2024年 7月 28日 聖霊降臨後第10主日(緑)
聖書 : 列王記下 4章 42節~44節
詩篇 145編 10節~18節
エフェソの信徒への手紙 3章 14節~21節
ヨハネによる福音書 6章 1節~21節
説教 : 『 共に食し、生きる 』
光延博牧師説教 信徒代読
教会讃美歌 : 190、 386、 181、 371
普段の生活の場から離れて自然の中に身を置いたときに癒された経験があることと思いま
す。そのような癒しの時は苦労の多い私たちにとって必要なのではないかと思います。主イエ
スは山に登り、腰をおろして座られます。弟子たちや群衆も一緒に座ります。大自然にいだか
れる中でこの方と一緒に座っている人々に神様の安らぎと癒しが与えられたであろうことを想
像いたします。また、そこに私たちもまた一緒にいることを思い浮かべるなら、人々と共に主
の恵みに満たされるように感じることができるのではないかと思います。
慈しみ深い主イエスのもとに安心して身を置けます。何でも聞いてくださるお方です。今
礼拝堂に来て、あるいは今いる場で、私たちは神様からの礼拝をいただいています。友となっ
てくださった主イエスが共に座っていてくださっています。兄弟姉妹が一緒に座っています。
「見よ、兄弟姉妹が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と詩人がうたってい
ることを覚えます。静かに慈しみ深い神様に心を向けます。大自然の中ではないけれども、ま
るで青草の原が拡がり、憩いの水のほとりが見えるような、安らぎと和らぎ、休息がここにあ
るのではないでしょうか。
マタイによる福音書11章25節以下を思い出します。「天地の主である父よ、あなたをほめ
たたえます」と幼子のごとくに語り出される主イエスはこう言われました。「疲れた者、重荷
を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者
だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られ
る。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。主と共にアッバ(とうさ
ん・父なる神)を想う私たちのもとには癒しと、安らぎを受けて歩み出す力とが与えられてゆ
きます。このことがこの福音書6章後半で言われてくる、まことのパンである主イエスご自身
を食べることです(57節など)。
私たちが食べる主イエスとはどういうお方でしょうか。主イエスはアッバの永遠のいのち
(神の国)の中に全被造物は生かされ、生きておられることを知っておられます。「主の家に
わたしは帰り 生涯そこにとどまるであろう」と詩編23編でうたわれているように、どこでも
いつでも今ここに共におられる神様の御許で憩い、安らぎ、楽しみ、そして悲しみ、苦しまれ
ました。あらゆる状況、私たちのどんな感情も、神様の中にあります。アッバを現された主イ
エスをまるごと食べ、私のこととして受け止めたいと思います。すべては慈しみ深い神様の中
にある、このことを体現する主イエスに人々は魂で感じ取り、大勢押し寄せて来たのです。し
かし、魂で感じても最後には我に立った人々は、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶことに
なったことを私たちは知っています。
主イエスのお語りかけを聞きましょう。主イエスのもとで私たちは、神様の中に在る私、
私たちに気づかされると思います。神様は今ここにあるそのままの私、私たちを受け止められ
ています。私たちが私たちを本当に生きられる道がここにあると思います。「そこ」(3、10
節。「ここ」9節)では私たちはなんら自分を飾る必要も、自分を義とする必要もありません
。そのまま義とされている私たちを知るのです。
主イエスはあるがままに草の上に座るように促されます。人間の功績でできたのではない
大地の上に、です。動から静へ、自らの行動をいったん止めて、草や木が大地に根を張ってい
るように、私たちの命そのものが神様に根差しているそのままに座るようにされます。そこに
神様の罪の赦しと新しい力が備えられているのです。
「草にすわる」という八木重吉さんの詩があります。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
私たちを知り、すべて受け止めておられる神様の御前に、動くことを止めしずまるとき、
神様の御赦しの中で、初めて自分自身を見ることができるようにされます。自分で自分を義と
しようとする強迫観念も、防御するバリアも必要なくなるからです。普段自分のことを棚に上
げて、あの人がまちがっている、私はまちがっていないという執着に囚われている私たちの姿
を省みる余裕が与えられます。受け止められる中で溶かされ解き放たれるのです。
神様はご自身の正義にこだわって人間の罪深さに対して罰するどころか、「深く憐れみ」
(マルコ6:34)、背負い、慈しみを注がれ続けられています。御子主イエスによって、神様
に赦されて生かされている自分を、愛され祝福されている自分を知るとき、同時に私たちは自
分の罪やまちがいを見させられるでしょう(義人同時に罪人:ルター)。これも恵みです。共
に生きる幸いに導かれているからです。神様の御赦しの中で赦されている私が見えたなら、同
様に赦されている他者が見えます。全被造物は御赦しの中に存在していると知らされます。主
イエスが現わされた神の国の安らぎは私たちを楽にし、自己執着から解放し、安らぎと自由へ
の主イエスと共なる軛へと招くのです。
私たちは主日の祈りでご一緒に祈りました。「恵みの神様。あなたは私たちの心に、御言
を慕い、真理に飢え渇く思いを起こしてくださいます。御子こそ天よりのまことのパンである
ことを悟り、このパンを世の全ての人びとと分かち合うことができますように。救い主イエス
・キリストによって祈ります。アーメン」と。神様の御守りと御導きを生きる主イエスこそが
私たちに必要な日ごとの糧です。私たちの毎日は神様のお力によって支えられていることを味
わいます。「ここ」から泉は湧いて来るのだと思います。
ここは神の国です。ここは永遠のいのちなる神様の中にある世界です。どんなに闇が大き
く見えようとも、真の支配者は慈しみ深い神様です。少年が差し出した、貧しい人々の食物で
ある大麦ののパン五つと魚二匹は、我のまなこには取るに足りないものに映っていたでしょう
。否、神の国の中ではその分かち合いは決して小さなものではありません。神様のご支配(国
)のここでは、その御心に適う分かち合いは祝福されます。大きく用いられます。神様の恵み
を共に味わい分かち合うことができます。この世界に与えられている慈しみ深い神様の恵みに
こそ目を向け、その恵みを分かち合える、助け合うという本来自然な歩みへと私たちは導かれ
るのです。支えられているから支え合えます。奪い合えば足りない、分け合えば余ると言える
のではないでしょうか。
動から静。そして静から動。生きて行くとき嵐は必ずあります。しかし慈しみの神様の中
に在る嵐に過ぎません。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わた
しは既に世に勝っている」(16:33)と、アッバの中に生きる主イエスは嵐の上を歩いて私た
ちのもとに来てくださいます。いつでもどんなときでも来て下さいます。「わたしだ(わたし
が共にいる)。恐れることはない」と、空から、大地から、野の花から、陽光から、夕陽から
、月の光から、動物・植物を通して、他者を通しても、やって来て、静かに語りかけてくださ
るのです。