2024年  9月 8日  聖霊降臨後第16主日(緑)

      聖書 :  イザヤ書             35章 41節~7節a
            詩篇               146編
            ヤコブの手紙          2章 1節~17節
            マルコによる福音書      7章 24節~37節

      説教 : 『 主よ、しかし 』
                   信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  382、 171、 271、 402

旧約聖書の創世記1816節以下には「ソドムのための執りなし」と表題がつけられた話があります。

神様が罪深い町ソドムを滅ぼそうとされたとき、アブラハムが神様の前に進み出て「あなたは正しい者と一
緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者の
ために町をお赦しにはならないのですか」と迫り、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たち
のために、町全部を赦そう」との神様の約束をとりつけます。

さらにアブラハムは、正しい人の人数を45人、40人、30人、20人、10人と減らしながらも、ソドムの町
を滅ぼさないように求めるのです。結果的には、正しい人がいないとことで町は滅びてしまうのですが、ある種の
ユーモアの中にも神様の深い哀れみを物語る一つです。

このお話を読むと、神様が決して杓子定規な方ではなく、人と生きた関係を求めておられるお方であること
を感じます。神様が一度決めたことはてこでも動かない、誰にも変えることが出来ないということではなく、神様
は人との関係に自由をおかれ、その奥底には愛と哀れみが貫かれているのです。

さて今日の福音書は、ティルスという地方の町での出来事を伝えています。地中海に面した港町で昔から
外国人の地とされており、イスラエルと同じローマの支配下の中にあったものの、文化や宗教事情は大きく異な
っていました。なぜイエス様がそのような土地に行かれたかはわかりません。

一行がある家におられたとき、うわさを聞いたギリシャ人でシリア・フェニキア出身の女が、幼い娘が汚れた霊
にとりつかれているので、娘から悪霊を追い出して欲しいとイエス様の足下にひれ伏して願ったのです。

古い伝承によると女の名前はユスタ、娘の名前はベルニアであったと言われています。詳しくはわかりません
が、この娘は何かの病気だったかもしれません。病気が悪霊の仕業と信じられていたからです。いずれにしても
この女は、どの親もそうするように、娘を抱いてあちこちの医者や祈禱師の所を歩き回ったに違いありません。そ
してその度に冷たい答えにあい、失望を味わい、苦しみ、もはやすがる者がないような状況だったのでしょう。外
国人であるイエス様をあえて尋ねてきていることは、普通では考えられないことだったからです。

ところがこの女の切実さとは対照的に、イエス様一行の態度は大変冷たいものでした。マタイによる福音書
の平衡記事をみると「イエスは何もお答えにならなかった」と記していますし、弟子たちは「この女を追い払って
下さい。叫びながらついてきますので」と、助けるどころか、厄介者扱いをしているのです。弟子たちはほかの所
でも群がる群衆を遠ざけようとしたりしていますので、彼らの行動はいつものことなのでしょうが、イエス様の態度
もいつになく厳しく、私たちは失望してしまうほどです。

イエス様は「まず子どもたちに十分たべさせなければならない」と言われます。マタイでのこの前に「わたしはイ
スラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われていますので、なるほどイエス様はご自分
の救い主としての使命がまずイスラエル人にあることを強く意識しておられるがゆえに、外国人のこの女に冷たく
されたことがわかります。

しかし理屈はわかるものの、何となく素直に受け入れられない気持ちです。ところが私たちの気持ちを超え
て、ここに信仰による大逆転が起こります。この女はイエス様の言葉にも関わらず、あえて「主よ、しかし、食卓
の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と切り返すのです。

子犬というと、私たちの感覚ではテーブルの下でじゃれるかわいい子犬をイメージしますが、ユダヤ人にとって
は子犬とはそのようなものではありません。彼らは羊を飼うにしても牧羊犬などを使いませんでしたから、犬とは
むしろ役にたたない、この場合は卑しい存在として語られているのです。

そしてこの女はあえて自分をそのようなものとして、イエス様の前にさらけ出し、救いを求めているのです。

信仰とはただ願いごとを請求書のごとく神様に送り付けることではありません。願い事があろうがなかろうが、
聞かれようが聞かれまいが関係なく、自分を神様の前に差し出すことです。

確かにこの女も最初は娘を救って欲しいという直接の願いごとがありました。しかしそれだけだったならば、弟
子やイエス様ご自身による何重もの拒否にあって彼女はとうにあきらめて帰っていたでしょう。しかし彼女は願い
事以前に、その絶望的な状況のゆえに、自分を救うものはイエス様以外にないという絶大な信頼に立っている
のです。

外国人であり、ましてやユダヤ人の軽蔑の対象であるカナン人の自分が拒否されるのは当たり前、自分は
イエス様に堂々と話が出来るような身ではない。ただ神様の哀れみのパン屑を一粒いただくだけでいい。この彼
女の信仰にあっては、自分を卑しい子犬とすることは当然のことだったのです。この信仰はイエス様の哀れみの
心を大きく揺さぶりました。そしてまずイスラエルの民への救いという使命をこえて、神様の愛が女と娘に注がれ
たのです。

信仰は神様の心を揺さぶります。そして神様は喜んでそのお考えを変えてくださいます。なぜなら神様のみ
心は、かたくなに予定を実行することではなく、愛と哀れみを人に注ぐことだからです。

私たちにも切なる願いがあります。しかしそれを本気でイエス様に求めているでしょうか。いや、その前に私を
本当に救って下さるのはイエス様しかいないという、信仰に立っているでしょうか。この愛にすがりたいと思います。

お祈りいたします。天の父なる神様、私たちもカナンの女のように真っすぐな信仰を持って歩んでいけますよ
うに導いてください。このお祈りをイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

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