2024年  6月 9日  聖霊降臨後第3主日(緑)

      聖書 :  創世記             3章 8節~15節
            詩篇              130編
            コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章13節~5章1節
            マルコによる福音書     3章 20節~35節

      説教 : 『 イエスに満ちた聖霊 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  158、 294、 394、 337

イエスは多くの病める人や体の不自由な人々を憐れんで下さって、次々といやしの業を行われていました。

その中に、「悪霊」 に取り付かれて苦しんでいる人々が大勢いました。イエスはこのような人々をも憐れみ、その人か
ら悪霊を追い出されていました。そのような評判があちらの町、こちらの村で知られるようになり、人々は悪霊に取り付か
れて苦しんでいる人をイエスのところに連れて来るようになりました。

しかし、イエスの評判が高まるにつれ、それを快く思わない人々も現れ始めました。「あの男は気が変になっている。」
と言う人たちが出てきました。また、エルサレムから来た律法学者たちは、イエスの悪霊追放の奇跡を見て、「あの男は
ベルゼブル(これは悪霊の頭の名前です。)に取り付かれている。」
とまで言い始めました。そして、イエスが悪霊を追放
できるには、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているからだ。」という悪評を流し始めました。

イエスの家族や身内の人も、この悪評や噂が入って来たのでしょう。「あの男は気が変になっている。」と聞いて、「イ
エスを取り押さえに来た。」ほどです。家族や身内の人たちも、イエスの悪霊追放の真の意味を理解することができませ
んでした。

身内の人たちがイエスのところに来た時、イエスがいた家の中や外には大勢の群集が群がり、「食事をする暇もない
ほど」騒然としていました。だれでもその光景を見れば、一体この騒動は何事だろうといぶかるほどだったでしょう。イエス
が、「気が変になっている。」と勘違いされても、仕方のないような状態だったと考えられます。

さて、イエスはご自身への、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」などの風評を聞かれて、人々の間違った考
えをただされるために一つのたとえを話されました。そのたとえは分かりやすい日常的なたとえです。「どうしてサタンがサタ
ンを追い出せよう。国が内論で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じよう
に、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」

最初に、国の内乱についてお話をされました。同じ国民同士が、敵と味方に分かれていつまでも戦争をすれば、国
は荒廃し、民の心は乱れ、やがて国そのものが滅びてしまいます。いま、世界の各地で、内乱や紛争が起こっています
。同じ国の中で二つ・三つの勢力が互いに憎しみ合い、残酷な殺し合いをしています。悲惨な光景が映像で放映さ
れています。これらの紛争や内乱で、多くの難民が国外に逃れ、世界の大問題となっています。このような状態が長く
続けば国は荒廃し、滅びてしまうでしょう。

また家庭も同じです。本来なら家族仲良く、夫婦が互いに愛し合い、親子は互いに信頼し合い、兄弟も仲良くし
、互いに助け合っていくのが理想の家庭です。しかし、夫婦、親子、兄弟が互いに対立し、憎しみ合い、もめごとが絶
えないとするなら、その家庭はいつしか崩壊するでしょう。いまそのような家庭崩壊が現実的に進んでいます。そして、苦
しむのはいつも弱い立場にある人です。

イエスはこのようなたとえを話されて、もし、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」なら、それはサタン同士の争
いごとになり、悪霊同士で共倒れになる。そんなことをするはずがないではないかと言われました。

また、続いてもう一つのたとえも話されました。「また、強い人を縛りあげなければ、だれも、その人の家に押し入って、
家財道具を奪い取ることは出来ない。まず、縛ってから、その家を略奪するものだ。」これは大変ユーモアに満ちたたとえ
です。その家に住むサタン(悪霊)を
「強い人」、イエスご自身を「家に押し入る強盗」に例えておられます。それだけに
このたとえは、たいへん印象深いものといえるでしょう。

その家を征服するためには、その家の一番強い人を真っ先に縛り上げなければなりません。そうすれば強盗はやすや
すとその家の家財道具を自分のものにすることができます。

つまりイエスは、悪霊追放はこのたとえのように、家を支配している強い人(つまり、サタン)を、強盗であるイエスご自
身が押し入り、サタンを縛り上げ、追い出して、そして家財道具(つまり、悪霊につかれている人)を奪い取って、サタン
に捕らわれていた人をご自分のものにする行為であると語られたのです。

そして最後にこう語られました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。し
かし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」「永遠に赦されない。」とは、たいへん厳しいお
言葉です。ではなぜ、聖霊を冒涜することが永遠に赦されない罪なのでしょうか。
30節に 「イエスがこう言われたのは、
『彼は汚れた霊に取り付かれている。』と人々が言ったからである。」と書かれています。

イエスが悪霊を追い出しているのは、イエスご自身が悪霊の頭だからではなく、イエスに満ちている聖霊によって悪霊
を追い出しておられるのです。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、マルコ1章9節以下には、「天が裂けて

“霊”
が鳩のようにご自身に降ってくるのを、ごらんになった。」とあります。イエスはこのとき以来、聖霊に満たされておら
れたのです。そして、その満たされている清い
“霊” によって、次々に悪霊を追い出されていたのです。

イエスに満ちた聖霊は、悪霊よりも強い力があります。聖霊は、その人の家に押し入って強い人(サタン)を縛り上げ
、追い出すことのできる強い力を持った霊なのです。ですから、その聖霊の働きを
「汚れた霊」 と同一視することは、聖
霊に対する冒涜であります。

また、聖霊は、私たちを悔い改めに導き、私たちの罪を清める霊でもあります。ダビデはそのことを、詩篇51編12節
~14節で、こう歌いました。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを
退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えて
ください。」
と。

私たちは毎週の礼拝において、「私たちは生まれながらに罪深く、汚れに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を
犯しました。」と懺悔をしています。私たちはこの懺悔のように、罪深く、汚れに満ちています。しかし、その罪と汚れを聖
霊は取り去ってくださるのです。ですから、聖霊に逆らうことは、この罪の懺悔の機会や悔い改めの機会を永遠に失うこ
とでもあります。悔い改めることなくして、だれも神からの罪の赦しを受けることはできません。ですから、そのような意味で
も、聖霊を汚す罪は「永遠に赦されない。」のではないでしょうか。

私たちは罪深く、汚れた者であり、今なお多くの罪を犯しますが、しかし、神が聖霊を与えて、私たちの罪の汚れを
いつも清めてくださっていることを覚えて、心から感謝いたしましょう。

お祈りいたします。神さま。御子イエス・キリストは汚れた霊に苦しむ多くの人々を憐れみ、これをいやしてくださいまし
た。どうか今も悪しき霊に苦しむ人々をお救いください。また、あなたは清い霊を私たちにも送り、私たちの罪と汚れを取
り除いてくださいます。私たちを聖霊に言い逆らう罪から守り、あなたの清い霊で満たしてください。イエスの御名によって
祈ります。アーメン

                                            
戻る