六部の侠気四部の熱
月刊「サムソン」1993.11月号〜1994.10月号に連載(全12回)
■物語
 ふけ専という言葉は僕は好きではないけれど、この小説の世界こそまさにふけ専そのものという気がします。
 高齢の男色者たちが、次々と現れ、主人公である四十歳の庭師工藤雄策が彼らの老いて尚盛んな性を垣間見るというお話し。
六分の侠気四分の熱 
 
第一回

  謡曲、松虫

(1)

 工藤雄策が年んでいる街は、博多から五十キロほど離れた福岡県南部にひろがった筑紫平野の東部にある。人口二万に満たないこの町はなんの変哲もない田園の町であり、小規模農家で生計をたてている家が多い。しかし町のメインストリートには、両側に広い園芸広場を構えた豪華な家々が立ちならんでいるといった風情の町なのだ。

 筑後川の本流ぞいに発展した町だから、何処にいても耳を澄ませばせせらぎの音が聞こえてくるような場所である。平地だから灌漑の便がよく太陽は一日中この町を照らし、肥沃な土地を生み出した。江戸から明治、昭和の初期まではどの家も貧しかったので、庭師は職業として成りたたなかったが、戦後の経済成長によって俄に脚光を浴びはじめた。この物語では庭師と昔風に書いているが、現在では園芸師とか、造園業と呼ぶのだろう。

 そして現在この町で庭師として活躍している人々は、千人は下らないだろうと言われている。工藤雄策はメインストリートから遠く離れて、昔ながらの藁葺き屋根の家に住んでいる。園芸広場をふくめてやっと百坪たらずの広さだが、その隅々にまで雄策の意思がしみこんでいるほどに手入れされた広場が、筑後川添いにひっそりひろがっている。

 狭いとはいえ六十坪弱の広場には、松、かいずか、ひまらや杉、まきの木、もっこくなどの大木はもちろん、つつじ、まんりょう、せんりょうなどの低木まで所せましと植えこまれている。つまり誰にどんな庭を頼まれてもちゃんとした仕事ができるだけの庭木をそろえていた。頼まれた仕事は誠心誠意やりとげる、それが雄策の信条だった。

 雄策はこの家で生まれこの家で大きくなった。そして彼の父親も庭師として生計をたて、現在は別の家に次男家族とともに住んでいる。母親は雄策が四歳のとき亡くなっていた。一人になった父親の面倒は、雄策が見るべきなのになぜかもっとも大切なことを放棄し、自由気儘に生きていることに関して世間の風当たりは非常に強かった。

「あんなにやさしくて、誰に出会っても必ず笑顔で挨拶するような雄策さんが、どうして親父さんを捨てたのか合点がいかない。いったいどうしたことかのう……」

 そう言って首をかしげる人もいれば、知ったかぶりをして次のように言う人もいた。

「親父さんを捨てても次男が面倒を見ているのでそれは許せても、その後に嫁の父親とかいうた多助さんがしょっちゅう出入りしとる。あの爺さんはいったい何者じゃろうか」

 雄策を知っている町の住民たちは、奥歯に物の挟まったような噂をたてて雄策を非難した。しかし雄策はそういう非難や中傷にたいして無視した。言いたい人には言わせておけばいい、彼は居直っていた。それしか身の処しかたがなかった。そして、『人のうわさも七十五日』の諺どおり、彼らは雄策の噂をしなくなって十五、六年の歳月が流れた。

 いまから十五、六年まえ、雄策は二十五、六歳だった。土地の農業高校を卒業して親父のあとにしたがい庭師の仕事を手伝いながら、庭木のことや顧客との接しかたなどの初歩から教えられ、やっとそういう仕事がおもしろくなりはじめていた。やがて結婚して子供をもうけ年老いた父親の面倒をみる。そんなことを漠然と考えるような年頃だった。

 どんなきっかけで何時多助さんと知りあったのか確とした記憶がない。後から考えればこんなに長年月付き合うことになったのだから、せめて運命的な出会いの日や場所くらい鮮明に覚えておきたかったと痛切に考えるのだが、その場所が大きな声で言えないような例えぱトィレットのような場所だから、自分では意識していないのに、心のなかでは一日もはやく忘れたいと思ってすごしたような気がする。

 十七、八歳ごろから漫然と男だけに関心を示しはじめた自分の性にたいし、雄策はひそかに悩みはじめていた。父親や親戚が結婚話をもってくるたび、漠然と結婚しなければならないのだと自分に言い聞かせてみるもののこんな体で結婚などとてもできないとひどく悩んだ。多助さんと出会ったのはちょうどそのようなときだった。

 多助さんはフルネームを東郷多助といい、そのころ二十キロほど西部の久留米市にある商科大学の助教授だった。背丈は低いがかなりの体重がありそうだった。色が白くて赤ん坊のようにふっくらと太った体格である。そんな体のうえに丸い顔がのっていた。何時もは丸い目が笑うと切れながになった。体つきも顔の表情も非常にやさしいのに、そのやさしさをいかめしい口髭がわずかに隠し、助教授としての威厳を保っていた。

「君の悩みはよくわかる。ばってん親は君を男色者として生もうとは考えもせんじゃったし、君が好んで男色者になったとでもないけん、それ以上悩むな。ばってん同じ人間に生まれてきて、ほんなこて、貧乏くじをひきあててしもうたなあ……」

 あらゆることで死ぬほど悩みぬいた雄策に、当時四十八歳の多助さんはそう言ってくれた。男色者という言葉もはじめてだったし、親も君も好んで男色者になったのではないという発想も雄策にとって、素直に心のなかで消化することのできる言葉だった。そして彼は最後に、『貧乏くじをひきあてた』と言ったあとそっと涙ぐんでくれたのだ。

 さらに次のような言葉は非常に説得力があり、雄策の体にそのまま吸いこまれた。

「誰にも言うな、自分一人の胸に収めておけ。いいか雄策、おまえは大変な星のもとに生まれてきたとじゃ、けど自分一人の胸に収めておりさえすれぱ普通の人と同じように生きられる。だから口が裂けても他人に自分の性向を言うな。他人に甘えたらいけん、いいかよく聞け。苦しいときは総て俺に相談にこい、わかったな」

 多助さんはそう言ったあと、雄策の体を力いっぱい抱きしめ体を震わせながら、声を殺して泣いてくれた。それまでにも多助さんとは特殊の関係にはいり込んでいたが、なにも知らない雄策に多助さんのとった愛の形は、きつめの抱擁と甘いキスの域をでなかった。しかしこの日から雄策にとって、多助さんは父親より大切な人になってしまったのだ。

   ※ ※ ※

 雄策は歳はとっていたけれど二十五、六歳までは男同士のことにかんしては、なにも知らない男だった。だから結果的にいえば多助は何もしらない無垢な青年に、男色の初歩からこつこつと教えこんだことになるのだろうが、雄策はあとから考えてみても無理にその総てを教えられたという感覚はいっさいない。

 お互いに口を吸いあったのも、お互いの体を舐めあい最後にはお互いの性器接吻をしたのも、教えられたのではなく多助さんと逢瀬を重ねるたび、ごく自然にどちらからともなく、そういう形が出来上がったにすぎないのだ。足をいっばいにひろげてとか両手は相手の背中に回せとか、性器を吸うときは口に適度の唾液をためてから、などという講釈は色々あるけれど、雄策の場合は心の欲するままに行動したらそうなっていた。

 そしてそんな逢瀬を重ね二、三年が経ったころには、出会ってからの愛のパターンがななんとなくきまっていた。激しい抱擁にキス、体の接吻に性器吸引、さらに濃厚な愛撫のすえ到達するのは肛門性交であるが、二人の場合は最初から雄策がタチ役だった。このような関係ではたいていの場合年長の男が無垢の男をウケとして愛するのに、彼等の場合は逆だった。それも多助が意識してそうなったのでなく、雄策の意思でそうなった。

 そして多助はその職業柄、極端に人の目をおそれた。だから出会う場所についても多くの制約がもうけられた。例えぱ昼間自分の勤めている久留米市内や、居住地では絶対合わないこと、どんな場所で出会っても一切知らん態を装うこと、電話は絶対かけないことなどである。そうなればめったなことでは会えなくなる。

 五十歳に近い多助はそれで我慢できようが二十五、六歳という年齢は、いったん覚えてしまった性を忘れるにはあまりにも過酷すぎた。因り果てたすえ多助が選んだ場所は二十キロも走れぱ福岡管区を出られる、熊本県の田舎のビジネスホテルだった。其処では周囲に気兼ねすることなく、心の赴くまま激しい仕種で愛を確かめあうことができた。

 しかし時間に余裕のない二人は、雄策の性欲が異常に昂進して耐えられなくなると、夜の河川敷で手軽に済ませることも多かった。まるで犬猫のような性交である。もしも普通の人間が知ったら、馬鹿だ、気違いだ、変態だ、不潔だなどと、ありとあらゆる罵倒をあぴせられるだろう。けれども二人にとっては死にもまさる快楽の坩堝だった。

「男色というのは場所などいらない、どうにもならないほど雄策のちんぽが勃ってきたら、俺が河川敷で吸いとってやる」

 そのころ多助は力いっぱい雄策を抱きしめて、よくそんなことを言った。雄策は黙っていたが、そのたび多助の言うとおりだとおもう。河川敷のうえで尻を突きだし、受ける態勢になった多助さんの尻をかかえて挿入してしまえば、ひとりでに腰がうごいた。多助さんの尻もごく自然に収縮を繰り返しながら雄策の性器にからみついた。

 奥まで挿入して腰を使いながら夜空を見あげる。何時もの星をじっと見ながら快楽の通信をはじめる。あまりに気持ちがよくて体ではしっかり多助さんを抱いているのに、心だけが星の世界まですーっと飛び上がるような錯覚を覚える。けれども星への道を一心不乱に飛びながら、抱えている多助さんの尻が可愛くて愛しくて泣きたくなってしまう。

 頑固に多助さんの秘密はもちろん、自分の秘密を守って暮らしているので、其処が自然の河川敷のようなお粗末な場所でも、お互いに結ばれているという実感がふるえるほど嬉しいのだ。そしてたぶん多助さんも同じ考えらしく雄策の性器を受けながら声をたてずにむせび泣いている。その声を聞くとよほどセーブしなくては洩らしてしまう。

 めったに会えないから不覚に洩らしてしまえば後味が悪い。射精のときは自分の意思でフィニッシュに向かうのだが、その寸前には多助さんにもその事実を知らせ思い切り豪快に注ぎ込みたい。多助さんはそんな雄策のやり方を知っているので、『もう行くぞ』という雄策の声を聞いたとたん体をこわぱらせ、悲しそうな声で泣くようになっている。

 雄策が急に美智子と結婚しようときめたのは、二人の体がどんな恰好でも繋がることができるようになり、文字どおり琴瑟相和す間柄になっている最中だった。そのことを真っ先に父親に報告すると父はこおどりして喜んだ。これでやっと跡継ぎができると言うのだ。親威の女たちは涙で顔中を歪め、美智子さんをはやく見たいと言った。

 ところが美智子はあろうことか多助さんの長女だった。多助さんは詳しい胸中は一切語らないが、これから先永久に雄策と付き合うために、自分の長女を雄策に与えようと考えたのだ。考えてそれを雄策に進言したのも悪いことだが、それをそのまま受けて実行に移した雄策もまだ恋に盲いた結果、思考や発想が正常ではなくなっていた。

 平成の現在、世間では、五、六歳の女の子を誘拐して殺すような凶悪な事件が頻発している。その犯人たちは不思議なことに、自分を悪い人間などとは思わないらしい。それどころか淡々として、『私のように少女を誘拐して可愛がりたい男はいっぱいいる。彼等はやりたいと考えているだけで、ただ実行しないだけだ』とうそぷいているという。

 美智子にとってみれぱ、誘拐された少女よりもさらに残酷で悲しい人生の一こまなのだ。一人の女が父親の性向の犠牲になり、女を愛せない男の許に嫁いでいく。これが犯罪でなくてなんであろう。娘の幸せをどんなときでも祈るのが親の定めなのに、多助さんは自分の欲望を満足させるため敢えてそうしたのだ。他人ではまずできないことを考えると、親子というのはやはり悲しい間柄だと複雑な心境にならざるを得ない。

 しかし実父がきめたこの結婚はとんとん拍子に話がすすみ、五月の良き日に二人は結婚式をあげたのだ。三三九度の杯も親子の別れの杯も滞りなく終わって、雄策と美智子は晴れて夫婦になった。結婚の形式は昔から種々あるが、武士の時代に流行った政略結婚とは訳がちがう。何時かは神様から鉄槌を打ち込まれるようで雄策は怯えた。

 しかしその結婚の朝、多助さんは式場の離れに雄策を呼んで早口で言った。

「なにもかも黙っていれぱわからない。俺も苦しいが一番苦しいのは雄策、おまえだぞ。けど美智子にはなんと言って詫びればいいのか俺わからない。どんなことがあっても何も言うでないぞ。わかったか雄策……」

 とぎれとぎれに話す多助の声は老人のようにふるえて聞こえた。愛のない結婚、女を愛せない男が付き合っている男の娘を嫁に貰う。その娘が何時までも騙されているはずがない。そういう世間の常識どおり美智子は結婚後三年目にして雄策と別れている。そしてそれから十年以上が経過し美智子は三十四、五歳の女になっているが、再婚の話しになると眉を顰め、『結婚なんてとんでもありません』で片づける。

 しかし多助さんは六十三歳になった昨今すっかり弱くなった精力をぼやきながらも雄策と会えば、ただ一方的に雄策の性器を口で愛撫し最後には多量の精液を飲み込むだけで満足する男になっている。雄策はそんな多助さんと寝るときは何時でも布団のうえに大の字になって、多助さんの口での愛撫を受けることに慣らされていた。

「多助さんの口は天下一品で死ぬまで放されん。一舐めされるたぴ天に昇るように気持ちがいい。終わったあとはぐったりして物も言えなくなる。多助さんの口はすごい」

 すべてが終わったあと雄策はそう言うのが口癖になっていた。そして事実それ以上の深くて質の高い陶酔に引きこまれた。しかし十年以上もそんな付き合いをつづけていればマンネリになり、たまにはもっと美味しい御馳走を食べてみたくなるときもあった。さらに美智子にたいする罪悪感は、二人が付き合っているかぎり消えることはなかった。