2024年  5月 19日  聖霊降臨(赤)

      聖書 :  使徒言行録          2章 1節~21節
            詩篇              104編24節~34節、35節b
            ローマの信徒への手紙    8章 22節~27節
            ヨハネによる福音書     15章26節~27節、16章4b節~15節

      説教 : 『 弁護者・真理の霊を遣わす 』
                       木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  119、 120、 337、 402

おそらく100人前後の弟子たちがエルサレム市街地の二階に、集って、自殺したユダに代わる使徒
を選出いたしました。 それは教会会議であり、礼拝であり、特別祈祷集会でもあったでしょう。

 過ぎ越しの祭りに合わせてエルサレムに集まって来ていた弟子たちは、イエスの死と復活、さらにイ
エスの昇天を目撃した直後であったこともあって、参集した弟子たちには、一体感と緊張感が最高に
高まっていていたのではないかと推察されます。
 私は、ほぼ毎日、午前中の 1時間30分ほど、独りで自己流の体操と瞑想をいたしております。
 富士教会では私が来る土曜日に「聖書とメディテーション」のクラスがあ開催されると、3人が聖書と
信仰書籍の学びの後に、瞑想に入ります。私一人の時とはまた違った充実した集中の領域に入って
行きます。
 以前良く通いました秋川渓谷に開設されたイエズス会の「神冥窟」では30人ほどの参加者が一体と
なって、沈黙の祈りに入って行きます。そこでは、また特別な力のこもった充実感を体験いたします。
 使徒言行録2:1 24 (朗読する)
 この描写はペンテコステ・聖霊降臨の出来事をルカが短くまとめた文書です。
 一同とは100人から120人くらいの弟子たちであったでしょう。その人数が当時の教会を構成する
中心メンバーであったのです。100人を超える集団が本当に一致した口誦祈祷と沈黙の祈りが続けら
れたならば、ある大きな波動が力強く動くはずです。
 「音が天から聞こえ」この言葉から、聖霊降臨とは天から下ってくる出来事であるから、我々はただ
待つだけであると、思いがちなところがあります。なんとなく霊の訪れを待ってしまっている心境と、気
持ちになりがちになるのです。そこで集中が途切れると、弦楽器の弦の糸が緩んだ状態のままのよう
になっており、少しの風くらいでは、なんらの響きも起こせなくなってしまっています。
 私がここで言いたいことは、聖霊様がお出で下さらなければ何もできない。ある種の謙譲性を装った
怠惰に逃れている感じがするのです。私自身も含めたいわゆる正統派キリスト者全般に言えることだ
と思っております。 変わり者で酒に酔ったようだと誤解されることを警戒しているのでしょうか。
 私自身も語ってきたし、また聞かされて参りました。聖霊降臨の出来事を語りつつも、一歩も前進し
ないのです。それは何処に課題と問題があるのでしょうか。
 聖霊降臨が起こった、二階の部屋には百人を超える人々が集っているところに聖霊降臨が起こった
のでした。この出来事に比較して、小さな個人に聖霊が臨在した出来事などは、心の内に秘めて表現
しないままにしまっているのです。それは錯覚だとか、寝ぼけているのではないか、使徒言行録にある
ように酒に酔っぱらっているのではとみられることを恐れているのです。
 何よりも、先ず、聖書のみ言葉によって聖霊は臨むのだ、とか、正しい教会教理に乗っ取った秩序の
中で起るものだと。思い込んで、自分に起こったある種の神秘性、不思議さや常識外れの幻視・幻聴・
直観・気付きなどのわずかな働きは、押し隠してしまうのです。
 良いではありませんか!どうせい、クリスチャンは現実界的価値観からは変わり者の集まりだと思わ
れているのですから!!
 世間からすれば、雑事が集中する日曜日に、一枚着替えて礼拝に集まってくるほどの変わり者の集
まりなのです。もともと、朝の礼拝に集うのは、神に選ばれた稀有な人々なのです。世間の価値観とは
別の領域を、大切にしている人たちなのですから。
・一コリ12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神
から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは
言えないのです。
 過渡的で暫定的な提案であることであると断りながら、今日において、聖霊の働きについて、もっと明
確に、且つ親しみのある弁護者としての聖霊が、固有な一人一人に、些細な事柄を通して、働きかけ
ておられる事実に意識しましょう。そうした経験と時を回復することを願って止まないのです。
 聖霊について語り得るのは少数の神学者や牧師が占有する事柄だとする先入観から、解放して信
仰者全てが日常活動や静まり中で、気付き経験する事柄へと、聖霊を本来の働きへと復権べきである
と願っています。
 先ずは、直観的なひらめきを大切にして行動を起こしましょう。電話かけたり、訪問したり。その場で
短くお祈りをしたり、ひらめきをその都度、メモにしておきましょう。
 錯覚だと思われる幻視を記録しておきましょう。その時の幻視・幻聴(イエスの姿とイエスの声)の記
憶は残っても、同じものは二度とは体験できないのです。
 健全な信仰集団としては原信仰体験をも含めたバランスが大切であると思っております。
 正統的な聖書の教えを聴き、納得して信じることはとでも大切なことであります。
 その一方で、自分自身が何らかの信仰体験に至った出来事を語ることを原信仰体験だと私は言って
おります。その割合は数パーセントでも持つことが大切だと思っております。
 私共一人ひとりが実は、固有の原信仰体験をしているのです。神のはからいの中でイエスの昇天を
目撃した出来事に比べると極々ささやかではありますが、主の昇天を目撃した証言と、幾分かは、そ
れに類する範疇の事柄であるのではないか、と思っています。
 それはどうゆう体験であり、また、どうすれば体験出来ることなのか。危険性はないのか。
 課題はありますが、肯定的に考える必要がると思っております。
 原信仰体験を信仰集団の中でいかに回復して、各自の信仰を直接的・体験的な己の信仰にしてゆく
ことが健全で生き生きとした教会を信仰集団にするためには、貴重なことであると考えております。
 神おわしまして、その神は独り子を与える程に人を愛して惜しまないお方でございました。そうした気
付きを言語で表見するためには、先ずは、聖書のみ言葉から受け取るのが最善でありましょう。
 私が提言したいのは、聖書のみ言葉を受け取って、その言葉を反芻する事に加えて、個々人の体験
や生活の中で、その人固有の気づきがあって、それをお互いにシェアーしあって、尊重する気風と言い
ますか、教会内文化にすることが大事ですよ、と。
 例えば:恥ずかしい気持ちもあるので普段はあまり言いませんが。
 ごく小さな体験であっても、自分にとってはとても大切だと思っています。
・天使のような看護師に先導されて進む途中で、三カ所の鍵の掛かった隔離病棟の扉が目の前で、

バチャバチャと開かれてゆく体験。(19665月頃32歳)
神学校を卒業して、お情けで教師試験をパスしただけの新米牧師でしたネ)富士時代
・子羊を抱いたイエス様が正面の白い壁から、何度も自分に迫ってこられた。半田時代
・木陰にイエスが過って行かれるを見た事。島田説教応援

< 身近な人の証し >
・冥想時に、台所仕事で立っている自分はイエスを見たという人。半田時代
・夢でイエスにあったという人。
・振り向いたらイエスが背後に立っておられた。
・雨が降っている日に、雨には全く濡れることなく教会にまで往けたので、信じた。
・まだ開けやらぬ早朝に目の前に光が射して障子を照らし出したので目を覚ました。常滑
・妻が夢で、ラース・イングルスルード先生と話したと。諏訪 等々・・・。
 聖書の中では、主を見たという人々によって、その証言が遺されて、文章化されているのです。その
ことはその現象を見えた人と、見えない人とに分かれることをも表現しております。皆が均一ではない。
 同じ現象を目撃できた人々、およびそれを目前にして、見える人、聞こえる人、全くそうでない人とが
いるのだと思います。善悪の問題ではなく、導きがあるのでしょうか。
 そういうことは旧約でも新約でも今日の教会でも珍しくございません。

 例旧約聖書:エリヤとエリシャのやり取り。列王下2:10エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いを
する。わたしがあなたのもとから取り去られるのを
 あなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。
 マタ5:8  「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」
 主イエスの昇天(この地上から取り去られる状況)は:すべての弟子や、村の通行人たちが見上げた。
 事実としては、そんなことでは全くなかったのです。主イエスの昇天は使徒言行録とルカ福音書に載
されているだけです。ルカがその伝承は大事だと!!!(ルカはパウロと同じ時代の人で、イエスには逢っていませ
ん)
 新約聖書群が正典として一応の確定を見たのは397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった
のですが、当時すでにイエスの死後350年以上が経過していたのです。
 今の文書群が経典になるためにはそれだけの時間が必要だったのでしょう。イエスの昇天を正典に
残すかどうか・・・。おそらくこの長い期間に、大議論を何度もしたのではないでしょうか。
 今日の新約聖書文書群が聖典とされる前から「三日目に死人のうちから復活し、天に上られました」
という文言のある使徒信条は礼拝で告白されていました。それが上記の397年の教会会議に於いて正
典として定められたのでした。主イエスの昇天の物語が一部ではあるが言い伝えられて大事にされて
いた。それをルカ文書に残したまま正典化したのだと推察されます。それもまた聖書が抱えている文
書群には書き手の個性と時代状況が浮かび上がって、とても興味深いのだ、と言われるゆえんであり
ます。
 一部の教会が主の昇天の物語を継承していたのです。大部分の教会ではそうした昇天の伝承はな
かったけれども、年月の経過の中で教会全体としても、主イエスの昇天の伝承は教会にとって、とても
大事な内容を孕んでいると受け止めるに及んで、第3回カルタゴ教会会議でルカ文書に残す形で確定
したのでしょう。それは死後に我々が行く世界・神の国の存在を明確な事として、譲らなかったのです。
 この推論に意味を見出すならば、先ほど取り上げました、私どものいくつかのささやかな信仰体験は
、経典に入る内容のことではありませんが、神の領域のリアリティとして、ある個人が大事にして、自分
の信仰が強められ慰められる証しとして語られ、共有されるというのは、多様な道筋というか、信仰の
裾野を広げてくれるというか、豊穣な信仰の世界を見せてくれて、共有が広がって行くことをしばしば体
験させられます。短絡的に否定せずに、軽蔑せずに傾聴することが、その友人を尊重することになる
のです。
 是非とも、皆様方が体験した、恥ずかしい気持ちがあっても、出会った内容の体験談を、聞かせて下
さればありがたいです。
 聞きあってみんなが、あ、そう、そう、そういうことはあるよね!!と言うことが、確信となり。励みとな
り、教会が一体となることに貢献するのではないか。そんなことを考えております。
その事が私の願いでもあります。   アーメン。

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