2025年  1月 19日  顕現後第2主日(緑)

      聖書 :  イザヤ書             62章 1節~5節
            詩編                36編 6節~11節
            コロサイの信徒への手紙Ⅰ  12章 1節~11節
            ヨハネによる福音書       3章 1節~11節

      説教 : 『 最期に良い葡萄酒を 』
                        木下海龍牧師

      教団讃美歌 :  501、 326、 494、 461

「世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがま
わったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」

もう少し逐語訳した 岩波の新約聖書全五冊本に納められているヨハネによる福音書の文書を以下に引用
します。

古林 稔 訳 

「世話役は花婿を呼びつけて彼に言う、「良い酒は先に出すものだ。質の落ちるやつは酔ったころに出
すんだ。お前ときたら、良い酒を今までとっておいたのか」。

「お前は何と世間知らずの花婿なんだ!!!」 と。

小林稔氏の訳文を読むと、「カナでの最初の徴」が語る本来の筋の意味が自分にはよくわかった気がしました。

世間知らずとは、これまで伝えられてきた慣習が分からず、世間の習わしをまったく考慮せずに、即ち「酔っ
てしまって、良し悪しも分かなくなった頃には、あたらしい安物の葡萄酒を供するのが世間一般の習わしである
はずであるのに、お前ときたら、酔いが回った最後に、とても上等のワインを今まで取っておいたのか??!!
 「世間知らずの愚かな花婿だ、お前は!!」

「世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがま
わったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」

もう少し逐語訳した 岩波の新約聖書全五冊本に納められているヨハネによる福音書の文書を以下に引用
します。古林 稔 訳

「世話役は花婿を呼びつけて彼に言う、「良い酒は先に出すものだ。質の落ちるやつは酔ったころに出
すんだ。お前ときたら、良い酒を今までとっておいたのか」。

「お前は何と世間知らずの花婿なんだ!!!」 と。

小林稔氏の訳文を読むと、「カナでの最初の徴」が語る本来の筋の意味が自分にはよくわかった気がしました。

世間知らずとは、これまで伝えられてきた慣習が分からず、世間の習わしをまったく考慮せずに、即ち「酔っ
てしまって、良し悪しも分かなくなった頃には、あたらしい安物の葡萄酒を供するのが世間一般の習わしである
はずであるのに、お前ときたら、酔いが回った最後に、とても上等のワインを今まで取っておいたのか??!! 
「世間知らずの愚かな花婿だ、お前は!!」

主イエスは宣教の初めから、常に、伝道の旅の中で、その時と状況にそくして、出会ったその人の為になる最
善のものを施し与え、癒されました。そこには身分の上下とか貧富の差とか、さらに性による差別することなく、
いま現にその人に必要な事と癒しを為されました。

今になって、私たちが振り返って見ると、主イエスの宣教活動とは、全くそのことが主イエスの「神の国」運動
であったのだと納得いたします。

カナの女の娘を癒された出来事などは、宗教の違いを超え、ユダヤ教への改宗を条件ともせず、カナの女の娘
の病を遠隔治癒によって癒しを施されました。

 本日の主イエスがなさった「最初の徴」の流れを振り返って見ましょう。

 2:2  イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
 2:3  ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 2:4  イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来て
いません。」


小林稔訳

葡萄酒が切れてしまったときに、イエスの母が彼に言う、「(あの方たちに)葡萄酒がありません」。(
すると)イエスが彼女に言う、「女よ、それが私とあなたにとってどうしたと言うのです。私の時はまだ来て
いません」。

 我々は、2025年を迎えて歩みはじめていますが、世界に存在する諸問題も日本国内の諸問題も解決
するべき見通しが付いておりません。さらに自分自身と近親者の将来の見通しさえも付きかねている面も抱え
ておられるかもしれません。

ウクライナとロシアの戦、イスラエル国家がガザの街を攻撃して壊滅状態になっております。

子供・婦人・一般市民が命を落としており、住み慣れたガザの街から避難せざるを得ない状態が今も続いてお
ります。ウクライナとロシアの双方から、多くの犠牲者を出しておりながらも、戦争終結の見通しはついておりま
せん。

 指導者が抱く常識的思考と・伝統的政治的解決策がこれ迄のやり方によっては、根本的な解決策にはな
らないようです。仮に出来たとしても、それは一時的なものに過ぎず、その解決策自体が遺恨になって、しばら
くすれば、再び戦が起こるでしょう。

人間の知恵と外交的交渉とは、この世の習わし、国際的な力関係と国家間の利害と効率の良さ・自分の
側を優先的にすることで支持を得ている政治家の手腕に依存するだけならば、同じことの繰り返しになることで
しょう。

 主イエスの生涯と十字架刑・復活の道のりこそが、我々に選ぶべき道を教え鼓舞し、永遠の眼差しで世界と
己自身の内側を見極めて・判断し・共に生きてゆく共生の道を求めて往けるのではないでしょうか。

「わたしの時はまだ来ていません。」 主イエスの「神の国」運動は創められたばかりでした。アンデレ、フィリポ
、ヶパ(ペテロ)、ナタナエルが主イエスに従い始めた極々小さな集団でした。

主の十字架刑・復活・ペンテコステ体験などは、この後、三年を待たねばならない時の中にいたのでした。

「ぶどう酒がなくなりました」 始まったばかりの主イエスの「神の国」運動の最中にあるイエスにとって、「ぶどう
酒がなくなりました」
こと事態が どうしたことだと言うのだ!!

歴史上の革命家たちは、革命が進展して、成果を上げてゆくためには・・・・かっての同士や自分たちのイデオ
ロギーに賛同せず、己自身の判断で生きて往く事を選んだ市民の多くを粛正していったのです。

主イエスは招かれた客人である自分には関わりのないことなのだと知りつつ、さらに、ご自分の奇跡行為を表
面だって明らかにすることもなく、水がめに汲みいれた水から美味しい葡萄酒に変えて、個人的な花婿の人生
の門出に祝福をお与えになられました。

ここにも、十字架と復活へと歩まれた主イエスは、その途上に於いて、出会った個人的な苦悩と病に苦しむ人
に共感して、助け、癒されたお姿と重なります。

 歴史上の革命家や政治的リーダの多くが、大義の前には、少々の人の犠牲は已む得ない事柄だとして、実
は大勢の市民を犠牲にしてきた歴史的事実と対比して、主イエスの「最初の徴」のすばらしさを思い起こさず
にはおれません。それこそが主イエスの「神の国」運動の姿であったのです。 アーメン

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