2025年  3月 2日  主の変容(白)

      聖書 :  出エジプト記          34章 29節~35節
            詩編               99編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  3章 12節~4章 2節
            ルカによる福音書       9章 28節~36節

      説教 : 『 栄光に輝くイエスを見る 』
                       木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  100、 90、 107、 104

「主の変容」には、二つの面から、考えられます。

一つは、ヨセフとマリアから生まれたイエスという人物は本当は「何者であったのか」。

「それは神の御子であったのだ。『主の変容』は、その事の顕れである徴であったのである。」

二つ目には、「主の変容」を誰が目撃したのか。選ばれた三人がイエスの変容を目撃したのです。

参考「主イエスの昇天」の場合は大勢の弟子たちが目撃したと証言されております。この場面も似た状況であると言えましょう。

主イエスがなさった奇跡の数々を改めて、振り返って見ましょう。

1.     カナの婚礼に於ける、壺の水を葡萄酒に!!(ヨハネ2:1-11

2.     らい病人を清める(マタイ8:1-4 マルコ1:40-45、ルカ5:12-16

3.     百卒長の僕を癒す(マタイ5:13 ルカ7:1-10

4.     やもめの息子を生き返らせる(ルカ7:11-17

5.     ペテロの姑を癒す(マタイ8:14-15 マルコ1:29-31 ルカ4:38-39

6.     多くの病人を癒す(マタイ8:16-17 マルコ1:31-34 ルカ4:40-41

7.     手の萎えた人を癒す(マタイ12:9-14 マルコ3:1-6 ルカ6:6-11

8.     暴風を鎮めた  (マタイ8:2327 マルコ4:35-41 ルカ8:22-25

9.     海上を歩む   (マタイ14:22-36 マルコ645-56

10.  中風を癒す   (マタイ9:1-8  マルコ2:1-12 ルカ5:17-26

11.  ヤイロの娘となが血の女 (マタイ9:18-26 マルコ5:21-43 ルカ8:40-56

12.  二人の盲人   (マタイ9:27-31

13.  口の利けない人を癒す (マタイ9:31-34 ルカ11:14-15

14.  カナの女の娘の癒し(マタイ15:21-28 マルコ7:24-30

15.  ガリラヤの海辺での治療・エパタ(15:29-31 マルコ7:31-37

16.  ベッサイダの盲人 (マルコ8:22-26

17.  五千人に食べ物を与える(マタイ14:13-21 マルコ6:30-44 ルカ9:10-17 ヨハネ
6:1-14

18.  四千人のパン  (マタイ15:32-39 マルコ8:1-10

19.  悪霊に取りつかれた子を癒す(マタイ17:14-20 マルコ9:14-29 ルカ9:37-42

20.  十八年病める婦人を癒す(ルカ3:10-17

21.  十人のライ病人 (ルカ17:11-19

22.  バルテマイの眼を開く(マタイ20:29-34 マルコ10:46-52 ルカ18:3543

以上22の主イエスのなさった奇跡を列強してみますと、病人の癒しの頻度がずば抜けて多いことに、改め
て気付かされます。聖書の記述から分かることは、主イエスがご自分から「自分は何処どこの誰を癒したのだ、
と仰った記述は全く見当たりません。本人又は、その人が住んでいた地方の集団(教会)からの収集によっ
て聖書に遺されたのです。

福音書の編纂は、ペテロ、パウロが殉教するに至り、第一世代の信仰者が亡くなってゆく事態に、大きな危
機感を感じた信仰者と教会は、残っていたイエスの語録と伝道状況と記録を、60年代後半から90年代
にかけて収集し始めたのです。それらの資料を基にして、ギリシャ語で今の記述形式に書き直し、イエスの教え
と伝道活動を遺したのが、今、手にしている聖書であると言えます。

前掲の17の癒しが行われた場所は、ガリラヤ地方が主な活動範囲でありましたのでその数が多いのです
が、他にもイエスが進んで行かれたユダヤ地方とサマリヤ地方に於いても癒しは行われました。

弟子たちがその癒しを目撃した時もありましたが、そうでない場合もありました。聖書編纂に於いては、各地
のクリスチャンの集いに出かけていって、イエスとの出会い体験と、癒された人の経験を蒐集して周ったのでした。

 癒しの数々から、イエスは旧約聖書に於いて予言されていた、神様から地上に遣わされたメシヤであるの
だ!と 信ずる根拠の一つに柱になったのでした。

もう一つの面としては、

栄光の姿に変容なさったイエスを目撃した弟子は、選ばれた三人だけでありました。

「イエスは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」ルカ9:28

とあります。なぜ12人の弟子全員ではではなかったのでしょうか?!!  何の説明もされておりません。
ここで「祈るために」とは、弟子と一緒に願いや取り成しをするためではなくて、神様を身近に感じ取る経験・
神と自分を写しあえる体験を経験させるために、山に登られたのです。

  主イエスご自身が三人を連れて山に登られた。イエスご自身が三人を選ばれたのです。

  そうであるならば、今、主イエスに今生で直接にま見える機会がない者にとって、主のご栄光には与
かれないのでしょうか?!! 主イエスのご栄光を拝したい。その願いは欲張りでしょうか!?

  私には主のご栄光を目撃した経験はございません。目撃した人の話を聞き・読むことがありますが、
その人たちは全員が統合失調症の方々だとも言えません。

  私自身には、統合失調症的な現象は全くございません。しかしながら、真剣に沈黙の祈りに集中し
た時には、いくつかの生き生きとした体験のあった事は忘れられません。

A:冥想(非言語的祈り)の最中に、自分が飲み込まれるほどの大きな光と黒雲が渦巻いて自分を巻き込
んだので、とても恐れた事。

B:深い瞑想の後に、座を立って中庭を眺めた時に、赤松の幹が光り輝いていた事。

C:言葉による説明は難しいのですが、敢えて言えば他者と自分が、さらに、「それ」と自分とが一体になって
いる。そんな感覚になったことでしょうか。

今日の説教で、敢えて表明したかったのは、主イエスに連れられて、祈るために山に登り、沈黙の祈りを続
けている最中に、三人は、栄光のイエスを目撃するに至った事実であります。

主イエスは多くの癒しの奇跡を行いつつも、尚、自らを僕の務めを果たしている伝道者の姿を終始保持して
おられました。しかしながら山の上で、沈黙の祈りの中で、神の御子の栄光を三人の弟子に目撃させました。
弟子にとっては混乱と同時に、主イエスの栄光にまみえる感激の出来事であったのでした。

この体験は、その後の困難な宣教活動進める中で、絶大な力になったのであります。アーメン

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