2024年 8月 4日 聖霊降臨後第11主日(緑)
聖書 : 出エジプト記 16章2節~4節、9節~15節
詩篇 78編 23節~29節
エフェソの信徒への手紙 4章 1節~16節
ヨハネによる福音書 6章 24節~35節
説教 : 『 愛に根ざして真理を語れ 』
木下海龍牧師
教団讃美歌 : 298、 514、 291、 217
聖霊降臨後の教会暦はアドベント迄の長い暦の時節が続きます。
教会暦の流れの節目は、イエスの誕生と十字架へと向かう生涯と教えの語録が語られて行
き、十字架刑による死・復活・昇天・聖霊降臨の出来事へと続いてゆきます。
聖霊降臨後の季節に入っているこの暦の今は、主イエスの言葉と出来事を受け入れたキリス
ト者が生きて行くための基本的な指針となる生き方を語り聞かせることに主軸が置かれていま
す。私共も、本日はエペソの手紙から聴き取って、この先の自分の人生を歩んで参りましょう。
本日の説教題に用いた言葉はエペソ人への手紙から借用いたしました。
パウロはイエスに、直接には逢っていないのですが、強烈な主イエスとの内的な出会いをした
結果、信仰告白に至り、使徒に召されたとの自覚から異邦人伝道といわれる世界宣教へと、苦
難の続く伝道旅行に出立したのでした。
もともと教育的にも心情的・儀礼的にユダヤ教の篤い信仰教育を受けていた人でしたが、内
的にイエスによる聖霊体験を強烈に受けた結果、困難だからとみ言葉を宣べ伝えないのは、災
いであると告白しております。それだからと、自分かってに福音を宣べ伝えたのではなく、エルサ
レムまで登り、ヤコブはじめ長老たちからの異邦人伝道の許可と支持の下で伝道活動を開始し
たのでした。
パウロの主イエスへの信仰の経緯は使徒言行録に詳しく記述されております。
その彼がエフェソ人への手紙を書き残した文書であります。
「この手紙の後半では本書簡の特別なテーマである「一致と調和」に則った上で、それを人々
に勧告する際の目標となっている。近年の研究では、次のように説明されている。一つの教会
に宛てられた手紙でも、不特定多数の教会に宛てられたものでもなく、ラオディキアとヒエラポリ
スのキリスト者に宛てられたものである。
エフェソでパウロと出会って改宗した後に、帰郷したエパフラスによって、これら二つの町はキ
リスト教へと導かれたものと思われる。コロサイのキリスト者と同様、恐らくこの二つの町のキリ
スト者も主として異邦人からの改宗者であり、彼らはパウロを個人的には知らなかったものと思
われる。
本書簡はローマにおけるパウロの最初の獄中生活の期間、紀元61-63年であったと考えら
れる。」
(フランシスコ会 聖書研究所訳註から引用)
エフェソ4:15「むしろ、愛に根ざして真理を語れ」
この言葉から、以下のイエスの言葉が連想されました。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさ
い。』 これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:36~40)
『隣人を自分のように愛しなさい。』
イエスはヘブライ語を知っており、時にはそれを使っていましたが、日常の会話や説教におい
ては、通常、アラム語を話していたと言われています。それらを、コイネ・ギリシャ語に翻訳した
わけですが、その段階で言語的制約と、さらに訳者の文化的宗教背景と翻訳力量の制約など
があって、「隣人を自分のように」としたのではないでしょうか。
ここでの当時のイエスの立ち位置からすると、「ように」ではなく、もっと直接的・一体的な表現
であったのではないかと推察されます。
「隣人則自分」と明示しなければ、宗教指導者と対峙した時の言辞としては、本源的に宗教性
を表して・神の真実を表現すする内容からは遠くなってしまいます。それでは単に、人付き合い
の心得に終わって、自己変革が起こって参りません。
私の禅の修行体験から学んだ見解からすれば:「不二」の世界=内外打成一片の心境だと
思います。
内(主観)と外(客体)が一つになる。その見性体験から、真如への気付きへと至ります。修業
実践で辿り着いた境涯だと理解するのだけれど、さらに時節を経て見ると!! それは凡人で
ある人間から聖人になるとか、そこへと到達すると言った次元ではなくて、すでにそうした人間と
して産みだされてあるのだと気付いて行く境涯の世界であるのです。
イエスは宣いました「 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マ
ルコ10:15)
ここでの子供とは、意識的に良い子になろうとする以前、褒めらることを意識せずに天地と
周辺大人を眺めていたころの子供だと言ってよいでしょう。
「むしろ、愛に根ざして真理を語り・・・・キリストに向かって成長していきます。」15節
何故ここで、パウロは「もしろ」と言う言葉を挿入せざるを得なかったのでしょうか。
それは、直前の12節では「奉仕の業」「信仰と知識」「成長」「未熟なものではなく」「神の子を
深く知る」「成熟した大人」「もはや子供ではない」「引き回されたりすることなく」・・・と言った文言
を連ねて読み手を熱く啓発するための言葉を並べ続けたと気付いたからではないでしょうか。
読者である聞き手は、理性的に賢く、物事には熱心に対処しなければならない!!と捉えが
ちになるとパウロは気付いたのではないでしょうか。
そこでパウロは、「むしろ、愛に基づいて真理を語り」の文言を挿入したのです。なぜならば、
神の真理は理性的認知によっては捕捉できないからです。それは必ず愛によってのみ捕捉する
ことが出来るものなのです。「宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在本体を
捕捉する力である。物の最も深き知識である」「愛とは絶対者に関する最高の認識である」
K.リーゼンフーバー著「西田幾多郎『純粋経験の宗教的側面』」より引用
熱心になりすぎると、認知力=グノーシス=理性・分別に重心を置くことになってしまって、休
むことなく頑張る傾向へと叱咤してしまいがちになる落とし穴があるからです。
我々が対象にしているのは、宇宙の原理とか、ごく微小な量子の物の世界ではなく、交わりと
一体化へと向かう人格神であるイエスであり、人格存在である兄弟姉妹なのであります。この両
者に深く交わり信頼関係の中で共存して相互が一つになり得るのは「愛」による外はないのです
。そこでパウロは前の言葉を退けるかの如くに、続けたのです。「むしろ、愛に根ざして真理を
語りなさい。」と宣ったのです。
そうでないなら、キリスト者の正しい生き方の項目を羅列したとしても、「愛に基づいた響きが
無かったならば」そこで語られた「真理」は聞き手の「自己変革」には到らないからであります。
主イエスは一貫して神と人々を愛し、ご自分を与え、神と隣人を愛せよ。と、いまも私どもに宣
たまっておられます。私どもが一体となる喜びへと招かれておられるのです。アーメン
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