2024年  6月 23日  聖霊降臨後第5主日(緑)

      聖書 :  ヨブ記              38章 1節~11節
            詩篇               107編1節~3節、23節~32節
            コリントの信徒への手紙Ⅱ  6章 1節~13節
            マルコによる福音書      4章 35節~41節

      説教 : 『 嵐の中のイエス 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教団讃美歌 :  67、 187、 312、 228

人間の暮らしを向上させるのに有益だと「情報」が、世界を飛び交っています。新聞を眺めますと、毎日毎
日、書籍や雑誌の新刊広告が掲載されているのに目がつきます。次々と発信される情報の膨大さと、私たち
が膨大な中から選び取る難しさがあります。この開きは、新聞、テレビ、ラジオ、書籍、加えてコンピューター通
信等のSNSと伝達機能が発展する昨今、大きくなるばかりです。

具体的に考えてみます。一日に一冊の書籍を読むとして、一年に365冊。生涯で読書のできる年月をせ
いぜい70年としてみます。約25,000冊というところでしょうか。もちろん、毎日一冊の本を読むということは出
来ないとおもいますので、この数字よりも実際は少ないのが実情と考えられます。なんとか限界まで考えてみて
25,000
冊、しかし決して大きくないルーテル学院大学の大学図書には80,000冊の蔵書があるそうですし、
年間2,500冊は入れ替わりも含めて新しい本が入ってくるそうです。日本最大の蔵書数といえば、国会図書
館といわれていますが、図書、雑誌、新聞、デジタル資料等その数は現在約5,000万点弱だそうです。まし
て、毎年どんどん増えていっています。

こう考えていきますと、私たちは読書して物知りになってゆくのですが、全体を見れば、知らない情報の方が
圧倒的に多くなっていくのがわかります。更に言えば、手にしていない知識の中に自分の存在に大きく影響を
与えるものがなかったとは言えない・・・考えれ考えるほど、私たちの持つ「知識」というものの性格と限界を痛感
させられるところがあります。このような知識を導入としてマルコの記述へ向かうときに、イエス様の挙動と言葉か
ら、私たちに危機状況にとるべき態度についての示唆が見えてきます。

夕方になってイエス様とその弟子たちを乗せた舟は対岸に渡ろうと出発しました。ところが、「激しい突風が
起こり、舟は波をかぶって、水浸しみなるほど」の危機に遭遇する羽目になってしまいます。予想していなかった
状況に追い込まれて、揺れる舟上で弟子たちが混乱しているだろう様子がわかります。危機状態です。こんな
状況下で、イエス様はどうしていたかといえば、眠っておられました。その周りでは身の危険を感じて慌てふため
いている弟子たちが、何とかしようとしているのですが、イエス様は弟子に起こされるまで「艫の方で枕をして眠っ
ておられた」わけです。同じ舟に乗っていて、同じ危機に囲まれているのですが、弟子たちとイエス様の対照的
に大きく違っていたのをマルコは記しています。この違いを生んでいる原点になにがあるのか。関心が寄せられる
ところです。「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」とイエス様を起こしにかかる言葉には、お願いという
より無関心を責めているような印象すら感じられるのですが、それに答えて、ようやくイエス様は起き上がります
。それから「風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』」と言われます。すると「風はやみ、すっかり凪に」なって、危機は去
りました。どうもおかげさまで助かりましたと終わりにして区切れる場面ですが、マルコの関心は続き、後に続くイ
エス様の言葉を記しています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。たった今起きた危機状況と混乱を振り
返って、イエス様は怖がった弟子たちの態度を、信じることと結び付けて諭されています。これは信じられないか
ら怖くなるのだと解釈しても良いでしょう。「信じられないから怖くなる」。そう言われると思いだす言葉があります
。「疑心暗鬼を生ず」といった格言であったり、「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたした
ちにくださったのです」(テモテⅡ1:7)などの使徒の告白が重なってきます。

私たちの考えには、知識(情報収集)は人間を支え、助けるんだとする筋道があります。構造や、方法を知
っているのが、ピンチへの対処と克服に役立つのは確かです。薬の開発からさかのぼって、予防を重視した医
学の進歩はまさにこれと重なります。しかし、どうしても知識には限界が存在します。この点は湖の物語からも
強く感じます。揺れ動く舟に乗り合わせたのは他ならぬ「弟子たち」でした。他の人よりイエス様に近い存在で
あり、同行する時間も多かったでしょう。繰り返し、厳しい生き様の人を癒し、困難から解放したイエス様の姿
をだれよりも見てきたはずだと思うのです。イエス様に対する知識は人一倍あったと考えるのは間違いでしょうか
。加えて、マルコは弟子たちのうち、少なくとも4人は湖を生活の場とする漁師であったと記しています。漁師と
は、湖のプロ、専門家です。イエス様とは比べものにならないくらい湖の気象や舟の操縦について知識がある人
たちだったわけです。にもかかわらず、彼らの知識が通用しなくて、手だてを失ったので不安が恐怖へと増してい
ったと分析することができるでしょう。

ここでよく考えてみたいのは、私たちも経験する、知識の限界を感じる危機状態でどんな態度をとるのかとい
うことです。というのも、この態度によって大きく人の生き方が変わると思うからです。「やるだけやってみた。でもダ
メ。」この流れが行き着く領域には諦めが待っています。諦めるとは、将棋で言うならば投了であって、改善しよ
うのない終わりを意味します。だって、そこまでいけば「どうしようもない」のですから。

しかし、諦めたその人が根拠としているのは何でしょうか。実は知識に他なりません。更に言えば、膨大な中
から自分が出会ったわずかな知識です。それが通用しないだけなのに、もう全世界の手だてが尽きたかのように
思い込んでいるのです。つまり、本当は手だてはまだいくらでもある。しかしわずかな自分の限界に縛られて諦
めるしかないと観念している、それだけのことなのかも知れないのです。ここまでくるとわかってきます。

イエス様の言葉がこの点を浮き彫りにしています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、ピンチの対処を
知識不足でなく、信じる不足にむすんでおられます。ここで言う「信じる」とはまだなんとかなると希望を信じるだ
けでなく、イエス様がいらっしゃるのだから大丈夫と信頼する、この両方が含まれていると思います。

諦めとは、手だてが尽きる投了でなく、むしろ、信じる気持ちのあきらめからからくるものです。「信じられない
から怖くなる」そうでならば、危機が色濃い状況ほど、信じる心の有無が重みをもってきます。「信は力なり」な
んだとつくづく思います。

厳しい口調で弟子たちをいさめるイエスの言葉には、怒りよりも熱情が感じとられます。何を見て来たんだ!
知識が知識でとどまって、自分を支えるものになっていない弟子たち。肝心なところで信頼が出てこないで不安
がる弟子たち。正直に考えれば、私たちの生き方とたくさん重なってくると思えます。混乱し、希望が見えなくな
ってしまうことは私たちの生活にもしばしば起きてきます。だからこそ「主が共におられる」と言われた約束の意味
はずっしりと重いものだと感じます。

「踏ん張らねばダメだ。それはよくわかっているんだけれども、もう、手だても、気力も尽きている。自分にでき
ることは何も残っていません。」そこでは何ともならない自分を直視するしかないのです。しかし、そうであっても
諦めることはないと慰めるイエス様がいるからこそ、信仰は人を励まし続けてきたのです。だからこそ、普段からし
っかりと、お祈りし、支えを求め、感謝する信仰の出来事を積み重ねていきたいと思います。

お祈りします。天の父なる神様、私たちの小さな経験や知識に縛られて、あなたが用意してくださっている
大きな世界に壁を閉ざしてしまっているならば、どうか、出会いとみ言葉とをもって、私たちの壁を打ち砕いてくだ
さい。そして、あなたの恵みをいただきながら、どっしりと生きていくことができますように。イエス様のお名前をとお
してお祈りします。アーメン

                                    
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