2024年  9月 1日  聖霊降臨後第15主日(緑)

      聖書 :  申命記              4章1節~2節、6節~9節
            詩篇               15編
            ヤコブの手紙          1章 17節~27節
            ヨハネによる福音書      7章1節~8節、14節~15節、21節~23節

      説教 : 『 御言葉を行う人になりなさい 』
                         木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  67、 333、 521、 529


 パウロが言及している「行い」ヤコブ書の「行い」という言葉の使い方は、一見、対立・矛盾し
ているように思われます。詳細に見てみますと、パウロが言うところの「行い」とは律法上の行為、特に
神によって義化される権利を得るための「行い」のことを採り上げていたのでした。

 その内の一つが、男の子が誕生後(時にはユダヤ教への改宗者)に(男性器の包皮を切除する)割
礼が行われました。割礼を受ける儀式によって「唯一神との契約関係に入ることができる」とされてい
ました。
 唯一神との契約関係に入ることは、正規のイスラエル共同体の成員となることを意味したのです。
 ユダヤ人としての規定の尊守を指していたのでした。
 パウロらの伝道旅行において、割礼の風習が無い地域にもキリスト教が伝わったのですが、割礼の
風習がない「異邦人」(=ローマ人、ギリシア人など)が改宗した場合に割礼を行うかどうかが大きな問
題になりました。
 異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法(=旧約聖書)の厳格な遵守を重視す
るエルサレム教会との間で論争を起こりました。紀元48 - 49年頃のエルサレム会議に於いても、割礼
について議論され、最終的に「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他
の律法の遵守は免除されることで合意が成立したのでした。
 他方ヤコブ書の「行い」は神への愛、隣人への愛という最大の掟に総括されるもろもろの「行い」を指
しています。パウロは律法上の「行い」、すなわち、儀式規定の尊守規定は、十字架によって死に、そ
の死から復活されたキリストの命の真実とそれへの我々の信仰に取って代わられてしまったのでした
。今に至っては、儀式規定の尊守はもはや死んだも同然になってしまったのだ、と。神様から義人と認
められるための儀式にはもはや何らの値打ちも無い「行い」になってしまたのだ、とパウロは述べてい
るのです。
 ※ヤコブ書は「神様を観念的・教理的・認識の領域で認め・信じていると明言していても、愛の伴わな
い神認識・信仰認識では死んだものだと述べているのです。その人が抱く一つの世界観の表明に過ぎ
ないではないか。隣り人と共に住むこの世には何の変化も影響も与えずに終わってしまう」と言ってい
るのです。
 日常的に出会って交わりのある、ひとりの人を単に使役・労働力としてではなく、自分と同じ人として
受け入れて、人を尊敬して、大切さをもった思いから「ありがとう」・「ゴメンネ」「お大事になさってくださ
い」「淋しくなります」と、言った短い声掛けによって、しばしば、双方に自己変革が起こるものです。-
 「神と人への愛の行い」を勧めたとしても、具体的に「愛の行い」になるのはどういうことであるのか、
自分の思いを込めた声を その人に向かって発することです。
 発語となった「ありがとう」の周波数帯の中に発声者も受け手も共に包み込まれて自己変革が起こる
領域に誘われてゆくのです。
 ここに来るためには、思索を超えた宗教体験が不可欠であると思います。

ロマ7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っていま
す。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

ロマ7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを
救ってくれるでしょうか。

ロマ 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。

善をなそうという意志はありますが、それを実行できない。利他よりも利己が優先してしまう自分が居
て、なすべき善を実施出ない自分に絶望して諦めるてしまっている自分がいるのです。ここが宗教性
へ至る道の始まりです。これに苦悩する道行きの果てに「ああ!!キリストさまが私と一緒になって、
わたしを負ぶってそこを突破してくださったのだ!! 神様に感謝する外はございません!!」と。
 行き詰まりの苦悩とその最中からキリストが一緒おられて、気がついたら突破していたのです!!!
 このことが宗教体験なのです。具体的状況や詳細は、人それぞれによって、千差万別ですが、ここ
が基本的な宗教体験の形なのです。

 善を知りながらも、具体的な日常を生きる自分は実践できない苦悩を抱えて、その内面の苦悩が頂
点に達する時が充ちて神が介入してくるのです。すると極端に能動的になって自分が善を行うとする最
中の苦闘の中で、実はキリストが私自身のために既に善をなしてくださっていたのだ! と、気付き悟
るのです。
 そこで急遽、自分自身が善の受け手になっている事実に気付いて驚いて、叫ぶ祈りとなるのです。
 「ただ神様に感謝いたします!! 主イエス・キリストによって、私は解放されました!!」と。
 ヤコブの手紙は、我々の救いは祭儀的な「行い」に寄らず、主イエスの真実である「十字架と
復活」によって、それはもたらされた。主イエスが備えられたその基礎に立ちつつ、この世に尚
生きて行く者としての基本的な生活と実践について語っているのです。

「最後に重要なのはたった三つのことです。どれだけ愛したか、どれだけ優しく生きたか、そして
どれだけ潔く自分に合わないものを手放したか」

祈りましょう。

                                      戻る