2024年  6月 2日  聖霊降臨後第2主日(緑)

      聖書 :  申命記             5章 12節~16節
            詩篇              81編 2節~11節
            コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章 5節~12節
            マルコによる福音書     2章23節~3章6節

      説教 : 『 頑なな心を悲しむ 』
                        木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  66、 249、 67、 276

「かたくな」「いこじ」は、心が素直でなくなり、人の言葉などを受け入れられなくなっている状態を表わ
す。「かたくな」は、心を閉ざしているような場合に、

「いこじ」は、意地になっているような場合にいうことが多い。<辞書参照>

本日のテーマは、安息日を自他ともに厳守すべきである、と固守している律法学者・パリサイ派の人
に、病人が癒されることは、良い事であるのは分かっているのであるが、安息日をまず尊守することが
至上命令である。それ故に、安息日の癒しは安息日の禁止事項に違反することになる。ゆえに、この病
人の癒しは、この場で行う事には賛同できない。

たとえそれが、イエスが問いかけた「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うこ
とか。命を救うことか、殺すことか。」だとしても、イエスを訴える口実を得るために、彼らは黙っていた。
病人への癒しは、別の日にすべきである。と、彼らの理念と行動は規定に囚われていたのです。そのた
めに今現在、癒しを必要としている人を放置してしまう結果になっても、安息日既定の前には致し方ない
ことだと。

イエスの怒りは、彼らが分かりつつも黙っていた事に湧き上がったのです。善を行う事、人を癒すこと
の重要性を知りつつも、彼らの律法偏重主義や彼らの誤解した理念、宗教的イデオロギーによって偏っ
た見解は人を置き去りにしも免責されるお墨付きに固守している態度に怒ったのでした。

イエスの神の国宣教は、捻じ曲げられた安息日理解を最初の神の意図に戻す戦いであったのです。
もともと、安息日は神がお与えになった贈り物であるのです。「安息日は、人のために定められた。」
喜びと祝福に満ちたものであるのです。
人間を安息日の奴隷にするために創られたのではないので
す。

麦の穂を摘む弟子の姿は、イエスによって到来した新しい時代を表す象徴なのです。

大祭司であるイエスの思いやりと許しの下で、弟子たちが行った徴なのです。

さらに、イエスは指導者たちの頑なな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われる
と手は元通りになった。ルカは同じ出来事を記して「それを見ていた律法学者やパリサイ派の人々
は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」
書き残しております。

イエスにとっての神の国宣教は、ご自分の命を賭けた伝道であったと言えましょう。

主イエスの課題は、こうした安息日を巡る問題を中心に、どのように対処すべきか。人のためにある
はずの安息日が逆に人のあらゆる自由を拘束してしまっている、そこからヒトを開放するために、神殿
祭司と律法学者たちとの対決に至らざるを得ませんでした。

庶民が飢えている問題、病をえて苦しむ人達をいやす問題…等々。

 その国とその民族が長年にわたって信奉して来たある種の価値体系を解体して再構築してゆく難しさ
にイエスは当面したのでした。そして、それは十字架の死にまで至らざるを得ない深刻な課題でありまし
た。あまりの国粋主義・多文化と融和できない閉鎖された教義内容・・・その行くつく先がどうなるかはイ
エスには見えていたのです。それ故に主イエスはエルサレム神殿崩壊と国外へと追放されてゆくイスラ
エル民族の近未来を予見して泣かれたのでした。

主イエスが命を賭けた安息日論争ですが、安息日は元来神様からの贈物であり、人のためにあると
すれば、現代の教会はどのように受け止めて、改善したり、時には教会員のために教会そのものを閉
じてゆく状況も、生じていますが、それも、やむを得ない大きな試練なのかも知れません。

 我々にとって、安息日を守ることが、正直に言って、足枷・手かせになっているとしたら、どこにその根
っこがあるのか、みんなで考えて、定期的に見直すことが必要ではないでしょうか。

牧師の人柄に原因があるのか。説教内容と礼拝参加者との期待感とに乖離があるのか。

一人一人の考え方や・生活全般の欲求は何処に向いているのか?

一週間の時間の使い方・仕事と体力と収入のバランスは健全で自分の身の丈に合っているのか?

その人の人生設計の立て方は明確であるのか など・・・。

そんな話し合う時間はない。と思うかもしれません。

それでは、独りで、考えるのも良いでしょう。 時間は過ぎゆき、待ってはくれません!!

そして、気がつけば、私の如くに90歳になるのはすぐに来ます!! ハイ。

何処で、何に向かって、闘っているのか。 われわれ一人一人の課題でもあります。

<余談ですが>

カソリック教会には多くの修道会があり、その修道会の特徴を生かしながら広い分野で宣教活動を行
っております。

その中でもイエズス会が日本に於いては、大学等の教育分野を中心に顕著な働きを続けております。

他方、設立529年のベネディクト会(「服従」「清貧」「童貞(純潔)」は、現代も世界中で活動するカトリッ
ク教会最古の修道会ではありますが、ある人から頼まれた機会に調べたところ、15年ほど前に日本
から完全に撤退している事が分かりました。

身近な話では、ルーテルの島田教会は売却され、その跡地に8戸の建売住宅が建ちました。市民に住
宅を提供したことで、その土地の売却は無意味とは言えませんが、本来、宣教のために捧げられた献
金の主旨からすれば、釈然としない気持ちが残りました。

寺ジマイ、墓仕舞 と言った話題も聞こえてきます。

こうした大きな時代のうねりの中に宗教法人日本福音ルーテル教会に属する被包括宗教法人として富
士教会は設置されております。富士教会の意思を尊重しつつ、売却するかどうかの最終決定権は包括
する日本福音ルーテル教会にあります。人数が少くなって、教会が残ることを願って合同した教会はそ
のほとんどが売却されました。他方最後の一人が天に召されるまでは残った教会が二つありました。西
教区の益田教会と下諏訪教会でした。

世界の歴史の潮目が変わるまで生き延びうるのか。永遠の眼差しが必要でしょう。

キリシタン信仰の顕彰には350年ほどの年月が掛かりました。(前田万葉カトリック大阪大司教区・大
司教)

明治以降のプロテスタントの潮目は明治の後半から逆行期に入り第二次世界大戦の終戦後に大きく
潮目が代わりました。今は下降期に入っています。

今日、私どもを巻き込んでいる潮流は、世俗主義、少子高齢化、経済第1主義の激流になっておりま
す。この混迷からの潮目の変化は、いつ起こるか。それまで持ちこたえましょう。皆さんが一つになって
祈り、力と智慧を合わせましょう。その一人が天に召されるまで!! 教会は残り続けます。

主イエスは、安息日を神からの贈り物であることを取り戻す闘いをされました。アーメン。

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