2024年 9月 22日 聖霊降臨後第18主日(緑)
聖書 : エレミヤ書 11章 18節~20節
詩篇 54編
ヤコブの手紙 3章13節~4章3節、7節~8節a
マルコによる福音書 9章 30節~37節
説教 : 『 仕える幸せ 』
光延博牧師(静岡教会)
教会讃美歌 : 132、 331、 285、 391
主イエスのお弟子さんたちの関心ごとは、この中でだれがいちばん偉いか、他の訳では、だ
れがいちばん大いなる者か・偉大な者か、でした。主イエスの弟子である自分たちの中で誰が
一番優れているかについて議論しながら、人に優劣をつけていたのかもしれません。人に優劣
をつけること、価値が大きい人と価値が小さい人と差別して考えてしまうことは私たちの心の
中にも世の中にもあることだと思います。
自分自身のことについてまずは思い巡らしてみましょう。私という人間は優れているのか、
劣っているのか、価値が大きい者なのか価値が小さい者なのかについて考え、身近にいる人な
どと自分とを比較して自分の価値を測るということが私たちにはあるのではないでしょうか。
私たち人間の価値観には、比較して上か下かを考えるということがあると思います。あの人
よりも私は価値がある人間だと思ったり、この集団では私が一番優れていると思えたなら、私
の価値は大きいと感じたりするとき、優越感に浸るということもあるでしょう。逆に、あの人
に比べて私は劣っている、この集団で価値が低いと思ってしまうとき、劣等感にさいなまれる
ことがあります。私たちは優越感と劣等感の間を行ったり来たりしていることが多いのではな
いかと思います。こういうことが私たちの人生を暗くし、苦しみを生んでいる一つなのではな
いかと思います。
しかし、周囲の者と自分を比較することで自分の価値ははじめて決まるのでしょうか。この
世は比較の連続かもしれません。比較で始まり比較で終わるのが人生でしょうか。比較してよ
り優れていたら人生の成功者、そうでなければ失敗者なのでしょうか。この世の価値観がすべ
てであり、それで私の価値は決まるのでしょうか。決してそうではありません。
もちろんこの世の中を生きている以上この世の価値観の影響を受けます。それはそれで大切
な面もあるでしょう。しかし、それだけではないということです。相対の事以上に、絶対の事
が最初で最後の事として厳然とあります。
主イエスは私たちを真実の場所に連れてゆかれます。そこは主イエスが生き抜かれた場所で
す。私たち一人ひとりは神様に極めてよいと宣言されている神様の大切な子どもです。ここが
主イエスの生き抜かれた場所です。どこにいてもいつでもそこに存在している場所です。すべ
て愛なる神様の中にあります。場所だけではなく、感情の細部に至るまで、神様の中、すなわ
ち救いの中のそれです。神様が共におられない時空はどこにもありません。そこを主イエスは
「天の国・神の国」と表現なさいます。いつでもどこでも私たちはそこに居るのです。これが
真実なリアルです。
神様は共におられる。そうでなければ生まれていません。現に今ここで生きてはいません。
神様から離れて存在はありません。自分の力で生まれて来てもないし、細胞を自分の意志で動
かしているのではありません。無限のお働きが有限の中に事実として働いている、その結晶が
私たち被造物です。共におられ、私たちを愛しておられる神様が、私たちの命、生活、人生を
成立させてくださっているのです。主イエスはこの神の国を生きられました。ここに平安があ
ります。十字架にかけられて殺されても、そこも神様の中にあり、神様が共にいてくださる場
所。神様と共に在る深い平安の中で、あるがままの苦しみも喜びもそのまま、慈しみ深い神様
の中で生きられました。この神の国の福音を出会う人出会う人と共有し、そして弟子たちに教
えてゆかれたのです。
主イエスは、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「
わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるので
ある。」
戒めを守る力がなかったり、知識もなく、弱い存在である、子どもは価値が小さいとその当
時見られていました。誰が偉いか、価値が大きいかを議論していた弟子たちの眼中には子供の
ことなどなかったでしょう。この一人の小さな子どもの絶大なる価値を主イエスはお示しにな
り祝福されます。主イエスも愛されている神様の子どもとして生き抜かれた通りに、神様に愛
され極めてよいと見られているこの一人の子どもです。この子どもを通して、主イエスは私た
ち一人ひとりがかけがえのない神様の子どもであり、偉大なる存在であることを示されます。
人間同士で比較して相対的に価値があるかないか分別することの多い私たちに、命の創造者で
あり救いの主からの絶対の肯定を現しておられるのです。
主イエスはこの福音を宣告するために命を懸けておられます。私たちを神様に創造された本
来の私たちに引き戻そうとお働きくださいます。人間同士の比較のもとで私は私になるのでは
なく、神様のもとで私は私になるのだと思います。主イエスが私に出会ってくださるとき、本
当の私と出会うのです。絶対の価値を認めるまなざしが注がれている私です。
主イエスの呼びかけを聞き入れた人は救いの神様の中にいだかれている自分を知ります。そ
してみんなが愛されているかけがえのない神様の子ども。このことを知るとき、私はとても嬉
しくなります、救いをいただきます。差別は全くありません。人間も動物も植物も全被造物は
神様の子ども、そしてすべて私たちは神様の家族です。その真実があるからこそ神様は、愛さ
れている者同士お互いに大切にし合うことを願われるのです。
誰が偉いかなどと比較し合う必要はありません。すべての存在は同じく偉大であり、同時に
違いがある個性が与えられています。そのように光輝かせられている存在です。そしてその素
晴らしい個性を活かして、神様が命をお与えになった一人ひとりが、お互いに大切にし合う世
界となるように仕えてゆきたいと思います。それを神様と主イエスは願われています。
命の初めから終わりまで神様が共におられ一人ひとりを支え、仕えておられます。だからこ
そ私たちも、神様のその御心とお働きを大切にして、他者に仕えてゆくことこそが大いなるこ
となのです。神様に命を与えられたことの偉大、造られた者たちが助け合う、仕え合う偉大を
歩んでゆきたいと思います。仕えておられる神様と主イエスに私たちも心を合わせる、ここに
仕合わせがあると思います。仕え合うことが幸せです。私たちは仕え合い、助け合うことで生
きる喜びに与るために創造されているからです。生きる喜びがここにあります。