2024年 4月 7日 復活節第2主日(白)
聖書 : 使徒言行録 4章 32節~35節
詩篇 133編
ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節
ヨハネよる福音書 20章 19節~31節
説教 : 『 戸に鍵をかけていたのに 』
木下海龍牧師
教会讃美歌 : 170、 95、 105、 402
人はいつかは死んで、この世から居なくなるのは、身近な両親の死を見て、分かっているのだけれ
ど、自分自身が死んだ後は、どうなるのだろうか。肉体は消滅しても、見える肉体の次元とは異なる自
分の意識は眼には見えないし、形も無く、火葬できない霊や魂はどうなってしまい、どこへ行くのだろう
か。こんなことを思いながら本日の聖書個所を読んでおります。
ヨハネ20章の出来事は、早朝にマグダラのマリアが墓に行き、墓の石がとりのけられて、イエスの
の体が見当たらなかった事件があり、さらには、その日の夕方に鍵をかけて潜んでいる弟子たちのと
ころに復活のイエスが現れた。という聖書記事は、我々の今日の感覚からすると同じ日の早朝と夕方
に起こった出来事なのです。
①
早朝、墓は空っぽであった事→イエスの復活
②
夕方、鍵をかけて潜んでいる弟子たちのところに復活のイエスが現れた出来事→弟子たちへ
の平和の授与と派遣の言葉
19節・「家の戸に鍵をかけていた」、更に26節にも「戸にはみな鍵が掛けてあった」
二度も「鍵がかかっていた」と記述されている。このことからヨハネが意図している狙いは、「イエスの
復活はいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別の体へのよみがえりで
あることを示す狙いがあるのです。イエスの復活はこの世への蘇生ではない。よみがえりの命は死す
べき命とは別の命であったのだ、と。別の体を持ったイエスは、閉じた戸を通り抜ける事もできる。同
時に、望む時には人の目に見える姿にもなれる、さらに、人の手で触れることのできる体になれるので
した。
イエスは釘跡のついた両手と刺しぬかれた脇腹とをトマスに示します。いま、弟子の前に現れたイエ
スは、閉じた戸を通り抜けられる別の体と別の命へと替わったイエスですが、同時に、受難に至るまで
彼らと生活を共にしたあのイエスと同一のイエスであるのでした。それを示すために、十字架処刑の折
に受けた両手の傷を見せ、槍で突かれた時の脇腹に触らせます。
イエスは受難以前と同一でありながら、別のレベルの命に生きている。弟子たちが過去に経験したイ
エスとの交わりは、レベルを高めて、今も継続されている事を顕していたのでした。
このことを28節のトマスの信仰告白の言葉で述べています。「あたしの主よ、わたしの神よ」。と。
トマスにとってはイエスは自分を導く教師であり、リーダではあましたが、「旧約聖書のヤハウエ(主)で
あるとか、ましてやアドーナイ(神)ではありませんでした。ところが!!
トマスは、甦ったイエスを目の当たりにしたとき、それまでのイエスへの理解をひるがえして、甦ったイ
エスのうちに、彼の主であり、彼は神を見たのでした。よみがえったイエスはトマスと以前に生活を共に
したあのイエスであって、しかも、全く別の命に入った神であると理解して受容するに至ったのでありま
した。
19節に続いて、さらに21節においても「あなたがたに平和があるように。」と宣言されてから「父
がわたしをお遣わしになったように、あたしもあなたがたを遣わす」そう言ってから、彼らに息を吹
きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とここには聖霊を吹き込むこと
のできる神なる存在が立ち現れていたのでした。
イエスの復活の体について、また、イエスがのぼって行かれた父のもととはどんな所であるのか?!
今の時代に生きている者にとって、理解しやすい仮説的説明をしている学問の分野がございます。
それは、近年の、最先端量子科学が、一つの興味深い「仮説」を提示しています。
それを信じるか、拒否するかは別にして、各自が知っておくことは、神・天・仏についての理性的な理
解を深める事になると、思っております。
書籍の紹介 田坂広志著「死は存在しない」-最先端量子科学が示す新たな仮説―Pp357
光文社新書 著者は東京大学工学博士(原子力工学)
<この場の時間的な制約がありますので、一部を短くまとめて紹介いたします。>
・現代科学の最先端、量子物理学の世界で論じられている「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という、
一つの科学的仮説であります。P114
・無数の人々が、「祈り」を捧げて来た存在。無数の人々が、「守られ」「導かれ」「祈りが通じた」と感じ
てきた存在。無数の人々に、様々な「神秘的な出来事や体験」を与え続けてきた存在。その「神」「仏」「
天」とは、「ゼロ・ポイント・フィールド」に他ならない。
すなわち、その「神」や「仏」「天」とは、宇宙の歴史始まって以来の「すべての出来事」が記録され、人
類の歴史始まって以来の「すべての叡智」が記録されている。
それが、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に他ならない。
無数の人々が「神秘的な出来事や体験」と感じてきた、不思議な「直観」や「以心伝心」「予感」や「予
知」や「占い的中」「シンクロニシティ」や「コンステレーション」などの現象は、これらの人々の無意識が
「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がることによって、起こってきたからである。
そして、もし、そうであるならば、昔から、世界の様々な宗教において、「祈祷」や「祈願」、「瞑想」と呼
ばれ、実践されて来た諸種の技法は、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がるための「心の技法」に
他ならない。P190
このように、もし、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」が正しければ、我々は、「死後に何が起こるの
か」「死後の世界はあるのか」という最も神秘的な問いに対して、科学的・合理的な答えを見出すだ
けでなく、「神や仏や天とは、何か」という最も崇高な問いに対しても、答えを見出すことが出来るの
である。 <中略>
現代科学の最先端宇宙論によれば、この宇宙は、138億年前に、「量子真空」から生まれたとされ
ているからであり、その「量子真空」が、あるとき「ゆらぎ」を起こし、急激に膨張してインフレーション宇
宙を生み出し、続いて、大爆発を起こしてビッグバン宇宙を生み出し、このビックバン直後に、この宇
宙は、「光子」(フォント)で満たされたとされているからである。こう述べてくると、「科学」と「宗教」の間
に、不思議な一致があることに気がつく。 仏教の経典『般若心経』において、「色即是空、空即是色」
と語られており、この世界(色)はすべて「真空」(空)から生まれてきたと述べているからである。
また、キリスト教の『旧約聖書』、天地創造を語った「創世記」の冒頭の一節は、「神は『光あれ』と言
われた」と書かれており、神がこの世界を創ったとき、最初に「光」(光子)が生まれたと述べているから
である。
これは、単なる「偶然の一致」であろうか。 この「最先端の知見」と「最古の宗教の直観」との
一致は、単なる偶然なのであろうか。
しかし、もし、この『般若心経』を著わした仏教の僧侶や、『旧約聖書』を著わしたユダヤ教の聖職者
が、「祈り」や「祈祷」を通じて「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がったのであれば、この宇宙が誕生し
た瞬間の記録を、「宗教的な直観」として感じ取ったとしても、おかしくない。P192
もし「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」が正しければ、我々の死後も、我々の人生で起った、すべて
の出来事」の情報、我々の人生で与えられた、「すべての体験」の情報、我々の人生で与えられた、
「すべての人間関係」の情報、我々が人生で味わった、すべての「感情」や「想念」の情報、我々が
人生で学んだ、すべての「知識」や「叡智」の情報といった「意識のすべての情報」が量子真空内
の「ゼロ・ポイント・フィールド」に記録されているということであり、もし、そうであるならば、「生」や「
死」という意味で、それは何を意味しているのか。
すなわち、我々の肉体が死滅した後も、「ゼロ・ポイント・フィールド」に、我々が人生で抱いた「意
識のすべての情報」が残るということは、何を意味しているのか、ということである。<中略>
肉体が滅びた後も、「ゼロ・ポイント・フィールド」内に記録された「我々の意識の情報」は、そのフィ
ールド内に記録された「他の人々の意識情報」、すなわち感情や想念、知識や叡智などと相互作用を
続け、さらには、フィールド内に記録された「この宇宙に関するすべての情報」を学びながら、変化し続
けるのではないか、という仮説である。
すなわち、筆者が抱くのは、肉体が死滅しても、「我々の意識の情報」は「ゼロ・ポイント・フィー
ルド」内に「永遠の記録」として残り続けるだけではなく、さらに変化を続けていくのではないか、
すなわち、「生き続ける」のではないかという仮説である。
・「ゼロ・ポイント・フィールド」内には「現実世界」と全く同じ「深層世界」が存在している。<詳細
省略> ・現実世界の「自己」が死んだ後も、深層世界の「自己」は生き続ける。<詳細省略>
大雑把に紹介しましたが、今日の最先端量子物理科学のこうした仮説は、古の宗教者が、「ゼロ・
ポイント・フィールド」に繋がって得た宗教的直観による叙述が、量子物理学による仮説によって、今
を生きる私どもに納得可能な道案内をしてくれているようにも思えます。過って湯川秀樹博士が中間子
の存在を理論的な仮説として論文発表した後に、その存在が実証的に証明されて、ノーベル物理学賞
を得たように、今日、量子物理学の分野において考えられている「ゼロ・ポイント・フィールド」の存在
仮説の実証的証明がいつの日にか、思いを超えた方式で証明される時が来るやもしれません。
それはそれとして、我々に隠されていることの多い 死・復活・死後の世界(神の国)についての論
述は昔も今も人間にとっては大問題であることには変わりはありません。聖書は全く逡巡せずに明確
に復活と神の国について記述している事は確かです。アーメン。
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