最近のわたしの直観的理解では、人は皆、それぞれ自分自身の宇宙の中で生きていて、その中で
感じ、思考し、認識して、決断しているのではないか、ということです。外からの何らかの刺激によって、
部分的にそれに交信して、共感、共鳴、決定して、知解しているのではないのか、と。
ところが一旦、神からの介入・働きかけが起こると、各自が生きている個々の宇宙が一つの同じ空間
に、される瞬間が起こるのではないか!! その時に初めて一体感・神の前に一つになる一瞬を体験
するのではないか。このことをもう少し詳細に言語化するためには、思索と経験と文章化する作業の経
過が必要だ、と思っているところです。
さて、先週の主日に読まれたネヘミヤ記8章1節に
「 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」との文言があります。
直前の7章66節には、当時、エルサレムの城壁再建の為に捕囚の地から志願して集まった「会衆の
総数は、男性が四万二千三百六十人」であったと記されています。その他に男女の使用人7、33
7人、男女の詠唱者245人が集まっていた。 それだけの会衆が集まっていて、「一人の人のようになっ
た。」と記されています。何かが現実に起こっていて、それをごく短い記述の中に「一人の人のようになった。」
と忍び入れた文言だと理解されます。
宗教組織が持っているいわゆる「基本文法」には記述されていない。しかし現実として、神との脈略の中で
起った出来事を目の当たりにした事実を書記は記録せざるを得なかったのではないか。と思われます。
特定の宗教的集団が持つ「基本文法」の枠を超えて、その集団全体に重要で特殊な現象として聖
書筆者たちは「一人の人のようになった」と記しているのです
本日の福音書 ルカ 4:20-21
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
ナザレの会堂でイエスの語らいに対して「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて
言った。」とありますように、一旦は褒め、驚きつつも、「この人はヨセフの子ではないか。」(たかだか大
工の倅ではないか、何の資格も権威もない彼が律法教師のような口調で説教するとは、とても不快な
ことだ!!)と思う人々も少なくなかったようです。
ネヘミヤ記の場合は、祭典の執行者エズラは書記官であり、祭司でもありましたので、公に任用され
た役割には会衆は自ずと敬意と聴従こそあれ、何の疑念も抱きませんでした。
そうではありますが、わたしはネヘミヤ記の記述とルカ福音書の記述の類似性・共通性を感じました。
それは聖書が両方の場面に於いて、神の言葉として読まれ、語られた出来事であったことです。
ルカ福音書では、イエスが聖書を朗読しようとしてお立ちになった。イエスがイザヤ書を読み上げること
によって、神の言葉が会衆に語り掛けた出来事になった場面であったのです。聖書の言葉を神の言葉
に現成させるお方としてイエスは立ち上がったのです。 聖書筆者はそのことを表明したかったのだと受
け取って良いでありましょう。
イエスは巻物を巻き、係の者に返して、席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれ
ていた。イエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話し始められた。
この一瞬において、主イエスを頭とする教会が地上に顕現したのです。
神学生時代の、ある日曜日に、日本基督教団 西片町教会の礼拝に参加して、鈴木正久牧師の説教
を拝聴いたしました。鷺宮の神学校の帰途に着く私の心が燃えておりました。聴く私を鼓舞した力強いメッセー
ジに、「自分は、この先しっかりと生きて往こう!!」と励まされながら急いでおりました。
65年ほど前の体験ですが思いおこすたびに自分を励ましてくれています。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
佐藤研訳 「この聖句は、今日あなたがたの耳のうちで満たされた」。
聴いた瞬間にみ言葉が聴く人の中で燃え広がって止まず、そのイエスの言葉を聴いた人から神の国が始ま
っていくからであります。
先ほど記述した、あの時、鈴木正久先生の説教の内容は、その日の週報やメモが残っていませんので思い
出せませんが、鈴木先生の説教の声音が、今日まで私を励まし続けてくれています。そうした神の言葉・説教
メッセージがあると言えましょう。
その時の会衆全員に同じことが起こったのかどうか、それは分かりません。私にとっては、時と状況に適って私
自身を突き動かしました。その後、年月を重ねながら、み言葉を取り次ぐ者として、時には聴き手として、私自
身を突き動かし鼓舞するメッセージによって、今日まで押し出されて参りました。
聖書の言葉が「神の言葉」として自分の中に届く事があります。その出来事を大切にしてまいりましょう。