2024年  7月 21日  聖霊降臨後第9主日(緑)

      聖書 :  エレミヤ書            23章 1節~6節
            詩篇               23編
            エフェソの信徒への手紙    2章 11節~22節
            マルコによる福音書      6章30節~34節、53節~56節

      説教 : 『 空腹を満たし 病人を癒す 』
                      木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  187、 410、 333、 467

人が自分の生命に危機を感じるのは、空腹と病です。

単純に自分の気の持ちようだとは言えない状態であるからです。

母親が、嬰児に食物を与え、排せつの世話し、安全な眠りを与えるように、

同じく、すべての人が生きてゆくためには、基本的人権の見地からして、最低限の確保必要なのでは
ないでしょうか。

地球上の人口と、地球から生産される食物の量は、計算上は十分に賄える、と言われております
。飢える人がいるのは、配分の課題と富の偏りに因ることが大きな一因です。全てが貨幣に換算され
る時代にほとんどの人が生きております。どれだけの金銭的収入がその個人に保障されて、担保され
ているのか。そのための政治の政策が必要です。国民から委託された税金からの国家予算を何に、
どこに優先的に支出するか、それが問われるゆえんです。その人にとって、生活するうえで、適切な職
を得るためには、今日では殊に大学教育とそれ以上の教育を受ける機会が不可欠です。幼稚園から
大学卒業まで無料にしている国は、フランスや北欧諸国では当たり前なのです。教育の無償化、それ
は福祉的見地もありますが、根源的には国家がする最優選の投資先なのです。国は必ずその見返り
を受け取れるのです。

<参考1>

ドイツでは原則無償です。完全無償ではなくても、スペインやイタリアといった南ヨーロッパでは、学
費が比較的安く、学生のパートタイム労働で賄うことができます。イギリスやオーストラリア、ニュージー
ランドといった英連邦の国々は特殊で、学費が後払い制です。日本では、多くの国民の意識に加えて
、日本のエリートである自分たちに追いついてきたら困ると考える一部の階層と有力政治家の考えが
阻んでいる面があります。

<参考2>

日本の大学無償化政策が進まない明確な理由の一つに、日本の教育観にあります。「子どもの
教育には親が責任を持ち、資金を払う」
という考え方が強く、「自分の子どもや孫には教育費を出
資するが、公共政策として教育費のために税金を出すことは望まない」
という思考につながってい
ます。複数の調査で、高等教育の無償化に賛成する人は国民の約3であることが分かっていま
す。高校卒業生の保護者を対象に調査しても、この結果は変わりません。国民の支持がないた
め実施できないというのが現状です。

一部の産業が利益を占める軍事産業や武器の輸入には何兆円もの税金からの支出を決めてお
りながら、それに比べれば、大学教育への学生支援と大学の諸研究機関への支出は漸減傾向のまま
です。共産主義国家でなくても、議会主義国家に於いても高教育への無償化は十分に可能なのです。

イエスが神の福音を宣べ伝えた時代はどうだったのでしょうか。福音書を読む限りでは、飢えてい
る多くの人と病人がイエスのもとに集合していたのです。

6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐
れみ、いろいろと教え始められた。

この節では、すぐにパンを与える奇蹟は行わずに「深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
とあります。

主イエスは人の生き方を先ず教えたのです。

ここには、群衆(人間)は教えれば分かってくれる。と言う人間を尊重しているイエスを表現し
ているのです。ただパンを与えさえすれば、彼らは喜ぶのだから・・。とパンの奇跡ではなく「話
せばわかる・教えれば理解してくれる」と、群衆への尊敬が見えます。教育とはそういうものでは
ないでしょうか。嬰児は言葉が分からないのだから、と全く話しかけないとしたらどうなるでしょう
か。

今は言っていることがわからないとしても、その嬰児を見つめながら父母・兄弟姉妹は話し
かけるのです。その結果、嬰児はある日突如、ある単語を発語するのです。それを聴いたみん
なが驚き喜ぶのです。そうした反応の中でこの子は言葉を覚えてゆくものです。

群衆はどれだけイエスが語る神の国について分かったでしょうか。個人差があった事でしょ
う。神の国については、聴く人すべてが、同じように理解して、受容すると言う領域ではありませ
ん!!主イエスは仰いました。「先のものが後になり、あとのものが先になる」と。

『観無量寿経』では上品(じょうぼん)・中品・下品の在ることを記述しています。坐禅では修
行過程で頓悟・漸悟と表現しており、唯識思想では直往・迂会と言ったりしています。弟子たち
は同じ師から教えを受けるのですが、理解に至るその程度は聴く側の素質?によって、その速
さ深さは異なることを師も弟子も経験しているのではないでしょう。

主イエスは譬えによって神の国の到来を告知いたしました。それは認知能力によらず、聴く人の感
性・霊性によって招かれてゆく次元の世界であると言えましょう! 「 はっきり言っておく。子供のよ
うに神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 
大人の認知力に
よらず、
幼子の感性・直観によって神の国には入るのだ、と、語られております。

52節では、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と。 
ここでは認知力が鈍くなっていたのではあなく、「心」が鈍くなっていたからである。と言うのは、そう
したパンの奇跡を神の出来事として受容して深く信頼する心根の事を言っているのです。

主イエスの癒しには、健常者と病人、壮年と老人への分け隔てが無く、たとえ様々な病に罹ってい
ても、その人の人としての尊厳を尊重して、労わられたのです。今、年老いて認知力や身体機能が緩く
なって来たとしても、その人には壮年と変わらない固有の尊厳があるのだ、と、主イエスは、明確に示
され、御自身が懇ろに接して、癒されたのでした。アーメン

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