2024年  8月 25日  聖霊降臨後第14主日(緑)

      聖書 :  ヨシュア記            24章1節~2節a、14節~18節
            詩篇               34編 16節~23節
            エフェソの信徒への手紙    6章 10節~20節
            ヨハネによる福音書      6章 56節~69節

      説教 : 『 食べて、生きる 』
                  光延博牧師(静岡教会) 信徒代読

      教団讃美歌 :  24、 240、 404、 532

主の兄弟姉妹。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。なんと刺
激的で、ちょっと聞いただけでは訳の分からない言葉でしょうか。イエス・キリストは祈りを込めて、心を込めて私たちを慰
め励まそうと叫び給うておられます。罪に翻弄されている私たちのことをはらわたのちぎれんばかりに痛み、アッバ(とうさ
ん・父なる神)と共に己が悲しみとし、救いに至らしめようと、わたしはそれで死んでもよいと、あなたが元気になるならわ
たしの本望だと、御身を差し出しておられるのです。

「初めに言(ロゴス)があった」(11)と福音書記者は福音を語り出します。ロゴスとは「罪人に対する神の意志
と究極的意思表示」などと辞書で説明されています。言葉の中の言、言葉になる前のご意思(御心)と捉えていい
でしょう。私は「理法」としても覚えています。精神科医であったビクトール・フランクルは「意味」と訳しているようです。

「初めに、神は天地を創造された」(創11、※マタ53435)、「初めにロゴスがあった」、神様が共におられ
るというインマヌエルの理法の中に人生すべてはあります。御働きなるロゴスに生命があり、光があります。そして「言は肉
となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真
理とに満ちていた」(114)のです。この光は暗闇の中で輝いています。暗闇はその光を理解できなかったと、口語
訳では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」と、目を開かれた福音書記者が私たちに語
りかけています。

「わたしは既に世に勝っている」(1633)と世の初めからいますキリストは真理を啓示し給い、パウロは「死は勝
利に飲み込まれた」(Ⅰコリ1554)と、ロゴスを私たちの耳に響かせます。「母の胎にあるときから」(ガラ115
)私たち全被造物は救いに決定されており、初めからそこに置かれ、最後の最後まで愛というロゴスの「神の中に生き
、動き、存在する」(使1728)のだ、と二千年の時空を超えて私たちの耳に届いて来たのです。私たちはご一緒
に血肉として成った神の言・御子のみことばに聞こうではありませんか。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」。これは、ナザレの人間イエスに現れた永遠のキリストに「とどまる」ことと同義
です。この「とどまる」という語はヨハネによる福音書の重要語として繰り返し用いられます。まず、神の法(ロゴス)キリ
ストはインマヌエルなる方として私たちにとどまっておられる、だからこそそのご真実にとどまるようにと繰り返し繰り返し私た
ちに呼びかけ給うのです。

自己中心性という「肉」を帯びている私たちは救いの主を排除し、殺す者でしかありません。にもかかわらず神様は
決して見捨てられません。神様の救いから外れることは私たちにはできません。これがロゴスです。全宇宙を、全被造物
を、一人ひとりを包んでいる理法です。そしてここに、私たちは全く一つ、一体なのです。量子力学の言説を聞かずとも
、生命の事実からこの事が真実であるのは明白です。

旧新約聖書全巻は「直説法と命令法」で貫かれています。真理なる神様の愛というご真実が初めから最後まで厳
然とあります。これが直説法で説かれる生ける神というロゴスです。だからこそ、「そこ」にとどまれと命令法で呼びかけ給う
のです。あなたが立っている神の座を認識せよと。「立ち帰って、生きよ」(エゼ1832)と。

初めから無いのに、「とどまる、とどまれ」ということは無理というものです。有るから、無くならないから、「とどまれ」と呼び
かけられているわけです。そしてここにある神様のロゴスに、究極の時(終わりの時・永遠の今とその連続)の復活(
39
404454節等)があります。この光が闇を打ち破っています、どんなに罪の闇が見えていようとも。そこに私た
ちは今もそして永遠に置かれている。だから、今いるここへ今ここで絶えず呼ばれているのです。

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って多くの弟子たちが主イエスのもとを去って行きました
。我(「肉」)の感覚では理解し難い真事だからです。これは私たちの「肉」の反応です。自分をよくよく顧みるとこの
性質が自分にあることが容易に分かるはずです。主イエスが示されたロゴスにとどまるのではなく、自己中心性に、自分
の願望や欲望(イメージ・偶像)にとどまろうとする私たちが見事に表されています。自分の思い通りになることを追い
求めている肉の座(内なる我)ではロゴスは理解できません。そのように神様が私の命・生活・人生を成り立たせてお
られるというロゴスを見ようともしない性質を私たちは持っていて、自分の力で生きていると錯覚しがちな私たちなのでは
ないでしょうか。しかし実は、初めから私たちの内なるキリストは知っています。内なるキリスト・聖霊の座では私たちは聞
いているのです。

去って行った人々は確かにロゴスを聞きました。そのとき何を言っているのかさっぱり分からないロゴスに困惑し、怒り、
憎しみを呼び起こした、つまずきました。この事は重要です。

最も身近にいた使徒たちは主イエスがいよいよ十字架につけられようとするとき、裏切ったり、逃げて行ったりしたことを
福音書は重要なこととしてしっかり書き留めます。この部分は削除してはならないからです。この事が後で効いて来ること
になります。自分の我に振り回される私たちではありますが、神様に赦され、絶えず復活へと呼ばれているというロゴスを
いつかは知ることになります。

主イエスから聞かされていた事が忘れ得ない言として心の深層にとどまっていることにならざるを得ません。本当の事を
知覚する「神の似姿」が、この神様の決定が失われることなど不可能だからです。このロゴスなる神に憩うまでは私たち
は安らぎを得ることはないというある人の証言は本当です。主イエスが挙げられた後に弟子たちは立ち上がることになりま
す。

風は思いのままに吹きます。自分の力で生きているという錯覚が打ち破られる時は必ず来ます。肉(体)の死は例
外なく誰にでもやって来ます。その時、生きようと計っても自分ではどうにもならない真実を、実は自分の力で生きていた
のではなことが、神様によって生まれ、生かされて来たし、生かされていることが明らかになります。

主イエスが「あなたがたも離れて行きたいか」とお尋ねになった時、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きまし
ょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っていま
す」と内なるキリストによってお答えさせていただけました。後に主イエスを否み、自らの不確かさに打ちのめされる彼こそ
が、変わることなく愛を貫かれる神様の愛に打ちのめされます。彼は自分の力へではなく慈しみの神様への歓喜に涙し
立ち上がるのです。

ペトロはその後でイエス・キリストから離れることが何度あったとしても、御救いを呼び覚ますために追って来る光(詩
23
)のもとにあって、自分の闇は光に照らされた闇として、受け止められている弱さとして、それは復活に至らせる重要
な契機となるでしょう。闇とは光の中の闇だからです。それを見ることができるのは人間の信仰の力では全くなく、神様の
恵みです。平安と歓喜とへ導く(159以下)キリストの御力によって、「意味」が本来の意味を取り戻させられます
。そこでは過去もまた御赦しのもとに瞬間瞬間が御慈しみの光に包まれていたことを知らされるでしょう。そしてそれは今
もそうだし、永遠の神様の内に永遠に在るのだと、すべては御救いの中にかけがえないものであったと気づかされるので
す。

神様のロゴスに包まれて、同様に弱い私たちも弱いペトロと一緒に告白したい。ペトロと共に神様への賛美の大合
唱に加わり、天のオーケストラに合わせて第九のごとく歓喜の歌を叫びたい。主に在る誇り高き者として、弱いまま御慈
しみの中に尊い者と見られているままに、御赦しなる神様を感じる者へと私はあなたに向けて造られたという驚くべき恵
みに打ち震え、そして弱い者同士いたわり合い、助け合う祝福が備えられていることを味わいたい。

「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わた
しの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって 呼ばれている者です」(エレ1516)。
ご愛のお語りかけが聴こえて来たならば、むさぼり食べようではありませんか。私たちのまことのパン(日ごとの糧)が到
来しているのです。神様を呼び返そうではありませんか、あなたこそわが命であると。

御言葉は蒔かれなければ、見い出すこともできないでしょう。世(肉)は知りません、そして語りません。神様の教
会がこの御言葉を語るのです。委託されている教会である私たちが語らなければ、誰が語るというのでしょうか。イエス・
キリストを宿す私たちが地の塩・世の光として神様の愛された世(316)に生き、同胞と共に生きようとしないなら
ば、誰が福音を知らされるでしょうか。福音を共有してほしいと熱情なさる神様にご一緒に生かされていきましょう。

天の神様。あなたは呼び続けてくださいます。いくら私たちが離れても私たちはあなたの内に在り、そこから離れること
はありません。私たちは生きる限りあなたをほめ歌います。あなたが私たちの口に賛美を起こしてくださるからです。

どうか私たちがあなたを現してくださった御子の生身のお姿、私たちを根底から支えて幸いを祈り、導いていてくださる
、僕の御姿・御かたち、命そのもの、その血肉まるごとを食べ、そうやって励ましてくださるあなたの御心の内に歩めますよ
うに導いてください。

困難の内にある方々をあなたが支えてくださっています。ならば、どうして私たちが支え合わないはずがありましょう。支
えられ支えるためにあなたが命を与えてくださったからです。どうか私たちをあなたに依ってあなたのために遣わしてください
。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

                                         戻る