2025年  2月 23日  顕現後第7主日(緑)

      聖書 :  創世記              45章 3節~11節、15節
            詩編               37編1節~11節、39節~40節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  15章35節~38節、42節~50節
            ルカによる福音書        6章 27節~38節

      説教 : 『 あなたの敵を愛しなさい 』
                   信徒のための説教手引き信徒代読

      教会讃美歌 :  170、 175、 382、 391

この箇所はマタイ福音書の 「山上の説教」 の中にも出てきますが、私たちにとっては実行不可能のような
言葉が重なり合っています。

その中でも特に、27節の 《敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい》 や、35節の 《あなたがた
は敵を愛しなさい》 は、全く実行不可能と思われます。 私たちはこれらのイエスの言葉をどのように受け取った
らよいのでしょうか。

今回は、29節の 《あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい》 という言葉を中心にして考え
てみましょう。これらの箇所から、これはイエスが 「無抵抗」 を教えたものであるという考えがあります。 果たし
てこれは、無抵抗の教えなのでしょうか。

頬を打たれた場合、取るべき三つの態度があります。まず、頬を打たれたら打ち返すという態度です。 こ
れは、相手に抵抗することです。抵抗は、ともすれば過激になります。 相手に頬を打たれたら復讐の怒りに
燃えて、相手をさらにひどく打ちのめすというようなことです。 すると、今度は、相手はもっと激しい怒りをぶつけ
て、さらにひどい復讐を繰り返します。 抵抗することがすべていけないということではないかもしれません。 しか
し、方法を間違えると修復できないほどの憎しみをつのり、凄惨な結末を迎えるのです。

次の態度は、無抵抗です。 頬を打たれても打ち返さず、痛さを我慢し、じっと忍耐するという方法です。
 相手のなすがままにまかせるという無抵抗について、M・L・キング牧師はその本の中で、素晴らしい洞察を
示しています。頬を打たれても打ち返さず、打たれ続ける無抵抗は、単なる無抵抗ではない。 打たれ続ける
という無抵抗の態度を続けることで、絶えず相手の良心に訴えるという 「抵抗」 をしているのだという、「無抵
抗の抵抗」 という考えを述べています。(M・L・キング著 「汝の敵を愛せよ」 参照

それは深い洞察ですが、しかし、イエスのこれらの言葉は、「無抵抗の抵抗」 を教えているのかといいますと
、それ以上のものであると言わざるを得ません。 では、イエスは何と言われているのでしょうか。 それは、《もう
一方の頬をも向けなさい》 です。 相手のなすがままにされるというのは無抵抗ですが、イエスは、《もう一方の
頬をも向けなさい》 と言われたのです。 相手に頬を打たれたとき、もう一方の頬を向けることを可能にするもの
は何なのでしょうか。

イエスの言葉の中にその解答があります。 その言葉とは 《愛》 です。 《敵を愛し・・・》 という《愛》 こそ、
イエスのこの言葉を解く鍵なのです。 しかし、私たちはこのような敵を愛する 《愛》 は持っていないのです。 
敵は憎むべき存在、抹殺すべき相手ではあっても、決して愛する対象となる相手ではありません。 私たちは、
《自分を愛してくれる人を愛し・・・自分によくしてくれる人に善いことをする》 (32節~33節) ことしかで
きないのです。 そのようなことは 《罪人でも同じことをしている》 とイエスは言われましたが、罪人である私たち
もまさにそうなのです。 それ以上のことができないのです。

ここで、「良きサマリヤ人の譬え」 を考えてみることは有益なことです。傷つき倒れた人はサマリヤ人にとって
は 「敵」 でした。 しかし、サマリヤ人は敵である人を、心を込めて介抱し、宿屋に連れて行き、その後の面倒
まで見ようとしました。 このサマリヤ人の行動の中に、敵を愛する愛がどのようなものであるのかが示されていま
す。 しかし、これはあくまでも 「譬え話」 です。では、実際にこのような愛を実践された方があるのでしょうか。
 私たちはここで、この言葉を語られたイエス御自身に注目しなければなりません。

イエスの御生涯はどのようなものであったのか。パウロはローマ書5章6節以下で、《実にキリストは、わた
したちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。・・・わたしたちがまだ罪人
であったとき、キリストが死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》 と言いました。私
たちが罪人であったとき、神に深い罪を犯し続けていたときに、神は私たちを愛し、キリストを十字架につけて私
たちを救ってくださったのです。

イエスは十字架の上で、自分を十字架につけた人々のために、《父よ、彼らをお赦しください。 自分が何
をしているか知らないのです。》 と執り成しの祈りをされました。 ここに、敵を愛する神の愛があります。 キリス
トの自己犠牲の中に神の愛が示されたのです。

《もう一方の頬を向ける》 のは相手の強制によってではなく、自らの意志で頬を相手に差し出すことです。
 このようなことは、神の愛に基づかないなら不可能なことなのです。イエスがここで私たちに提示しているのは、
イエスの十字架によって示された神の 《愛》 を知り、その神の 《愛》 に生きるようにとの促しなのです。 《父が
憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい》 (36節) という結びの言葉は、私たちが父なる神の
憐みとその愛によって生かされていることを感謝し、それに応えて生きるようにとの招きであります。

いたずらに抵抗するだけではなく、また単なる無抵抗でもなく、それを超える神の愛に基づいた 「隣人愛」
という新しい生き方へと招かれていることを感謝しましょう。

お祈りいたします。

愛の神さま。 あなたは、人を愛し人を赦すことのできない私たちを赦し、愛してくださいました。 どうか、私たち
の心にあなたの愛を満たし、人の罪を赦し、愛することのできる者にしてください。主、イエス・キリストの御名によって
お祈りいたします。アーメン

                                      戻る