2024年  8月 11日  聖霊降臨後第12主日(緑)

      聖書 :  列王記上            19章 4節~8節
            詩篇               34編 2節~9節
            エフェソの信徒への手紙    4章25節~5章2節
            ヨハネによる福音書      6章35節、41節~51節

      説教 : 『 世を生かすパン 』
                    伊藤節彦牧師(栄光教会) 信徒代読

      教団讃美歌 :  537、 187、 355、 494

私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、

皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン

【序】

ヨハネはかつて主イエスが五つのパンで五千人を養われた記事を回想しながら、自分たちの
教会が今直面している問題を記しています。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元
90年頃ですが、
当時ユダヤ教はキリスト教会を異端として迫害するようになり、その中で教会は弁明を強いら
れました。

ユダヤ人にとって最大の神冒涜、躓きは「イエスこそ天から降られたパン」、つまり「神か
らのメシア」であるということです。この言葉にユダヤ人は呟きます。「これはヨセフの息子
のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、私は天から降って来たな
どと言うのか」(
42節)。

主イエスは言われます。「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも
私のもとへ来ることはできない」(
4344節)。信仰とは人間の側が選ぶ事柄ではないと主は
言われます。ルターが語ったように「信仰とは私のうちに働かれる神の御業」だからです。現
代でも多くの人々は「信じる、信じない」の決定権を持っているのは自分であり、理性で納得
できないことは全て否定して、信じようとしません。しかし「信じないことによってあなた方
は既に裁かれている」(
3:18)とヨハネは言います。何故ならば命の源である神と出会うこと
が出来ないからです。

今日の日課には先週の日課の最後35節が橋渡しとして加えられています。「イエスは言われ
た。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを
信じる者は決して渇くことがない』」。つまり、このみ言葉が今日の鍵となります。

この35節について、釜ヶ崎の「喜望の家」に長く関わっておられる永吉牧師が次のように語
ったのを覚えています。

 

「飢えることも、渇きを覚えることもない」という主の言葉を思い巡らすとき、   釜
ヶ崎で出遭った路上生活の方の言葉が忘れられません。それは、「生きることも出来へん
。死ぬことも出来へん」という言葉でした。「人はパンだけで生きるものではない。神の
口から出る一つ一つの言葉で生きる」というイエス様のみ言葉がありますが、  その意
味を、その日に飢え、路上で眠る方々は知っています。・・・足りないものはパンだけではな
いのです。

そこで、路上生活の当事者や経験者に、「人はパンだけで生きるものではない」のなら
、何が必要だと思われますか
? と尋ねると、ある人は、しばし考えてから、「それは仲間
やな!」とお答えになりました。その意味は、人は一人では生きられないという深い実感
に他なりません。「飢えることも、渇きを覚えることもない」という言葉が真実となるの
は、一緒に生きている仲間がいるという事実と実感に裏付けられる時だからです。

 

【破】

今週は終戦・敗戦記念日、そしてお盆を迎えます。興味深いことにフランシスコ・ザビエル
1549年に来日し宣教を開始したのは815日でした。平和はキリストの福音によってこそも
たらされるということを指し示しているように思えます。

ところで、アンパンマンの作者の〈やなせたかし〉さん、アンパンマンが最初に発表された
時、とても評判が悪かったそうです。それは子ども達からではなく、親たちからでした。なぜ
なら、アンパンマンがお腹を空かせている友達に、自分の顔を分け与えるという姿が残酷で怖
いという理由からでした。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(
60
節)とい
う人々の言葉がここにも響きます。やなせさんはアンパンマンの誕生を次のように語
りました。

 

ぼくは優れた知性の人間ではない。何をやらせても中ぐらいで、むつかしいことは理解
できない。子どもの時から忠君愛国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で
、正義の戦いと言われればそのとおりと思っていた。正義のために戦うのだから生命をす
てるのも仕方がないと思った。しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義
は或る日突然逆転する。正義は信じがたい。僕は骨身に徹してこのことを知った。これが
戦後の僕の思想の基本になる。逆転しない正義とは愛と献身だ。それも決して大げさなこ
とではなく、目の前で餓えている人がいれば、その人に一片のパンを与えること。これが
アンパンマンの原点になった。

アンパンマンは誰にも期待されないで出発した。子どもたちとおんなじに、ぼくもスー
パーマンや仮面ものが大好きですが、いつも不思議に思うのは、大格闘しても着ているも
のが破れないし汚れないし、誰のために戦っているのか、よく分からないということです
。本当の正義というものは、決して格好いいものではないし、そのために必ず自分も深く
傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えません。アンパン
マンは、焼け焦げだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、恥ずかし
そうに登場します。自分を食べさせることによって、餓える人を救います。それでも顔は
、気楽そうに笑っているのです。さて、こんなアンパンマンを子どもたちは、好きになっ
てくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。

 

福音書に戻りますが、パンの奇跡が行われたのは過越祭が近づいていた頃だとヨハネは語り
ます。このパンの出来事と十字架を重ねているのです。群衆はイエスを王に祭り上げようとし
ました。しかし、主は、苦難の僕として私たちの前に現れます。王冠を被り、軍馬に跨がる権
力者としてではなく、茨の冠を被り、子ロバに乗り、十字架上でご自分を引き裂いて私たちに
命のパンを与える格好悪いヒーローとして。

 

 

【急】

主イエスの招きは、上辺だけの付き合いではありません。「同じ釜の飯を食べる」仲間に加
わることです。「一緒に食事をする」ことは、人々の絆を生み出し、その絆を確かめ合うこと
。ユダヤ人にとっては、食事を一緒にするということは礼拝を一緒にすることと同じ特別な意
味を持っていました。パンは神さまからの賜物。感謝の祈りを捧げて食べます。ユダヤ人にと
って食事とは、神の恵みを思い起こしながら、心と体を養う神聖な時間なのです。そして、地
上で人間同士が共にする会食は、神のもとでの会食の先取りだと考えられました。地上で共に
食事をする共同体は「神に救われる者の共同体」を表していたのです。だからファリサイ派の
ような熱心なユダヤ人は決して「罪人」のレッテルを貼られた人とは食事をせず、イエスの行
動に躓きます。だからこそ、主イエスは罪びとと一緒に食事をしたのです。

会社のことを英語でカンパニー(company)と言いますが、これは「共にパンを食べる仲間
」という意味です。それは単に同じ釜の飯を食う間柄を越えて、イエス・キリストという真の
命を頂戴する、分け合う共同体です。そして何よりもこの共同体は教会であり、聖餐式はその
象徴であります。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば
、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことであ
る」とはそういう意味です。

主イエスが招かれた者達、その多くは罪人と呼ばれる者達でした。ファリサイ人が考えた意
味とは真逆の意味における「神の共同体」がここにあるのです。教会とは人間的に考えて、好
ましい人たちだけが集まっている訳ではありません。中にはどうしても好きになれないような
人がいます。もし、全ての人たちが仲良しだとしたら、そこには偽善か異質な者を排除しよう
とする何かがあると言って良いでしょう。教会とは主イエスの時代から変わらず「問題だらけ
の人々の集まり」だったのです。

しかし、そのような者たちを聖書は「聖徒の群れ」と呼ぶのです。それは地上にいる私たち
だけのものではありません。
お盆の季節でもありますが、私たちは聖餐式を通して、「天上に
ある見えない教会」と「地上にある見える教会」とがキリストの恵みの食卓を中心として共に
交わり、天における祝宴の先取りにあずかるのです。

キリスト者とは、イエスを主として信頼し、十字架で私たちに与え尽くされた命の糧を共に
頂く仲間です。カンパニーなのです。どうかこの命の糧に共に生きる仲間となってほしいと、
主イエスは心から願っておられる。この食卓は、各自が「個食」を持ち寄る場所ではありませ
ん。引き裂かれたこの世界にあって、もう一度キリストという一つの体に繋がる出来事なので
す。パウロが「わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パン
は一つだから、わたしたちは大勢いても一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるか
らです」と語るとおりです(Ⅰコリ
10:16~17

ここに神の子キリストが私たちのためにご自身の肉を裂き、血を流して下さった神の愛が示
されています。ですから、私たちはどのような試練や困難、悲しみの中にあっても、その私と
共にいて下さるお方を信じることが許されている。そして例え死が私たちを引き裂いても、引
き裂くことの出来ない希望に生きることが許されている。ですから、教会に年に一度のお盆は
ありません。必要ないからです。私たちは毎週の礼拝において、先に天に召された者も、地上
の生涯を歩む者もキリストにおいて一つの命に生かされていることを知っているからです。

私たちもまた、いつか、その天の群れに加えて頂く日がやってきます。しかし恐れることは
ない。私たちは既にこの命のカンパニーの一員だからです。

 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、

聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせて下さるように。アーメン

 

以上本文  3,815
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