イエス様が公の生涯に入られたのは、23節に「およそ30歳」と書かれています。その頃、イエス様と縁戚
関係にあったヨハネはすでに活動を始めていました。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで
、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(ルカ
3:2~3)ていました。
このヨハネの「洗礼運動」は、多くの民衆の心を捕らえました。それは、民衆の中に「メシア」を待ち望む気
運が高まっていたからです。かつて民衆を指導した預言者は途絶えて久しく、またかつてのダビデのような偉大
な指導者も現れませんでした。国はローマの属国として圧制を強いられ、民衆の生活も苦しく厳しいものでし
た。「民衆はメシアを待ち望んで」いたのです。
ですから、民衆は「ヨハネについても、もしかしたら彼がメシアではないかと皆心の中で考えていた」のです。
しかし、ヨハネはその民衆の期待が自分に高まっているのを知り、民衆に答えました。「わたしはあなたたちに水
で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その
方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。
ヨハネははっきりと、自分は「メシア」でないこと。「メシア」は、自分の後から来られる方がそれであると宣言
しました。そのヨハネの言葉は民衆の期待を裏切るものでしたが、ここにヨハネの謙虚さがみられます。ヨハネは
自分の使命をはっきりと自覚していました。ヨハネはあくまでも、自分のあとから来られる「主の道を備え、その道
筋をまっすぐにする」(3:4)者であることを自覚していたのです。ヨハネの洗礼運動は、罪の赦しを直接に与え
る洗礼ではなく、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」にしか過ぎませんでした。それが、ヨハネの「主の
道を備える」使命だったのです。
ヨハネが洗礼運動をしているところに、年およそ30歳になられたイエス様が登場されました。イエス様はヨハ
ネから洗礼を受けられ、「イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で
イエスの上に降って来」ました。
「天が開け」るとは。どういうことなのでしょうか。それはこれまで閉ざされていた「天」が地上に向かって開かれ
たということです。それは、人類を救済される神様のご計画が、いよいよ幕開けを迎えたというしるしなのです。
神様はイエス様の洗礼をもって、そのご計画を始められました。
天が開かれ、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来」ました。つまり、イエス様は洗礼を
受けられることによって、神様の聖霊に満たされたのです。このあと、イエス様は荒れ野で悪魔の試みに遭われ
ますが、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(4:11)とあります。洗礼を受けることによって
聖霊に満たされるのは、また私たちも同じです。私たちも洗礼を受けたとき、神様の聖霊を受けたのです。そし
て、今もなお、聖霊を受け続けているのです。
イエス様が洗礼を受けられるとき、天から声がしました。それは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に
適う者」という声でした。これは、詩篇2:7の言葉と同様です。この2編は、王様の戴冠式の歌と言われていま
す。油を注がれることによって、王様は正式に王様として就任します。イエス様は洗礼を受けることを通して、
父なる神様ご自身から「御子」と認証されたのです。
罪なきイエス様が、なぜ罪の赦しを受ける洗礼を受けられたのでしょうか?
それは第一に、自らを罪人の位置まで「低められた」ということです。パウロはこのキリストの低さを、「キリス
トは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕
の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6)と表現しました。キリストはご自分を低くされるため
に、罪人と同じように洗礼を受けられたのです。
また、イエス様の洗礼は、イエス様のご生涯を象徴しています。洗礼を受けられるということは、自らが罪人
のようになってくださるということです。それは、イエス様自身が罪人を引き受けるというしるしでもあったのです。そ
して、イエス様の洗礼はイエス様の十字架をも暗示していたのです。
イエス様のご生涯の最後は十字架の死でした。その十字架こそ、罪人の罪を自らが引き受けることだった
のです。イエス様は十字架において人類の罪のすべてを背負われ、自らが罪人となって神様の裁きを受けてく
ださったのです。それによって、私たちの罪の赦しが成就しました。
イエス様は自らが洗礼を受けることを通して、罪人である私たちと同じ場所に立ってくださったのです。そし
て、罪人と共に歩き、罪人の苦しみや悲しみをご自分の苦しみ悲しみとしてくださったのです。イエス様は神様
の御子であるにもかかわらず、私たち罪人を救うために、自らが罪人をなって下さったのです。それが、イエス様
が罪人の受ける洗礼を受けてくださったことのしるしです。
<祈り>神様、あなたの御子イエスは、私たちの罪を赦されるために自ら進んで炭火ととなり、へりくだって
くださいました。すべての罪深き者がその罪を赦され、あなたのみ救いに与ることができるように、あなたの御霊を
注いでください。アーメン
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