山寺の四季
月刊「サムソン」1992.11月号〜1993.10月号に連載(全12回)
物語
 車で博多まで一時間もかからない山中の朽ち果てた山寺。
 七十二歳の龍岩和尚と四十一歳の番僧慈覚は昭和四十八年の秋、駆け落ち同様の態で京都からこの寺にやって来て、以来二十年近い歳月を共に暮らしている。
 檀家のいない山寺は和尚の人柄に惹かれ山寺を訪れる信者たちと、彼ら二人のファンの寄進で成り立っている。
 彼らのファンは、功なり名遂げた年配の男色者たちがほとんどで、その中には龍岩和尚の愛人も数人含まれているし、龍岩和尚が指名し許可した慈覚の愛人も含まれていた。
「山寺の四季」読書会からの抜粋
 平成13年にCLUB21の掲示板で行った読書会の過去ログから、面白いご意見を抜き出してみました。この他にも、色々とすばらしいご意見がありましたが、当たり障りがあるものなどは、省いております。
 野比さん、心棒さん、Nao@USさん、山寺の熊僧さん、shujiさん、褌デブさん、熊越さん、智さん、TACさん、徹雄さん、田園さん、todoさん、仲田さん、林さん、不如帰さん他、インターネット読書会に参加して下さった皆さん、その節はありがとうございました。

          
感想 投稿者:野比 (3月24日(土)20時40分42秒)

「山寺の四季」の最初から三回までの感想です。

まず「山寺」という場面設定がいいですね。
男ふたりだけで日常生活ができる場所として、
お寺でしたら世間的にも許されそうですし、
まして山中の寺ならやりたい放題でしょう。(笑)
雨月物語の中の青頭巾のような情念も想起されて、
いっそう怪しく淫靡な雰囲気を感じます。

龍岩和尚と番僧慈覚の関係だそうですが「番僧」を知らず、
文中に番僧の説明が出てくるまではSEXの当番のお坊さん?
などとひとりで馬鹿な突っ込みを入れて読んでいました。
無知は困ったものですね。

しかしこのふたり、「身も心も…」の言い回し通りの、
至福のSEX描写の連続ですね。
しかも、それを20年近く続けてきたというのですから、
羨ましい限りです。
それが連載の三回まできたところで和尚に微妙な変化が…、
ということで、この先も楽しみにしています。

桜の樹の下には・・ 投稿者:心棒 (3月24日(土)21時49分32秒)

待ちきれず日溜りの桜の下で一杯やってきました。二分咲きくらいでしょうか、
不倒翁ならずとも、桜は妖しい気を放ってますね。
連載小説は1話だけでも完結した読み物として成立していますが、
全部通すと実に奥が深い物語になりますね。
龍岩和尚と慈覚の1年間が数十年の重みをもって迫ります。
第4話の榎本さんを通して描かれる善三、サンドイッチですね、
前作の、哀れ晋三、そしてあっぱれ善三でしょうか、
龍岩和尚の期待と逆に慈覚が榎本さんを追い出してしまう、
濃厚なセックス描写だけでなく、心理的葛藤が読者を惹きつける。
野比さんも書いてらした第3話最後の和尚に微妙な変化は、
第4話では肩透かしをくらった感じですが、それはそれ、
ますます楽しみな展開です。

桜の季節 投稿者:野比 (3月25日(日)20時40分00秒)

「山寺の四季」四回目はまさに今からの時期で、
桜の描写と相まって内容がより鮮やかに感じられました。
この山寺に山伏のような榎本が訪ねてきたことにより、
龍岩と慈覚の日常に大きな波紋が広がりますが、
この三角関係は異性愛でいう妻妾同衾なのでしょうか。

慈覚が、善三のときには結局3Pを楽しんだのに、
榎本との場合は三人で寝ることがなかったのは、
慈覚が榎本を最後まで受け入れられなかったのでしょうね。
今回、和尚が慈覚に対してヘソを曲げた理由として、
慈覚が榎本を勝手に追い出したこともあるのでしょうが、
榎本、慈覚との3Pに未練があったように思います。

ま、お寺といっても煩悩を祓うべき除夜の鐘のときにも、
そこかしこで性欲が渦を巻いているような所ですから、
セックスの上での諍いも不思議ではないでしょう。
そんな軋轢も二人きりになってから元の鞘に収まった、
というところでしょうか。
でも、榎本が退かなかったらどうなっていたでしょうね?

ところで初心者の素朴な疑問ですが、
性器の相対的な大きさの違いを最後の切り札にするほど、
受ける方にとってその違いが大きいものなんでしょうか?
それとも和尚を想う気持ちの比喩的表現?
いずれにせよ、そんなもので勝負するなぁ!と私は言いたい。(笑)

参加希望です 投稿者:Nao@US (3月28日(水)06時21分10秒)

不倒翁さんの小説を初めて読んだとき、あまりの濃さに驚きました。
ネットリ感が、他のゲイ雑誌の作家とは断然に違うんです。
老いていく肉体の中で、なおも燃え上がる生と性への執着、人間という存在の煩悩の深さをあれだけ見事に激しく表現できる作家というのは、僕は他に知りません。ノンケさんの世界を含めた、一般の文学者と呼ばれる人達を含めて、彼ほど性愛への煩悩の深みを出せる人は、今の日本にはいないんじゃないでしょうか。

最近サムソンに彼の作品が掲載されないんですが、亡くなられてしまったんでしょうか?
僕は、必ずしもフケ専というわけではなくて、不倒翁さんの作品の人物がいつも本理想、というわけではないのですが、彼の作品のもつ独特のあのねちっこさが
時々たまらなく懐かしくなります。彼の作品をもう一度読める機会があったら、是非読みたいと思っていました。

以上のような次第で、若輩者ですが参加希望ということでよろしくお願いします。

山寺の四季 投稿者:山寺の熊僧 (3月29日(木)19時15分58秒)

早速、山寺の四季を読ませていただいてます。やはり、不倒翁さんのSEXの描写は素晴らしいですね。
私もすっかり興奮してしまいました。皆さん方は、龍岩和尚と慈覚さんのどちらがタイプなんでしょうか?
私は、慈覚さんのよう方が大好きなのですが、ちょっと極端に体もナニも大きすぎるかな。
もう少し、普通っぽいサイズならいいのですが.....。まあ、まだ始まったばっかりですから今後の展開に期待です。実は私も慈覚さんと同業者なのですが、あんな番僧さんがいたらなあ、なんて考えています。ちなみに、番僧という言葉はあまり使いません、役僧、または納所さん、という風に使います。
                                 山寺の熊僧(47)
第五話 投稿者:野比 (4月1日(日)23時54分12秒)

山中の滝の傍らで木々の緑に包まれての愛の交換。
開放感に満ちた素晴らしい場景が浮かびます。
しかもお互いを知り尽くした相思相愛のセックスは、
単に好みのタイプとのそれとは違うでしょうから、
まさに至福の、といったところですね。

そこで龍岩が慈覚の葛藤に応える場面がありますが、
龍岩の和尚という立場では難儀な問答だったでしょう。
また長年相思相愛のふたりが、岩龍は自分の意のままに、
慈覚は岩龍の意向に添った相手だけですが、
それぞれに時々タイプの男と関係するというのは、
男性同性愛の本質のような気がします。
慈覚の言う「身も蓋もない」ような話ですが…。
だからこそ古賀医師との3Pにも発展するのでしょうか?

亀レスですいません。 投稿者:Nao@US (4月8日(日)10時36分54秒)

不倒翁さんの作品を読むのは久々なんですが、ホントに、この方の小説には独特のいやらしさがありますよね。
特に、アナルセックスの描写のねちっこさはものすごいです。
でも、僕は個人的にはあまりバックはやらない方だから、バックのセックスの細かい描写より、時折ちらりと見せつけられるような、一瞬のエロスのひらめきの描写のほうに心惹かれるものが多いです。
たとえば、こういう感じの奴。

「『和尚さんの顔を見ただけで、私のマラが勃起して雁から汁がたらたら零れているのです』と囁いた」

「やさしい言葉の一つでもかけてくだされば、触りもしないのに一気にふんどしのなかに射精したに違いない」

「琢磨は心のなかで、『その笑いは私にくださったのですね』と問いかけた。
すると和尚が一度だけ頷いたような気がした。(略)
そんな龍岩和尚の顔をじっと見つめながら、琢磨はふんどしのなかにどろどろと熱い精液を吐きだした。」

こういう描写、すごく好きです。これって、全部作品の始めのほうに出てくる琢磨というでっぷり太った実業家が和尚に惚れていることを示す場面なんですけど、顔をみているだけで勃起し、声を掛けられただけで射精してしまうなんて、なんてエロっちいんでしょう。僕も、一度それくらいものすごい惚れっぷりをしてみたいものです。こういう細かいところまでものすごくエロかったりするのが、不倒翁さんの作品の魅力ですよね。

ところで、皆さんの間でも話題になっている、この和尚と慈覚の関係ですが、不倒翁さんの小説でおなじみの、長年一緒にくらしてるけど浮気は互いにやり合う、でも互いに嫉妬したりする、という奴ですよね。
僕自身は、カップルをこういう具合に描くことに多少抵抗感があります。
だけど、きれい事ばかりを書かずに、こういう関係を見事に描ききってしまうのが不倒翁さんの作品の魅力の一つだとは思います。

僕は、まだ男の人と同棲したことは無いんですが、実は今まで付き合った男の人と、2年以上続いたことがない。
結局、セックスに飽きてしまって他の男と寝てしまい、もとの男の人との関係が壊れてしまうんです。
僕自身はいつまでもこんなことでいいのだろうか、という疑問はあります。
数ヶ月単位で次々と男を乗り換えていく生き方、これが死ぬまで延々と続くのかと思うと、とてつもない脱力感に襲われることもしばしです。

だけど一方で、普通の夫婦の様に長年排他的な関係を続ける自信もない。
男の性欲って、結局浮気性じゃないですか。だから、夫婦のように「添い遂げる」というのは無理なんじゃなか、ってそう思ってます。
そういう意味では、不倒翁さんの小説に出てくるカップルのあり方は、とても現実的です。僕も、もしかして大切な人ができてずっとその人と一緒に暮らすことになっても、多分不倒翁さんの小説のなかのカップルみたいに最後は互いの浮気を認め合いながら、嫉妬心との微妙なバランスを保つ関係になってしまうだろう、という予感はしています。

でも、心のどこかで、そういう現実をあまり認めたくない、そういうカップルになってしまうくらいだったら、別れてしまった方がいっそすっきりするのに、という気持ちも棄て難く残ってしまうのです。だから、正直言って不倒翁さんのカップルの書き方は、不快な気持ちがすることもあります。せめて小説の中だけでも、互いにのみ惚れあう理想的な、カッコイイカップルを見せて欲しい、そう思う気持ちを押さえきれないんです。

だけど、先にも述べたように男の性の現実から逃げずに、きちんとそれを描ききる、というのが不倒翁さんの作品の魅力なんですよね。
互いに浮気しまくり、嫉妬しまくりのカップルをきちんと描くことで、かえって男の性の虚しさ、そして生きていることの虚しさと寂しさ、というものを見事に浮き立たせてしまうわけです。

夢のカップルを描いていては、現実離れした作品になってしまう。
かといって、あまりシビアな現実に忠実な小説ばかり書いてもつまらない。

あちらを立てればこちらが立たず、というところで、難しいところです。

仏門と男色行為 投稿者:Nao@US (4月18日(水)05時04分58秒)

第4章、5章楽しませていただきました。
相変わらず、不倒翁さんて発想がぶっ飛んでますよね。
熱の出てる和尚に巨根をぶち込んだままところてんさせちゃったり、ケツに巨根突っ込んだまま膝の上に抱いて口移しでおかゆを食べさせたり・・・。
実は、僕も最近暇を見て小説を書いてみてるんですが、こういうエロっちさってのは自分には到底思い付けないし、書けそうにないです。

ところで、5ー1の中で、慈覚と和尚がちょっとした男色論争をする場面があるんですが、読んでいてすこし疑問感じました。和尚は、「男好きが少数者だからといって卑下することはない」、という言い方をしているんですけど、本当に仏門に入って勉強している僧侶なんかでも、男色の事をこういう風に捉えているものなんでしょうか?

僕もそれほど詳しい方じゃないんですが、江戸時代以前の世の中では、女性は男の煩悩をかきたてる汚れた存在とされていたために僧侶の世界に入る事ができず(尼さんになって尼寺に行くのは別にして)、男ばかりの僧侶の世界では、男同士の交わりはごく普通の事とされていた、という話を聞いたことがあります。
だとしたら、その流れを汲むはずの正統派?の仏教界では、男色は少数派でもないし卑下されているということもないんじゃないか、という気がしたんです。

勿論、この作品の舞台は江戸時代以前の仏門などではなく、舞台は戦後の現代社会です。今の仏教界では、男色はどういう扱いになっているんでしょう?
明治維新以降導入されたキリスト教文化の影響を受けて、仏教界まで男色を少数派として卑下するようになってしまったんでしょうか?
だとしたら、ちょっと情けない話ですよね。
このへんの事情に詳しい方が居られたら、是非教えてください。

それともう一つ、「己の業」を断ち切ろうとして、慈覚と和尚が滝に打たれる話がありますよね。
これなんかも、僕は実は、昔からいろいろ疑問を感じる所なんです。
僕は、高校時代仏教系の高校へ通っていたので、仏教の授業というのがあったんですよね。
その中で、人間には煩悩というものがあって、そこから解放されれば人間はすっかり楽になる、そしてその状態(涅槃)に達することを目指すのが修行である、なんていうそういうことを習ったような気がするんです。

でも、僕はなんだかあまり納得できませんでした。
確かに、煩悩が人間を苦しめるものだというのはよく分かるんですが、そこから一切解放されてしまった涅槃の境地に達した存在って、いったい何なのかまるきり理解できなかったんです。
それって、果たして人間といえるのか?
煩悩からすっかり解き放たれてしまった自意識というものがあったら、それは果たして僕ら未だ解放されていない人間とコミュニケーション可能な知性となり得るんだろうか?
煩悩からすっかり解放されてしまうってのは、生きている意味そのもがなくなってしまうような気がしたんです。

人間が達しうる現実的な所としては、煩悩を抱えながらもそれに振り回されないだけの強さを身につけるって辺りなんじゃないか、あの時も今もそう考えてるんですよね。滝に打たれて自分の気持ちを整理したりするのは、そのために役に立つ事だとは思うんですけど、一切の煩悩から解放されるってのは、ちょっと・・・なんだか、人間じゃないものになってしまうようで、自分にはよく分かりません。どうしてそういう存在を目指そうと思うのだろう?
煩悩があるからこそ、面白い事だってある様な気もするんですが。

固い話ばかりですいません。

参加希望 投稿者:shuji (4月26日(木)16時40分02秒)

 このHPを見つけて、心がときめく思いです。 
10年程前本屋で、人目を気にしながらドキドキして、斜め読みしたことを思い出しました。 
私も不倒翁 甚平先生の大ファンでした。買って帰ってじっくり読みたいと思いましたが、家では保管に困り、立ち読みの斜め読みで、文章を頭に入れて帰り、夜思い出して、センズリをしたものです。
 私は61歳です。みなさんよろしくお願いします。

感想 投稿者:shuji (5月1日(火)15時18分23秒)

 不倒翁先生の作品は九州が舞台になっているのが多いですね。私も福岡に住んでおりますので親しみが涌き、思い入れもひとしおです。博多の発展映画館や博多近郊の温泉、二日市温泉だと思いますが、登場する作品や、旅役者一座が九州内の小さな町を巡業する作品も読んだ記憶があります。
 感想ですが、情景描写や心理描写、なかでもセックスの表現は素晴らしいです。只、せりふが少ないので、読んでいる途中、息抜きができず疲れる気がします。私だけかもしれませんが。
 好きな表現では、シクシクと泣くとか「さめざめと泣く」などが最高です。私はタチですが、この作品を読んで、好きな男のチンポを入れてもらい、この世の極楽を、一度でいいから味わってみたくなりました。これをドンデンと言うんでしょうか?
 皆さんのご意見をお聞かせ下さい。  

はじめまして。 投稿者:褌デブ (5月11日(金)00時54分43秒)

はじめまして。
たった今、偶然このホームページと出会って驚いています。
私は、大阪に住む33歳のデブ専でぶです。
思えば、私がこの世界と出会ったのきっかけこそが、
本屋でこっそりサムソンを手にしたときに読んだ
不倒翁甚平氏の「山寺の四季」でした。
番僧の慈覚に憧れた私は、
それからまもなく、越中褌を締めるようになりました。
また、物語のような水行三昧の生活に憧れ、
これまでに幾度か、ツテを頼って
褌一丁での禊ぎ、滝行などに参加しています。
某山岳宗教の修行に参加し、客人扱いとして禊ぎをしたときには、
修羅行と称して、行場までの片道1キロほどの山道を
褌一枚すら許されず、素っ裸で歩かされたこともあります。
それでも、ファンタジーとはわかっていても、
「山寺の四季」の世界が忘れられず、
今でもいつか、全てを捨てて
番僧慈覚のような生活を送りたいと願っています。
残念ながら、当時は寮生活をしていたため、
サムソンを買うことが出来ず、立ち読みのままで終わってしまいました。

懐旧談 投稿者:熊越 (5月11日(金)18時49分49秒)

私が不倒翁氏の小説にはじめて接したのは、初めて購入したサムソンでした。
おぼろな記憶では、映画館の中で3Pをすると言うような話でした。
初期の作品だと思います。
オーナーならタイトルなど詳細をご存知でしょうね。

上のイラストの作者、五島玄さんでしたっけ?のイラストと共に
私は不倒翁氏の小説世界に埋没して行きました。

氏の小説は、老けデブ専のつぼを完全に心得ておられました。
登場人物が、でっぷりとした体格の良い老けでぶで、並外れた巨根。
マラと言う呼び方。ほとんどがふんどしの愛好者と、
私の老けデブ専心をがっちりと捉えました。

以来、ずっと氏の小説が好きでしたが、近所の書店がなくなり、
サムソンの入手が困難となり、自然と足は遠のいていました。