2025年  2月 16日  顕現後第6主日(緑)

      聖書 :  エレミヤ書            17章 5節~10節
            詩編               1編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  15章 12節~20節
            ルカによる福音書        6章 17節~26節

      説教 : 『 神の国は誰のものか 』
                     木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  56、 175、 279、 352

エレミヤ書17章7,10

「祝福されよ、主に信頼する人、主がその人のよりどころとなられる。

「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。

(本当に!! あなたは主であるわたしを 信頼しているのですか??!!)

ルカ福音書6:20

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。

並行記事であるマタイ福音書5章3節

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

柳宗悦の心偈(こころうた)の四十五を連想しました。「ナドテユタケシ 貧シサ ナクバ」 岩波文庫
p306
より
 

「ここで貧しさとは、私の欲を持たない事である。富にあこがれる貧乏のことなどを言うのではない。それ
は『貧』でなくして、『貪』に過ぎまい。私を持たないことに、無上の持物を見出すことである。だから貧し
さこそ、豊かさなのである。『足らざるに足るを知る心』ともいえる。貧に幸福の確約を見るのである。か
かる貧を寂ともいう。貧をおいて静寂はなく、静寂をおいて、真の富有はない。」

ルカ福音書では二人称が用いられております。目の前の聴衆に向かって語っている形式であります。

マタイは三人称の形式が用いられており、この場に居ない人も含む原則論として、すべての人に向けて語り
掛ける形式で記述されています。ここでは、両者の比較には立ち入りません。

山から下りて平地に立って語るイエスの言葉を直接に聞いているあなたがた自身が、神の国の所有者にな
るのですよ!! イエスの言葉が聴く者の中で、現成する・成就するのです。たとえ今貧しく、蔑まれる身であっ
ても、この世の栄誉から最も遠い存在だと思っていたとしても「神の国はあなたがたのものである」と。皆が必
死に求め、攻め獲ろうとしている、あの「神の国」は、今、わたしイエスからの宣言を聴いているあなた方のもの
なのだ!!! と。

「主に信頼する」ほかには、誰からも、何処にも助け手は存在せず、さらにあなたの願いが無視されているの
だからこそ!! 今、わたしの言葉を聴いているあなたがたから信頼されている主ご自身は、必ず、あなたの信
頼に応えずには置かないのですよ!!

さらにこの一連の宣言の24節以下では「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰
めを受けている。」
と。

佐藤研訳「禍いだ、お前たち富んだ者よ、お前たちは、お前たちの慰めを(すでに)得ているのだ。」

実際のところ、経済的に私は貧しい部類の者だ、と思っております。

iphoneを新しい機種に変えたいのですが、我慢しております。しかしながら、生きてゆく上で必要なモノには
不足しておりません。すると、私は「富んでいる者」の分類に入るのでしょう!? か。

2000年ほど前に、イエスが見ていた社会層に於ける「貧しい者・富んでいる者」の区分と、基本的人
権が保障されている時代に生きている者の眼から見える「貧しい者・富んでいる者」の区分は随分と変遷し
てきたと考えられます。社会福祉制度が比較的に整ってきている現在の状況から考えるならば、

健康で文化的に生きることが基本的権利として認められている今日の日本の状況と、その人が貧しいのは
前世からの報いであるのだとして、貧困や身体的障害を考えていた時代とは大きな違いが、そこにはあった事
を認めざるを得ません。

ここ30年程前から新自由主義的資本主義経済が台頭して来ていらい「貧しさとか、その人の障害、高
齢者が抱える諸問題は自己責任論」で処理しようとする傾向が強く表面化して参りました。寿命が延びてき
た現在では、引退後の20年から30年の生活は年金だけでは¥2000万円足らなくなりますから、現役
の内に準備しましょう、と喧伝された時期がありました。

他方、富裕層に入る人々は、現在自分たちが保有している財産を守り、さらに増やすべきだ、と、画策して
経済的に富んでいる数パーセントの層からは、老人医療ケア予算とか生活保護への財政支出を減額して、
防衛費に国家予算を増額すべきであるとの主張が強くなって参りました。そのために、近年では国家予算に占
める防衛費は膨大な額に膨らんで参っております。防衛のための兵器の製造や輸入で膨大な富を得ている
富裕層も出現しているはずです。これが新自由主義的資本主義経済の一つの顕れであると言えましょう。

実際は、イエスのご生涯を福音書から見て参りますと、富んでいるがゆえに、自分個人が信じた道へと、自
由に選んで踏み出せないでいる人を、イエスは「慈しんで」見つめられた、とあります。その人たちが富んでいるか
らとして、面と向かって非難した例は見当たりません。

一方、今日的状況から言えば、大部分の人は欠乏感と欲しいものを我慢しながら、日々を活きて行く場面
の中で、やり繰りしながらなんとか生活しているのではないでしょうか。どれだけの富を蓄えてあるか、ではなく、
今あるものでいかに充足するか。今あるものでエンジョイできるか。それも自分の課題にしながら、やり繰りしてい
るのだと思います。

貧富の問題を単純にその人の気持ちの持ちようである。とするのには賛同できませんが、自分自身を顧みて
も、使い可ってが良いと思っている新しいiphoneが欲しい誘いと欲望があり、その商戦に自分は誘われる傾
向のあることも認めざるをえません。

今日の時代と社会状況の中で、私たちは、貧しい者であり、同時に、富めるものでもあるのではないでしょう
か。

私たちの生命は、全面的に、偉大なる存在者に依存せざるを得ない生命体の一つであります。だからこそ
自分の人生を顧みれば、偉大なる存在の慈しみなしには、この世のこの私の命は無かったでしょう。

それと同時に、出会った隣人に、分ち合う何ほどかを私たちは所有している、と言っても間違って、いないでし
ょう。

 こんなことを本日の聖書から、いろいろと教えられ、また、考えされられました。  アーメン

                                
戻る