2024年 5月 5日 復活節第6主日(白)
聖書 : 使徒言行録 10章 44節~48節
詩篇 98編
ヨハネの手紙Ⅰ 5章 1節~6節
ヨハネよる福音書 15章 9節~17節
説教 : 『 イエスの戒めとわが家の戒め 』
木下海龍牧師
教団讃美歌 : 166、 333、 191、 499
本日の聖書個所には「掟」と表現された言葉は三カ所で使われています。
10節に二度、12節に一度使われている。
ἐντολάς(エントラス)と言う語が「掟」と訳されていますが、「戒め」と日本語訳にした方が良いの
ではないか、と。自分にはそれがしっくり身に入ってくるからです。
文語訳及び他の翻訳にも「戒め」「戒命」と訳されています。
わが家には書かれた家訓としての「戒め」はありません。それでもあとすれば父からは「自分でしっか
りと考えて、人に騙されないようにしなさい」日常では、親の面前で、夏でもシャツを着ないで上を裸で
いたり、素足のままでいることを父は嫌いました。母からは「わら屑一本でも人様の家の物を黙って持
ち帰るな。人に親切にする機会を逃すでない」と言った戒めが心に残っています。
両親の日常の生き方や住まいかたから、時には母からの小言のようにして残っております。
おそらくどこの家庭にあっても、小さな共同体として、さらに子供を健全に育ててゆくために、子供が
心と身体が成長することを願うがゆえに、何らかの「戒め」があるのではないでしょうか。
子供がどうなってもいいのだとは思わないからです。健康であって、生きてゆけるだけの稼ぎができる
大人になってほしいと願っているのではないでしょうか。
それは、子供と日々接して、やり取りする中で、人格から人格へと伝えようとする願いであり、祈りでも
あるのだと思います。そうした深い絆の中で注ぎ込まれ、刻まれてゆくのが「戒め」と言われるものが持
っている意味合いではないでしょうか。
現実の暮らし向きの中で、語っている内容を、親子ともに従っているのがその家の戒めになるのでは
ないでしょうか。
教会は主イエスを頭とした有機体であって、イエスの御血と御体と霊性が繋がっている身体だと喩え
られております。
その中心は、主イエスが御父の愛に留まるように、あなた方もわたしの戒め(主イエスの生き方に学ん
で生きてゆく)=イエスの愛に留まっていなさい。
留まるとは受け継いで自分自身が生かされている愛を隣人にも与えて生きてゆく生き方を表します。
無限に受け取りつつも、己の人生全体から見て、その帳尻がただ乗りをしない生き方であると言えまし
ょう。主イエスによって目覚めた良心は自発的に自分が出来る奉仕を選び、避けない、逃さないので
はないでしょうか。
3節「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」このフレイズは気になり
ます。
この言葉は、次のみ言葉につづいて言われたのであります。「わたしはまことのぶどうの木、わたし
の父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しか
し、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」この言葉に続けてイ
エスが仰ったのでした。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と。
この「清い(カタロイ)」と2節の農夫である天の父が「手入れする(カタイロー)」は語根を同じくする
言葉です。それですから、主イエスの父上であられる農夫が既に剪定を済ませて実を結ぶ枝にしてく
ださって、葡萄の木に、残してくださっているのだ。手入れを済ませてある=清くなっている。
それ故に実を結ぶためには、これからも、ますます、「わたしイエスにつながっていなさい」と。
葡萄の木であるイエスに繋がる枝である弟子に向けて命の養分が流れ込んでくるのです。主イエス
の言葉は弟子を生かし、養い育てる必要な養分であるのです。
主イエスは言葉を尽くして諭される文言がここには綴られております。
こうした愛のこもった諭しこそが、主イエスが語るところの「戒め」でありました。だから、ここで「わたし
の戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とおっしゃった流れとして理解できる
のです。
さらに、この戒めは、競争原理の現場で勝つために緊張して、気合を入れて奉仕させるためではなく、
「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしが
あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの戒めである。」
「彼らを悪い者から守ってください。」と主イエスと共に真実に祈れる人は誰でしょうか。
・「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅び
ないで、永遠の命を得るためである。」
・この御言葉は自分に向けて語られたのだ。と受け止めた人であり・クススチャンではないのか。
神の言葉である聖書とその教えを日々の生活の中で実践している人ではないのか。その実践が時に
は実を結ばないように見えるとしても!!
・神の前では、ユダヤ人もギリシャ人も何らの差別はない。天と地ほどに隔たっておられる神が人を愛
されたのだから民族性を超えて人は互いに愛し合わないならば、キリスト教徒としては神に喜んでもら
えない、と教えられ信じ実践して来た人ではないのでしょうか。
・キリスト教的愛と慈善は家族や部族・民族の垣根を超えて、「至るところで、わたしたちの主イエス
・キリストの名を呼び求めている全ての人のもと迄届けなければならない」という教えを受け取っ
ているからではないのでしょうか。それはキリスト教社会の垣根をもこえて広げるべき教えではないの
でしょうか。
実際に、このイエスの「戒め」が教会の外の人へも実践されてゆきました。それ故に、初期の200年
~300年の間に、教会は急激に勃興していったのでした。今日の社会学者の知見は述べております。
そのことは、今日の教会に向けて全く同じことが言われているのではないでしょうか。
祈りましょう。
主よ、あなたの戒めに忠実な僕として生きて、あなたの喜びに満たされますように、導いてください。従
ってまいります。アーメン
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