらに5節でも繰り返して「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わ
たしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないから
である。」と言われます。

イエス様と、イエス様を救い主と信じる者とのつながりが、ぶどうの木と枝という、分かりやすい関係で示されて
います。枝は木につながっていることによって生きることができます。必要な養分とエネルギーの供給を受けて、
実を結ぶこともできます。もし、ぶどうの枝が木につながっていないなら、命を失い、枯れて焼かれることになりま
す。

私たちの人生は、ヒトとしてこの世に生をいただき、人間に成長していくものです。犬や猫でなくヒトとして誕
生しても、それで人なのではありません。人は決して、一人では生きていけません。他者との人間関係の中で、
共に生かされていく存在です。他者と共に生かされていることを知ってこそ、ヒトは人間に成長できます。自分
一人の力で、何でもできる、などとうぬぼれていては人間になれません。人と人との間に生きているからこそ人間
なのです。そこには、他者からたくさんの恩恵をいただいている感謝の心が芽生えてきます。与えられていること
を感謝できる、幸いな思いが育ちます。

イエス様を信じる人は、ぶどうの枝が木から水分や養分を受けて育ち、成長して実を結ぶように、豊かな人
生を生き、実を結ぶ人生を実現できると約束されています。命の水や養分を送り込む道がつながっていてこそ
、可能なことです。

イエス様につながり、豊かな実を結ぶには、何が必要でしょうか。7節で 「あなたがたがわたしにつながってお
り、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
」 と言われています。主とつながっていく信仰の歩みには、み言葉が不可欠です。3節でも 「わたしの話した言
葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」 と言っておられます。イエス様のお言葉によって、手入れされて
、不要な部分を取り除かれていて、身軽になって実を結ぶことができるのです。

信仰生活に絶対なくてならぬものは「み言葉と祈りと聖霊の導き」です。私たちキリスト者は、毎日の霊の糧
としてみ言葉をいただきます。聖書をただ学問的に研究していたのでは、霊の糧になりません。神様は、このみ
言葉によって私に何を語り、何を望んでおられるのか、そのみ心を聴き取り、み心に従うことなくして、信仰生活
の成長は望めません。毎日の生活の中に、み言葉をいただき、祈るための静かな時間を必ず取りましょう。み
言葉を通して、神様の力が与えられ、毎日の生活を生き生きと、喜びと感謝をもって生きることができるのです。

豊かな人生の実りは 「愛」 に結実します。

9節と10節には 「わたしの愛にとどまる」 という言葉が、三度繰り返されています。主イエス様は「父がわた
しを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と言われます。父なる神様の愛(アガペー)によって、
わたしたちも、主イエス様の愛(アガペー)をいただいています。

そのアガペーの愛の内にとどまる、ということは、アガペーの愛の中で生きる、アガペーの愛によって生きる、とい
うことになります。アガペーの愛は、自らを犠牲とすることをもいとわない真実の愛です。人間の愛は、自分を愛
し第一とする利己的なエロースの愛から出発するのが普通です。エロースの愛は、他者のために自己犠牲を
払うことなど、できない打算的な愛といえます。神様の愛、主イエス様の愛は、ご自分が傷つき、痛むことを引
き受けてくださる愛です。神様はその独り子を給うほどに、私たちを愛してくださいました。主イエス様は、その命
を私たちのために捧げて、十字架の上に贖いの死をとげてくださいました。この主の愛をいただいて、初めて私た
ちも、共に愛し合うことのできる人間に造り変えられます。

主イエス様という、ぶどうの木につながる者は、この愛の絆で結ばれています。

愛という絆で結ばれていますので、その絆を通して「愛」が、脈々と流れ込んでくるのです。他者を自分のた
めに利用するのでなく、他者を自分と共に生きる相手として認め、受け入れる人生です。神様のアガペーの愛
が、注入口から入れば入るほど、その愛は心にあふれて、外へ出ていく愛となるのです。受けるだけではなく、与
える愛の姿を形の上では取ることになります。

ガラテヤの信徒への手紙522節に、パウロは 「愛の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善
意、柔和、節制です。」 と述べており、キリスト信徒の結ぶ実の筆頭に愛を挙げています。愛こそは人と人とを
結ぶ真の絆です。

お祈りいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。

この主の日に、私たちを招いてくださり、共に神様を礼拝できます幸いを心から感謝いたします。

復活された主が、弟子たちを深い挫折から立ち上がらせ、イエス様こそが真の救い主であることを、証しさせ
てくださり、主を信じる者の共同体であるキリストの教会を起こしてくださったことを感謝いたします。

今日のみ言葉によって、主こそがまことのぶどうの木であり、主につながっていてこそ、枝である私たちの信仰
生活が、実り豊かなものとなることを教えられて感謝致します。どうか、主につながることにより、真の喜びと希望
と平安を与えてください。今、人生の大きな試練のさなかにある方々に、慰めと力とをお与えください。み子、主
、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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