追悼 今井編集長 (月刊「サムソン」1997年12月号)

今井英夫様へ           不倒翁甚平

 私があなたと最初に出会ったのは昭和五十八年の真冬でした。何気なく出した私の封書の中の短文があなたの目に止まり、私からの一方的な電話にたいし執拗な誘いの言葉を受け、断りきれずに少々の恥ずかしさと好奇心の気持ちでお会いしました。

 私は華やかな職業の現役でしたが、若い頃から小説の真似事のような代物を書きながら、こちらの世界に踏み込みたいのに、世間や家族のしがらみに縛られ、普通の男として還暦を迎えた直後。あなたは四十歳になったばかりでした。ふたりとも若かった。その夜、私はこの世界の深みをそっと覗き、目から鱗が落ちたような気がしました。

 私はあなたが五、六年ほど前から同種の雑誌社で、殆ど自分の好みの雑誌作りに精を出し、得意の分野で活躍していることを嗅ぎつけていました。その得意の分野というあなたの好みが、私の好みと同じだったのは実に運命的でした。あなたが海鳴館という新しい分野の雑誌社を創設したのは、それからまもなくだったと記憶しています。


 そして最後に会ったのは昨年の十一月の中旬でした。二、三のスナックに寄り何一つ話すこともなく別れたのですが、あなたは上野駅を背にして真っ直ぐ歩き去り、私は浅草行きのタクシーに乗るため、立ち止まりあなたの背中を見送りました。その間、あなたは一度も振り返ってはくれませんでした。そしてそれが最後の別れになりました。なんだか淋しい幕切れでした。

 この度、何気なく電話した海鳴館の方からあなたが死亡したことを知りました。五十三歳だと言うのです。「それはないよ」と私は自分の耳を疑いました。もっと立派な小説を書いて、あなたに褒めて頂きたかったと自分本位なことを考えました。名実ともに雑誌社のオーナーになったあなたの姿を思い浮かべ、あなたの悔しさが伝わってきます。

 お葬式も密葬だったと聞きました。それも一つの終末だと思う一方、あの優しいあなたが一人で、遙か西方の世界に到達できるだろうかと心配で涙が流れます。私も七十五歳間近であすの命さえ分かりませんし、過去のことは総て忘れるほど老化してしまいました。だから私は今日一日だげが自分の人生だと思い、朝から一生懸命ワープロを叩きます。

 あなたの生は少しだけ短かったのですが、その分、結構輝いていました。ただ一つの心配は、あなたが宗教にどれほどの蘊蓄を持っていたかということだけです。

 近い将来、あなたと西方浄土でお会いすることがあれば、私は「面白い小説を一杯書いたよ」と言えるように、これからも私とあなたに共通する物語を、一生懸命紡いで生きようと思います。それまでは生きる世界は違っても、あなたの冥福を祈りながら強く生きていきます。

 あなたは黄泉の国でお釈迦様に抱かれ、安らかにお眠りでしょうか。それともあなたらしい休息の仕方をお探しでしょうか。とにかく安らかにお眠り下さい。

 最後に一首。

    君死すと、聞きて涙のあふれけり、

          いっしょ、いっしょと、ひぐらしの啼く