2024年  6月 30日  聖霊降臨後第6主日(緑)

      聖書 :  哀歌               3章 22節~33節
            詩篇               30編
            コリントの信徒への手紙Ⅱ  8章 7節~15節
            マルコによる福音書      5章 21節~43節

      説教 : 『 命の主 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教団讃美歌 :  270、 453、 531、 90

危篤状態に陥っている娘を抱えた父親と、出血の止まらない婦人病に十二年間も苦しんでいる一人の女
。 偶然、危篤状態の娘も十二歳ですから、彼女が生まれた時からずっとこの女性は不治の病に苦しんでい
た事になります。 治る見込みのない病気に苦しめられながら毎日暮らすのも辛いものです。 でもまた、わず
か十二歳、これからが人生という時に死んで行くのも、本人も親も耐え難いものです。

危篤状態の娘の父親は会堂長のヤイロ。 シナゴーグでの礼拝の段取りや、会堂運営の責任を負わされ
て、地域社会で中心的な立場にいる者。 婦人病の女性は反対に、その地域でも片隅で影のように過ごし
ていた者。 対照的な両者、しかし願いの切実さは同じです。

まず、イエスの前に身を投げ出して助けを乞うたのはこのヤイロです。  「イエスを見ると足下にひれ伏して
、しきりに願った。 『私の幼い娘が死にそうです。 どうかおいでになって手を置いてやってください。 そうすれば
娘は助かり生きるでしょう。』」。 会堂長といえば、会堂での説教や礼拝式が、伝統に即して行われているか
どうかを監督する責任ある立場。 その彼が、権威筋からは、うさん臭いものと睨まれているイエスの足下にひ
れ伏して願い出たのです。 必ず後で問題になります。 その役を罷免されるか、悪くすれば会堂から追放で
す。 でもヤイロの思いはただ一つ、「娘さえ助かるなら!」。 当然です。 それが親です。 「我が子が助かる
のなら地獄に行ってもいい。」、そう思うのが親です。 もしイエスが地獄の子だと言うなら、自分も地獄に行こう
。 ヤイロは本気でそう思ったのではないでしょうか。 「そこでイエスはヤイロと一緒に出ていかれた。」 イエスは
即座にヤイロの必死の願いを受け止められます。 ところが、途中で思わぬハプニングが起こります。 「多くの
医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」。 そう
やって十二年間、出血が止まらない女性の出現です。 医療費は成功報酬ではありません。 治っても、治ら
なくても医者代、薬代はしっかり請求されます。 「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ」 という一言には、
当時の
「医者」 への民衆の屈折した感情が映っています。 この女性も必死です。 この機会を逃したら二
度と治してもらえない。 イエスのうわさを聞いた時から、ずっとこの機会を待っていたのです。 この女性の場合
、不治の病の日々、病の辛さだけでなく、人々の刺すような、蔑むようなまなざしが、どんなに重荷であったかも
想像するに難しくありません。 世間は自分の無神経には鈍感です。 患って久しいこの女性も、無神経な言
葉を数限りなく聞かされてきたにちがいありません。 悪いことに、このような不幸な境遇の者に対しては、ユダ
ヤ教も、「汚れた者」
「罪の報いを受けている者」 として、差別を正当化していたのです。 だから本人も、言
われるのはつらいけど、反面、自分がこんな不幸な目に会っているのは、何かの罰だと思ってもいたでしょう。 
堂々と正面から、イエスに願い出るには、「汚れた者」
としては、はばかられたのか、群衆が多くて、それが出来
なかったのか、この女性、群衆に揉まれながら、必死に手を伸ばし、やっとの思いで後ろからイエスの服に触れ
ます。 「この方の服にでも触れれば癒していただけると思ったからである」
とマルコは言います。 ヤイロの願い
と、この女性の願い、二つともにイエスは答えられます。 イエスは自分の内から力が抜けていくのを感じます。 
すると女性は
「すぐ出血が全く止まって、病気が癒されたことを体に感じた」 のです。 清いエネルギーが病ん
だ体に流入して病が癒される。 これは確かに癒しの原形です。 そこには癒し会う命の連なりがあります。 イ
エスと無名の病んだ女、何の連なりもないような二つの命の間にも、思いが届いた瞬間から交流が生じます。 
イエスの命のぬくもりが、冷え切った女の命を暖め癒します。 それは、しかも、イエスがその女性を認識する前
に起こったのです。 イエスは女を探します。 女は震えながら進み出て、ひれ伏し、ありのままを話します。 汚
れた者が聖者に触れた、罰が当たる。 そう思って震え上がったのです。 むろん、イエスの意図はそうではあり
ません。 顔と顔とを合わせて、その女性を見届け、言葉をかけてやりたかったのです。 「娘よ、あなたの信仰
が、あなたを救った。 安心して行きなさい。」 この女性の信仰は、「イエスにかける必死さ」
というに尽きます
。 とてもプリミティブ(素朴)です。 イエスは、それを信仰として喜んで受け入れます。 さて、今度はヤイロの
娘です。 道草を食っている間に、死亡を知らせる遣いがやってきます。 「お嬢さんは亡くなりました。 もう先
生を煩わすには及ばないでしょう。」 しかし、イエスは会堂長に向かって言われます。 「恐れることはない、た
だ信じなさい。」 まだ絶望ではないと。 イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて会堂長の家に
着かれます。 「イエスは、人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。

『なぜ泣き騒ぐのか。 子供は死んだのではない。 眠っているのだ。』
人々はイエスをあざ笑った。 しかし、イ
エスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして子供
の手を取って
『タリタ、クム』 と言われた。 これは、『少女よ、私はあなたに言う。 起きなさい』 という意味で
ある。 少女はすぐに起き上がって歩きだした。 もう十二歳にもなっていたからである。」 不治の病の婦人と、
娘に死なれた会堂長。 前者は地域社会からこぼれ落ち、後者はその中心部にある者の娘。 主イエスはど
ちらに対しても真実です。 不治の病の娘に
「安心して行きなさい。」 と言われたイエスは、今度は、一度死
の門をくぐった娘に、「起きなさい」
と命じて、蘇生させられます。 病む者を癒し、死人を生き返らせるイエスの
命の力。 何と言うことが起こっているのでしょうか。

死の限界は、破られている。 絶対の壁は壊されている。 イエスの福音。 その中で、すべての病は癒され
、すべての命は回復される。 まさにそのことが、ここガリラヤの一角で、力強く現れ出ています。 不毛の砂漠
に、いきなり水が噴き出すように、イエスの行かれるところ、そこここに、命の水が湧き出します。 イエスの命。 
永遠の命。 黙示録21章3節~4節にあるように、「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をこ
とごとく拭い取ってくださる。 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」 後に黙示録記者ヨハネが
見た幻は、イエスの行かれるところ、ガリラヤのあちこちで既に現実だったのです。 むろん私たちは知っています
。 そうして癒された婦人も、蘇生させられた娘も、必死にイエスに嘆願した父親も、例外なく、何十年か後に
は死に、この世にはいないことを。 やはり死は存在し、依然として、死の門はこの世に生きる者が絶対にくぐる
べき門であることを。 でも、主イエスの福音の中で生き、信じ、そして死ぬことを学んだ私たちは、その生存を
脅かすどんな力も、もはや究極の敵ではないことも知っています。 病の床の枕辺にはキリストがいてくださり、ま
た死の門はキリストによって復活の門とされたことを知っているからです。 そうです。 その門は復活の門である
ことを知っています。

お祈りいたします。父なる神さま。 朽ちる私にではなく、命の主に望みをおく者としてください。主イエス・キリ
ストによって祈ります。アーメン

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