●カムチャッカから帰路東京晴海へ 8/1〜8/13日分更新(完結)
ピースボード旅行記 2002・5・3〜8・13
安藤 光子
8月1日 時差1時間戻す
レセプション前のガラスケースの前に「粘土で遊ぼう」のメンバーが 作品を持って集合した。 日高さんの計らいで オリビア号の飾り棚を一時借りて皆の作品を飾ることにしたのだ。 飾り付け前から 通る人達が覗いて黒山の人だかりになった。
口々に「カワイイーッ」「頂戴!」「分けていただけるの?」・・・様々な反応。
今まではケニアの木彫りの胸像などが入っていて 暗い感じのケースだった。 それが
折り紙を台紙にして 名前とコメントを書いてもらい飾り付が済むと スポットも効果的で 中々の作品展となった。 皆の粘土の残りで私もキューバの歌姫を造っていた。
ケースは 鏡になっているので 私の造った人形のお尻のTバックの下着もばっちりと
見えた。 六地蔵を造った三宅さんは メキシコのキエ・ラ・デ・クエスタの海岸で
ビーチコーミングをして拾った流木に お地蔵さんを並べた。 それがとても効果的だ。
サンタクロースあり、鯨の背中にかえるを乗せた丸尾さんの作品ありで 楽しいものになった。 思い切ってやってよかった・・・・
史上初「世界一周をした日本人の話」」 水先案内人 金丸知好さんの話
彼は以前 ピースボートスタッフだった。 今は自由文筆業という肩書き。
最新著書は「復興、廃墟からのワールドカップ」だ。
江戸幕府が鎖国をしている間に 若宮丸がロシアに漂着した。生き残った人は日本語教師になったことなどは まったく知らなかった。 通訳として日本人4人はロシア皇帝の命を受けたレザノフと共に 開港の交渉にやってきたこと、半年も長崎の港に留め置いた末に 国交はしないと使節を帰し、日本人4人だけは返してもらったという失礼なことをした江戸幕府。 高田屋嘉兵衛という商人は民間外交を幕府の力を借りつつ行い、新たな航路を開いたりした人物だったが ロシアの船に捕らえられ カムチャッカに連行された。国後島に来たロシア船の艦長ゴロブニンを捉えて松前藩は拘禁した。 それはとても卑怯な方法で捕らえたらしく 金丸さんの話によると 高田屋さんは ゴロブニンを幕府が卑怯なやり方で捕らえたので 自分から捕らわれに行ったのではないかといっていた。 1813年ゴロブニンと高田屋さんは交換釈放され、ゴロブニン事件は解決された。 このように ペリーによる開港までには 数々のドラマがあったのだ。
学生時代、テストのための勉強で「何年に何があった」などと 憶えたあの数字はどんな意味があったのだろう・・・・畳み込むように言葉が溢れてくる金丸さんのような授業を受けていたら もっと歴史にも興味が持てて、 今までの旅行でも 背景を考えながら旅をして行ったら もっと面白かろうと思った。
カナダの検査を通すために大量の水を捨てたことから ピースボート代表の中原さんとがジャパングレイス代表の本山さんが 坊主になった。
シャンプーの時の節水を自ら示したというのだ。 「出来ることからする」ということらしい。 極論のような気がした。
夕食の後、 誕生日のケーキをウクライナのクルー達が ハピバースデーと唄いながら私のテーブルに来た。 10日遅れで 誕生日となった。
あらためて、 「55歳になりました」
8月2日 時差1時間戻す
「ロシア語講座」が 始まった。
クルーはみんな、ウクライナ人、その気になれば この3ヶ月、ネイティブなロシア語に接していて 絶好のチャンスだったのに・・・
付け焼きではあるが ペトロバウロフスク・カムチャッキに向けて 講座に出ることにした。
先生はロシア人で日本語も達者な アレクセイさん。 漢字も書いてしまう。
おはようございます ドーブラヤ・ウートラ
こんにちは ドーブラヤ・ヂェーニ
こんばんは ドーブラヤ・ヴーチェル
あいがとう スパシーバ
1時間の講座の最後には 「カチューシャ」を ロシア語でアレクセイさんのギターに合わせて 唄った。
「第40回南回りクルーズ説明会」を覗いた。
元々 南回りに魅力を感じていたが 時期的に12月から3月というのは クリスマス、お正月がかかる為 まず、無理だと思っていた。 聞くだけでも・・・と思って出かけてみた。 南回りのハイライト、南極とケニアを映像と体験談で構成されていて
「船に今、乗っているあなただけに特典です」とスタッフは営業マンに早変わり、まるで毛皮のコートを勧めるように 心を動かされている者の近くにやって来て 説得が始まった。 主人にも同じ経験をさせてあげたい・・・と思って聴いていた私は 営業スタッフの手管にまんまと乗ってしまった。 キャンセルは10月の頭までは効くという一言に 巻き割りと巻き運びは主人のいない間、誰がするのか・・・・と思いながらも
申込書に主人の名前を書いていた。
「もったいないから いい」というにきまっているけれど・・・・
「人はなぜ船を出すのか?」 責任パートナー団 の話を聴いた。
責任パートナーとは 地球一周を終えた船が最後の港に着いたとき、この旅の実現に費やした莫大な時間と労力を忘れ、また船を出したいと思う人達のことをいう。
普段、スタッフとして この人達はいつ寝ているの?というほど 朝早くから真夜中まで
働き通しに見える彼らの素顔を紹介する企画。
お客さんとして船に乗ったのがきっかけとか 路上でビラをみたのがきっかけとか 動機は様々、 今ではNGOの{仕事}として 頑張っている様子がそれぞれに感じられた。
中には「好きな人がいます。でも相手は妻子があります。 以前は葉警察犬の訓練をする仕事でした」 などと皆を笑わせていた人もいた。
「オリジナル料理交換会」を企画したみほさんを サダコラウンジに尋ねた。
岡崎に住む彼女は 帰ったら居酒屋をすることになっているそうだ。 居酒屋メニューをこの船で情報をもらって 役立てようとするもくろみだった。
夜にアンコールワットのメンバーの親睦会があった。 もう、すっかり過去になってしまったアンコールワット。
「我が家の自慢料理コンテスト」でグランプリに選ばれた高木さんも駆けつけてきた。
{福袋}と名づけた日本料理、大きなあげの中に冷蔵庫の整理野菜を入れて煮付けたものだった。
8月3日 時差1時間戻す ガラ・ビュッフェ
みんなの話題は すでに帰国後のことばかり、 この一月は 瞬く間に過ぎた気がする。
売店で 要領よく荷造り用の ダンボール箱をもらってきている人もある。
事務局では 1個 500円で販売されている。 私のガラクタは 果たして何個に納まるのだろう・・・・
朝、アレクセイさんのロシア語講座に出る。 庄治さんも誘った。
昼食を終えると 過密スケジュールが待っていた。
1時30分から2時まで 花どこ隊の合奏の練習、 1時から2時半まで 金丸さんの
「カムチャッカ抑留記」の講座、2時から3時半まで 「音楽喫茶」
船内の端と端に位置する開場を分刻みで走った。
「音楽喫茶」は思い出の曲にまつわる エピソードを皆に披露し 最後にはその歌を唄うという企画。
私が到着したときは 岐阜出身の武藤さんの話になっていた。
親友の息子さんが 親の反対を押し切って結婚したいと冬の寒い夜に突然二人でやってきた。 人肌脱いで 結婚させるまでのいきさつを話された。 親友は最近亡くなられたようだ。 勘当を続けていた親友は、 亡くなる時武藤さんの手をとって「ありがとう」といわれたとか。 涙ぐんで思い出の曲、「矢切の渡し」を唄われた。 まさに 歌詞にあるとおり 「連れて逃げてよー・・・」だったのだ。
夜の食事を一緒にしている高木さんの奥さん、芳子さんは 憧れの先生の前で
英語で「オールドブラックジョー」を緊張して唄った話、 少女に戻った芳子さんの話には さすが ご主人は来にくいのか 姿がなかった。
スタッフのアメリカ人たちも この歌に加わったが 「旧い歌」なので知らない人もいた。
日本人は大方が知っていると思うのだが 本国の人達の中に知らない人がいることが 不思議だった。 彼らの解釈が 様々だったことも興味を誘った。 南部の黒人たちが
苦しい労働の中、天国に召されることを夢見て唄った歌だったのだろうか・・・・
ガラビュッフェ
ガラとは盛大なという意味だとか。
本当に盛大なバイキングだった。
太巻き寿司の船盛り、鮭の冷製ショフロアー、アボガドと生ハムのカペリーニ、 海の幸と山の幸のピザ、ペンネのゴルゴンゾーラソース、子羊の香草焼き、ターキーのグロヤル、
その他、中華のビュッフェ、 お菓子のビュッフェと ものすごい!!!
ワインも飲み放題、 けれども胃袋はひとつ、食材を吟味する間もない、
もったいとしか 言いようがない。
できることなら、和食ビュッフェ、洋食ビュッフェ、中華ビュッフェと三夜に分けてくれたらいいのに・・・・見渡しても みんなもったいない食べ方をしていた。
「料理自慢大賞」にノミネートされている料理も並んでいた。
春巻きグラタン、失恋オムライス、野菜マリネサンドなど、味見をしたが
自分がノミネートされなかったから言うんではないが これといって取り上げるようなものはなかった。 高木さんの「福袋」と名づけられた油あげの中に野菜を入れて和風の味をつけたものがネーミングもよく 一番だろう。
夜も更けてから 金丸さんの撮ったスライドショー「北方四島」があったが
飲み放題のワインで酔っ払った私は ベッドの中に入ってしまった。 寝心地の悪い、狭いベッドだが 3ヶ月も経つと 慣れて好きなときに寝られる状態が ここへ来ていとおしい。
8月4日 時差23時に1時間戻す
すごい霧、風も殆どなく 一日中曇天
「国際歴史教科書」ピースボートのスタッフ野平さんの企画。
ドイツとポーランドの例を参考にビデオを参照し 教科書問題を考えようとしているのだが こういった企画は特に若者の出席率が悪い。 もったいないなあ・・・
次の世代を創って行く世代、特にピースボートに乗っているんでしょ!!!と言いたくなってくる。 スタッフ側も一方通行でシャワーのように流すのではなく、どうしたらもっと 動員できるのか?も考えたらどうだろう。
加害国と被害国が一緒のテーブルで話し合う、同じ認識を持つということは、持とうと努力することがすごいことだと思った。
「カムチャッキよもやま話」 再び金丸さんの講座。
金丸さんは ものすごくロシアに詳しいので カムチャッキも行ったことがあるのかと思ったら初めて今回のクルーズで行くのだとか。
カムチャッカという言葉は 「アカ蝦夷が住む」 カムサスカという言葉から来ている。
1793年に若宮丸が漂着して 16人が 最終的には5人となったが 内4人はロシアの使節と共に 世界一周を遂げた初めての日本人となったのだ。
1805年の仙台藩の江戸藩邸にたどり着くまでに 12年の年月を経たわけだ。
西洋で見聞きした顛末を決して人にしゃべってはならないと固く誓わせて故郷に返したという。 高田屋さんといい、開国までに日本の外でこのように活躍した人達がいたとは・・・
「GET英語でミュージカル」3ヶ月かかって153人のエンターテイメント達が
Aキャスト、Bキャストに分かれて 連続上映。 キャストが違うと違った雰囲気になるところを楽しんだ。 「コモンビート」と名づけられた内容は 肌の色、言葉、文化の違いを超えて人々がどれだけ分かり合えるか・・・というものだ。
中には外の世界で十分通用する人もいた。 熱気に喉もカラカラ、終わるや否や
無理やりスジャータさんを誘って 居酒屋波へいに出かけた。 ビールと石狩鍋で人心地をついた。
戻ってきてしばらくすると カヨチャンとサトちゃんが「超面白かった!」
と言って部屋に入ってきた。 「何だったの?」と言うと 1時間で8月5日が終わるイベントに参加していたのだった。
1日で行われる企画を1分とか2分刻みでやったのだとか。
「おはよう太極拳」「ラジオ体操」「朝食」「GET英会話」「社交ダンス」などを早送りの映像のようにやる様子を想像しただけで面白い。
「消えかけた8月5日」*もしも1日が1時間だったら*
毎日のように 深夜24時に1時間の時差調整をしてきたが 一瞬のうちに1日が終わってしまった。
8月6日 時差1時間戻す
今日は 広島に原爆が投下された日、 船内の行事は平和を考えるイベント一色。
「ヒロシマ母たちの祈り」8時15分から45分まで 投下された時間に合わせて企画された ヒロシマの悲惨なビデオを観た。
「ミミズが教えてくれた平和学」という講座を水野さんが自主企画。
ミミズを比喩として
どんなところにも住んでいる {国境はない}
野菜くずや落ち葉を役に立つものに変える {見捨てられたものに価値を見出す}
土地を耕す困難な仕事をする {何事も土台が大切}
どちらに向かっているのか判らない {予測したとおりの結果が出るとは限らない}
働いても成果が直ぐに現れない {大切なことをするには時間がかかる}
などと なるほど・・・というお話。
けれども、 水野さんの話の仕方が なぜか私には合わず 途中まで聴いて出てしまった。
「平和」を考えるイベントが多い中、私は「ブータン四方山話」を30分だけやった。
昨日、ピース工房で 時間を取るミーティングのとき、1時間ももらっても 間がもたないのでは・・・と思った。 船に乗る前にビデオとか用意をしていたら 映像も使って
話が出来るのだが。
昼食後の13時、 10人ぐらいは来てもらえるかと マイクの用意もしないでいたら
40人ぐらいにもなってしまった。 気持ちの整理がつかぬまま 3回行ったブータンの話しを ごちゃ混ぜにして 思いつくまま話した。 スジャータさんは マイクを借りに工房に走って行った。 細やかなサポートが本当にうれしい。
1時間はとてももたないと 30分にしたのは失敗だった。 皆さんの質問コーナーも
設けずに時間になってしまった。
「橋のない川」のビデオ上映の時間が来てしまったのだ。
西岡教授が かってブータンに農業指導をした功績で 現在のブータンがある。 日本人として誇りに思いたい彼の話をせずに 時間が来てしまった。
パート2をすべきか否か・・・ 数日に下船が迫る中、どうしようか・・・・
「花はどこへ行った」 再びビデオ上映、その後 花どこ隊の合唱と私たちハーモニカ、ウクレレ、オカリナ、ジャンベ、ギターによる合奏をした。
「花はどこへ行った」を歌わなくてもいい世界が来ることを願って・・・・
夜も更けてから 「メキシコのストリートチルドレンに出会った」 のOPに出かけた 10名の人の報告会があった。
今回の旅の私の「残念!」のトップを飾るのがこのOPを蹴ったことだった。
報告会の映像を見ていて 蹴ってよかった・・・と思った。 私がキャンセルしたことで
若者が一人 参加出来た訳だ。 彼女らはドラッグや暴力が日常茶飯事の中で メキシコシティーのマンホールなどで生活する子供たちを見てきたのだ。
それを何とかしようと頑張っているNGOの活動も見てきた。
そしてすでに「私に何ができるのだろうか?」と問いながら若者たちを集めて見てきたことを裏自主企画としてやっているのだとか。 いい話である。
何よりも あのマンホール、ゴキブリとシンナーの臭いが立ち込める中に入っていけただろうか?・・・・・ インドとネパールの光景が蘇えって、重なっていた。
8月7日 晴海まであと6日。
朝6時、デッキの重いガラス戸を開けるや否や アザラシかイルカかのお出迎え。
暖かい海域では イルカは思い切って飛び上がって曲芸まがいの姿を見せてくれたのだが
海水が冷たいせいなのか 黒い背中をピョコピョコするだけだ。
ぼんやりとした幻想的な朝日が昇った。
カムチャッカの上陸説明会があった。
私は交流コースを乗る前に採っていた。 が何度も交流を採ってみて 今ひとつ消化不良だったこともあって キャンセルをしていた。 すでに日本で20人の定員に達していた 「川くだりフィッシングツアー」のチャンセル待ちにしておいた。
採れるとは思わなかったので スジャータさんに「2日間出来ればどこかにまた泊まりに行こうね」と誘っていた。
ところが キャンセルが出て私に権利が廻ってきた。 すぐにスジャータさんにチャンセル待ちにしたらというと レセプションに出かけていった。
なんと、30人のキャンセル待ちというではないか。
今回の旅で このフィッシングほど主人に申し訳ない!!!と思ったことはない。息子もフライフィッシングが大好きで アメリカに居たときのあだ名は「釣りお宅」だった。
スジャータさんにも悪いことをしたが みんなの代表で行ってきます・・・・・
ロシア語講座に出席。
最後の講座、5回のうち1回 花どこ隊の練習と重なり欠席したが 英語が殆ど通じないといわれていたので 質問などもアレクセイさんに一杯して カムチャッキに備えた。
ファイナルイベントの一つ、 「ロシアンティーパーティー」が午後のお茶タイムに開かれた。 レストランでいつもサービスにあたっているウクライナ人たちが 美しい民族衣装を着て サービスをしてくれた。
オーチェニ・フクースナ! {とってもおいしい}と
ヤ・オーチュニ・リュブリュー {あなたのことが好きです}
モージャナ・ヤ・スニムー? {写真を撮ってもいいですか?}
これは カメラを見せないと服を脱いでもいいですか?という意味にもなってしまうらしい。
今日使えそうな言葉を手のひらに書いて パーティーに出た。 入り口には右左にロシアのカラフルな衣装を着た男女が並んでいた。 ウクライナの楽団ステップバイステップによる生演奏も始まっていた。 お菓子はいつも昼食のときに出る物に加えて、目先の変わったパン類とクレープがあった。 黒いケシの実がたっぷり入ったパンは美味しかった。
私は手のひらを見ながら 覚えたてのロシア語を使ってみた。 面倒なのでつい、英語で用事を済ませていたが ロシア語を使ったほうが 彼女らは親密感を感じるらしく、いつもの笑顔より数段素敵だった。
ネプチューンデッキで釣りをしたことがない人達のために レクチャーがあった。
中原代表は この仕事に着く前に へらぶなの専門雑誌のライターをしていたほど。
錘の代わりに部屋のキーを付けてリールを巻いたり 竿を振ったり周りの人の迷惑も顧みず 振り回した。 私に釣られる間抜けな魚がいるのだろうか・・・・・
8月8日 リストリヤ河・川下り
8時にペトロパブロフスク・カムチャッキ の アバチャ湾入港。
ユーラシア大陸の東の端、記録上ではロシア人と日本人が始めて出会った場所である。
1740年 ベーリングとチリコフを船長とする「聖ピョートル号」と「聖ヴァーベル号」がアバチャ湾に錨を下ろした。 その2つの船の名前を記念して「ペトロパブロフスク」という街になった。 しかしカザフスタンにも 同じ名前の街があったために このように長い名前となったという。
カナダを出てから 殆ど曇り。 ベーリング海は荒れると聞いていたわりに揺れたのは1日ぐらい あとは毎日霧が深いか曇天の日が続いていた。
入港時も今日1日持つかなあ・・・という空だった。 いかにもカムチャッカに来た・・という感じがした。 下船許可が出て 9時半船を降りた。 待っていた車は私の胸まである大きなタイヤが付いた 軍隊のジープみたいなトラックだった。
乗客19人とピースボートの遠藤さんが客席?に鮨詰め状態で座り、設計士の村井さんと中原さんが 下の段の運転席に座った。 港の前は急斜面になっていて ジープはジグザグに登っていった。 街に入った。 お役所らしきところはそれなりにヨーロッパの匂いをさせていたが アパート群とか一般の家はメンテナンスなど行き届いている様子はなかった。 鉛色に光るオイルのパイプが街を縦横に走るのを見ると、 流暢な日本語をあやつるガイドの青年が語ったマイナス58度の世界を想像するに足りた。
あっという間に郊外に出た。 殆どガスがかかった景色で遠くは望めないのだが 近くの景色は白樺、ハンノキ、ナナカマドの森だった。 時々雲の切れ間から覗く山脈は 幾重にも重なって 晴れていたらさぞかし・・・と残念でたまらない。
「これだけナナカマドがあったら 紅葉はさぞかしでしょうね」とガイドに言うと
「9月には景色は真っ赤になって とてもきれいです」と答えた。 彼は2年間日本で暮らした経験があり ホテルで働いていたせいか 言葉遣いがとても丁寧だ。
「東京は好き?」と重ねて尋ねると、 「新潟が好きです。でも東京は・・・」と言って首を横に振った。 沖縄にも行ったようで 暑さにまいってしまったようだ。
ロシア式別荘 {バーニャ}があちらこちらに見えてきた。 ガイドの説明によると 日本人の思っている別荘とは違って、殆どのものを輸入に頼るこの国では 短い夏の間に家庭菜園をして 塩漬けやオイル漬け、酢漬けなどに加工して長い冬に備えるための別荘だとか。
1時間半ほど走って トイレ休憩。
ドライブインといった雰囲気、ドアを開けるとパブのようになっていた。
ほの暗い明かりの中で 客の飲んでいるものは ウオッカだろうか・・ロシアンティーだろうか・・・・
1つしかないトイレに並んでいるだけで休憩時間は終わってしまった。
道端で乳母車みたいなものの前で座っているおばあさんたちが気になっていた。
メンバーたちが ピロシキを食べている。「どこで買ったの?」と言うと 乳母車のおばあさんを指差した。 ローカルな雰囲気のピロシキを食べてみたい!と走っていった。
乳母車は毛布で覆われていて 保温器になっていた。 毛布の中からビニール袋が出てきた。 4・5台並んでいる乳母車はそれぞれ味が違うらしいが 英語はまったく通じない。
時間はないし困っていると ガイドがやって来て手助けをしてくれた。
川くだりの場所で昼食のレストランが用意されているというのに 色々の味が試したくてポテトと野菜入りを買った。 20ルーブル払った。{1ドルは30ルーブル}
ジープに戻ると ゆで卵とベリー味を買った人がいた。 保温器の力はたいしたもので皆でフーフーと言って味見をし合った。
油で揚げてあるわりに味は軽くて ブルーベリーやイチゴをジャムにしたものが入っていたピロシキは 新鮮な美味しさだった。 {ベリー入りは1つが20ルーブル}
沼ら湖、小さなせせらぎも見え出した。道はでこぼこで ジープのシートは硬く振動が直に伝わってくる。 けれども、ヤナギランや薄黄色の花が絨毯のように咲いている風景はお尻の痛さを紛らわせてくれた。
ちょっと止まって写真タイムが欲しい!!!と思っているのに ジープはおんぼろ道をものすごいスピードで走っていった。
急に道とは思えないジャングルの中に反れた。 ガラス戸に枝がガリガリと当たった。
「レストランに着きました!」 回りはその辺りだけ下刈りをしたと思えるところにテントが2つ建っていた。 レ・ス・ト・ラ・ン・・・・????
リストリヤ河はすぐ近くにあり 覗きに行くと石ころまでくっきりと川底が見えている美しい川であった。 ガイドは カムチャッキで2番目に長い河だと説明した。 ゴムボートやカヤックがカラフルに点在していた。 4・5人の釣り客がライフジャケットを着て乗り込んだ。
どこの国の人達か分からないが 川を下って行った。 雨が少し強くなってきた。
食事の準備が出来るまで 寸胴鍋を薪の火にかけているテントで 暖を取りながら待った。
女の人が時々蓋を外して塩加減をみていた。 蓋をとるたびにハーブの香りが漂ってきた。 テントにあたる雨の音は段々と激しくなったが 私は 「いくら降ってもいいよ、ご飯が済む頃に上がってくれればね!」と空に念じた。
初めにスープが出た。 オショロコマのスープと言われた。 確か{幻の魚}と言われている魚だ。 玉ねぎとジャガイモが乱切りされたのが入っていて さけに似た味のオショロコマはタマゴも持っていた。
ハーブで魚くささを消したあっさりとしたスープだった。
「オーチュニ・フクスナー{とても美味しい}」と言って小型の洗面器ほどのホーローの器に お代わりを頼んだ。 2杯目は鍋から直に注がれたので フーフー言うほど熱くて美味しかった。 黒パンを1切れいただき もう充分なのだが、マッシュポテトとトマトと青菜のドレッシング和えとビーフの煮込みが 新たな洗面器に入っていた。
再び「オーチュニ・フクスナー」 体がしっかりと温まった。
雨具を付ける前に 天然トイレに出かけた。 皆からなるべく離れたところの 草むらにしゃがむと 後ろからヒグマがヌッと現われそうな気がしてモンゴルなどで慣れているとはいえ、落ち着かなかった。
宮田さんや三宅さんから借りた雨具などを持ってきていたが 現地のスタッフが かなりの雨でも大丈夫そうな雨具を着せてくれ ライフジャケットも付けてくれた。
祈りが通じたのか 雨も食事の時より弱くなってきた。 ゴムボートは中原さんのボートに乗ることになった。 「一度も釣りをしたことがない人! 僕のボートに乗ってくださーい!」と彼が叫んだからだ。
ロシアの船頭さんと中原さんの指導を受けながら 川を下りだした。 とんでもない引きが来たりすると 大喜び!けれども岩に針が絡まったりするだけだったかもしれない・・・針先に藻が付いてくるからだ。
竿を投げると木の枝に引っかかってしまったりで 途中で 川岸にボートから降りてカルチャータイムを作ってもらうほどだった。 再び川に戻った。何度も挑戦はしたが 景色を楽しんでいた方が性に合っていると竿を中原さんに渡した。 雨はどうやら止もうとしているらしく 雲が切れて美しい雪山が現れてきた。川を下りながら右を見たり左を見たりしている内に 掛川さんという初老の女性は何と4匹も釣ってしまった。
その中には 幻の魚、オショロコマもあった。
男性の一人も2度ほど大きな鮭がかかったが 引き上げるには至らなかった。
寒さも忘れて 2時間半、「もう3分で終わりにします!」と中原さんが言った。
川岸には私たちのジープが先回りして待っていた。
・・ああ、何にも釣らないうちに終わってしまった・・・と言いながら、最後に もう1回!と竿を振った。 すると、急に竿が重くなってきた。 「釣れた!!!」
何と私に釣られる魚がいたのだ・・・・
一瞬、伊藤シェフの顔が浮かんだ。 自慢してやろう・・・最後の晩餐に料理してくれるかしら・・・と思った。「中原さん、やったでしょ! 何センチかしら?」というと「30センチはあるでしょう」と笑顔で答えた。
天にも昇る気持ちで虹鱒を抱き 記念撮影をした。 すると船頭をしていたロシア人は私の釣った魚をとり 川に放してしまった。・・・一瞬気を失ったかにみえたが 船頭が水の中で両手で支えるようなに仕草をしていると やがて元気になってきた。もったいない・・・と思うと同時に生き返ってよかった!と思った。
他のボートの人達も戻ってきた。 釣り上げた魚は7・8匹あった。
掛川さんの釣ったオショロコマを中原さんが持って ピースボートのパンフレット写真のために撮影をした。
雨はすっかり上がって 帰り道はまるで富士山のような美しい形をした山が右にも左にも見えた。 こんなすばらしい景色がガスの向こうに隠れていたのか・・・・
牧場には牛も短い夏の草を食んでいた。
20キロを4時間かけてゆっくりと下ったビストラヤ川は 「流れの速い川」という意味だとか。 鮭の北上を狙ってヒグマも現れるという。 先遣隊で来たスタッフはヒグマに遭遇したとも聞いていた。
私は出発前の慌ただしい中、 寝る前には岡田昇さんの「カムチャッカ探検記・水と火と風の大地」を読んでいた。読み切らないまま 出発してしまったが 彼の探検記の中に長年にわたってプランクトンの研究をしている ルドミラー女史の話があったことを思い出した。
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「たとえば原野の川中に住むさまざまな植物プランクトンは緑色の葉緑体に太陽の光を受けて光合成を行うでしょ。光合成はリンや窒素などからブドウ糖やアミノ酸を作ります。
すべての動物は有機物に依存しています。 いろんな河川や小さな流れから流れ出る植物プランクトンをこの湖に生息する動物プランクトンが食べて繁殖します。
その動物プランクトンをニュルカの稚魚がすくすくと育って海洋に出て、大海で成長して生れ故郷の川へ戻ってくるのです。
産卵のピークになると湖もその周囲の川も遡上するニュルカたちで川面が真っ紅に染まるほどです。 とてもドラマチックな光景です。 しかし私たちがもっと興味をそそられるのは実はその後なのです。
産卵を終えて 全精力を使い果たしたニュルカたちは命を終えるわけですが、魚体が分解しても体内から出たリンや窒素は豊かな養分となって川床に沈みます。
リンがたくさんあれば 植物プランクトンの光合成が盛んになり 酸素が増えるのです。
だれにでもはっきりと目で確認できることがあります。 それは、ニュルカが遡上する前の川床の石の表面はきれいなのですが、彼らが産卵を終えて死んで2ヶ月ほど経って川床の石を観察すると、表面に藻がいっぱい繁殖し、付着して緑色なのです。 それらの藻は水生昆虫に食べられ、それをまた、ニュルカの稚魚たちが食べる。
正にめぐりめぐる生命の輪なのです。」
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自然界の「生命の輪」をみごとにわかり易く説明したルドミラー女史のこのくだりを思い出して ジープに揺られた。
サケ属の中でもっとも回帰性が強いニュルカの記事を読んだとき 船内新聞の名前を募集すると聞いていたので
私は この「ニュルカ」で 応募しようと決めていた。
私たちの旅も、 地球を一周してまた日本の東京なり神戸なりに帰って行く。 最終の寄港地でもあり 最終の目標に向かって進む・・・ニュルカのように・・・・・・・
ところが 神戸で乗船したときには すでに「パレット」と新聞の名前は決まっていた。
奇しくも 私の店の名前と同じ ぱれっと と・・・・・・
ガイドお勧めの ピロシキとは違ったもっと皮が薄くて中身はミート風の揚げパンを並んで買った。 三宅さんと半分にして揚げたてを食べた。 ピロシキのベリー味も忘れられず、乳母車のおばあさんのところに走っていった。
ガイドにそっと 「明日、1時の帰船にミットまで街ではなく このような山や川の景色に私を案内してくれない?もし出来るのなら3・4人誘うから」と言った。
彼は「船に着くまで考えさせてください・・・」と言った。
殆どの人が疲れて帰り道は居眠りをしていたが 彼がいい返事をくれるかどうか気になって 眠れなかった。 20時もまわった頃、オリビア号に着いた。
日の入りは10時過ぎ、曇り空でもまだ明るい。
ガイドに返事を促すと 「明日、1時までに帰るのは無理だと思います。私は車を持っていませんし友達の車も今、故障しているんです、すみません・・・」と答えた。
日本人を相手に 少し小遣い稼ぎをしてもいいなと思うのなら 私の申し出はとてもいいチャンスなのに 彼は断った。 「朝早く6時でも7時でも私は出かけられるのよ」ともう一押ししたかったが 中原さんと遠藤さんが挨拶をしようと近くで待っていたし 控えめな彼をこれ以上困らせてはいけないとも思った。
「オーチュニ・スパシーバ!」と言って大きな手と握手をして別れた。
税関のそばにカムチャキの少数民族の作ったみやげを売るコーナーがあった。
明日のためにと カムチャッキの自然を集めたパンフレットを買い求めた。 部屋に帰ってすぐにシャワーを浴びた。 夕食のタイムリミットは9時であった。食べ損ねはしたがドライブインでピロシキづくしをすでにしていたのでお腹は満足していた。
夜になると 少数民族 コリャーク人のグループによるショーがあった。
トナカイの毛皮をなめした茶色のドレスを着た美しい女性がダンスをした。 小さな子供も同じコスチュームでとてもかわいい。
ハラショー!{素晴らしい} ここでも「大地の子・エイラ」の世界を創造していた。 鳥の声をみごとに真似て タンバリンを鳴らしながらユーモラスに踊るファミリーは 観客も巻き込みだした。
こんなところで 飛び出す人はいつも同じ、
「また 出てきたの?いい加減にしたら・・・」という気持ちも湧いてきて いい気分でいたのが 「興ざめ」となった。 私は根性が曲がっているのだろうか・・・・
8月9日 晴海まであと4日
暗い内に起きてデッキに立った。
白い車が2台留まっていて 様子をみていると白タク風にみえた。 早く出かけなければ
1時の帰船リミットに間に合わない。 三宅さんらは 昨夜の内にシャトルバスのチケットを往復5ドルで買っていた。
私はピロシキやパンフレットなどを買って両替したお金は380ルーブルとコインが少ししかなかった。 市場などをうろつくより とにかく昨日のような山や川のある場所にいきたかった。 残りのルーブルと バンドエイド、ホカロン、ボールペンなどリュックに詰めた。 お金の足らないところは現物作戦というわけだ。
昨夜、夕食を食べ損ねたと宮田さんにいうと、カップラーメンをいただいた。
ピロシキの夕食で充分だったので カップラーメンはまだ持っていた。 これも現物作戦に入れよう!
7時半、 隣の部屋のスジャータさんに声をかけた。
「出かけるよ! あなたが行かなくても一人で行くよ!」
5分後にはスジャータさんも 私と一緒に イミグレーションにいた。
「さあ、親切なタクシーさんを見つけようよ!」
公園に沿った道をレーニン広場まで歩いた。ドーブロ何度か手を揚げたがタクシーはとまってくれない。 どんよりとした朝だが寒くはなく、快適な朝の散歩が出来た。
もうレーニン像など どこにもないのかと思っていたら レーニンさんは 頑丈な大理石の台の上に アヴァチャ湾に向かって建っていた。 ソ連も崩壊してしまった今、
いったい何を考えて海を観ているのだろう・・・・・
やっとタクシーが止まった。運転手は40代にみえた。
「ドーブラヤ・ウートラ!」{おはようございます}
早速 昨日買ったパンフレットを出した。 英語、日本語、ロシア語のミックス語で
話しかけ 「お金は380ルーブル、これだけしかないんですが・・・」と封筒ごと渡した。半ば開けていた封筒は ルーブル札が見えていた。380ルーブルという私のセリフが理解できたかどうか解からないが 「まず、乗って!」という仕草をした。
彼は改めてお金を数えようとはしなかった。
街は行きたくない、山に行って写真を撮りたいカメラを見せた。私の気持ちは解かってくれた。 けれども朝8時半。 「11時ぐらいにならないと晴れてはこない」
と 英語とロシア語を混ぜて腕時計を指差しながら言った。
「私たちは13時に出港するボートに乗って 日本に帰らなければならないの、 だから12時までしか観光は出来ない」と重ねて言った。
困ったなあ・・・という顔をしながら タクシーは出発した。
昨日 川下りに出かけた方向とは反対の方角にカムチャッキの街を横切って山を上って行った。 さっきの 「パンフレットを見せて!」 と言って パンフレットをめくり 「これがここからの景色だ、でもスモーキー・・・」と言った。
私は ほっぺを思い切り膨らませて「フーフー」とスモーキーな景色を追い払う仕草をした。 彼もスジャータさんも私と同じ仕草をした。みんなで笑った。
もっと自然の中に行きたいと強調した。 再びレーニン像の前を通過したが やはり写真は撮らないと言った。 小高い山を上がって又下るとちょっとした公園になっていた。
大砲が海に向かって並んでいた。 あのせせらぎに戻っていきたいばかりなので 一応はタクシーから外に出たけれども 写真を撮る気にはなれなかった。
そこへ 乗客の男性2人が現れ 「丁度いいところ出会えた。一緒に写真を撮りましょう」といわれた。 私はふてくされ気味なので「丁度悪いところなんだけど・・・」と
小さな声で言った。 そんな様子を彼は見ていて 高い山の頂上を指差した。
「あの山へ行ってみたいかい?」 という表情で。
私は「行きたい・・・でも、お金はそれで全部なんです」と言った。 彼は「もう、お金の話はしなくてもいい!」と言った。
じゃあ、と言って私は リュックからカップラーメン、ボールペン、ホカロン、筆ペンなどを次々と出した。 彼は途中で「もう出さなくてもいい」と手でストップの仕草をした。
そして、高い山に向かってドライブが始まった。
かなり登って行った。 途中で 下山している 福家さんら乗船者4人とすれ違った。
何時に登ったのだろう・・・・・・{後で聞くところでは その山に登る道を尋ねたところ親切なロシア人が出勤前に 片道車で乗せていってくれたとか}
山頂には テレビの受信装置があった。 昨日見た湿原には負けるが ヤナギランやらの花が 一杯咲いていた。 「オーチュニ・ハラショー」{とっても素晴らしい!}
彼は11時ごろには晴れると言っていたが 一向にガスは消えなかった。 相変わらず、カムチャッキの空は薄墨色、どんよりとはしているが、晴れていたらさぞかし美しい風景・・・・と充分想像できた。
眼下に見下ろすカムチャッキのスモーキーな街を写真に収めて下山することにした。
街に戻る頃にはすでに3時間になろうとしていた。 これ以上、彼を引き止めることは出来ない。
「ヤ・オーチュニ・リュブリュー」 {私はあなたが大好きです}とテレながら言うと
「2人の僕の子供を、オーチュニ・リュブリュー」と言って彼は笑った。
レーニン広場にさしかかったとき、「この辺りで下ろしてください」と言った。
「オーチュニ・スパシーバ!パジャースタ」{本当にありがとうございました}
その時、
私は先ほどの山頂のナチュラルトイレットで済ませていたが スジャータさんは トイレに行きたいと言い出した。
「スカジーチェ・グデー・トワレット?」 と言うと 説明すりより連れて行ったほうが早いと判断した彼は、止めた車を また 走らせて公園まで行ってくれた。
スジャータさんがトイレに行っている内に 私は言いにくいことを彼に切り出した。
実は、カナダのビクトリアの騒ぎで 葉書きを6枚書いていたのに 持ち歩いただけで出さなかった。 この国は葉書きに税金がかかると聞いていたので いくらになるか判らないのだが、 とにかくルーブルをみんな彼に渡してしまっていた。
おずおずと見せて この切手代がないことを告げたのだ。
スジャータさんが戻ると 彼はまた、郵便局まで行ってくれ、私を促して 受付まで行ってくれた。 見ていると 60ルーブルとコインを3つ出した。
「預かって出しておくよ」と言ってもよかったのに、彼は私の目の前で 処理をしてくれた。 結局、3時間あまりを320ルーブルで引き回したことになった。 最初に数えなかったお金といい、葉書きといい 正直で親切な運転手さんに出会って 締めくくりにふさわしい 思い出ができた。 オーチュニ・スパシーバ・パジャールスタ!!!!!
友達の鈴木さんからカムチャッキに手紙をもらった。
もう少しですね、くれぐれも気をつけて・・・といって和紙で作った人形と匂い袋が入っていた。きっと彼女の心遣いで お世話になった方に差し上げて と解釈して レストランでサービスをしてくれた女性にプレゼントした。
「おはようございます、ミツコサン!」と私の名前を必ず添える人だった。
ロシア語をなるべく使おうとすると 発音などをチェックしてくれたりした。
その手紙だが 検閲後に届いていた。さすがロシア!と思ったけれど、 タクシーの運転手さんに 手紙とか、少し贈り物をしたらやはり、検閲されるのだろうか・・・・
8月10日 時差1時間戻す。 緑色の太陽を観た。
遥か昔となってしまった リビア。 越路さんという方が 以前「600人のナビゲーター」に夫婦で出演された。 スピーチの最後に 「リビアの骨董品屋で買った銀の香炉ですが ほしい方に30ドルでお譲りします」と言われた。
自由行動をしないで チャーター機でサハラ砂漠に行ったのだが 期待とは裏腹に
印象は薄く、 「誰も名乗り出られなかったら 私にいただけますか?」と言ったことがあった。
ハーモニカのあの恥ずかしい独奏をした次の日、 ご主人は「昨日のハーモニカを聴いて 譲る気になりました。でも8月10日まで手元に置いておきたいのですがいいですか?」
と言われた。 そんなに大事なものならどうしてみんなの前で30ドルで譲るなんて言われたのかしら?・・・・
そんなわけで 8月10日が来た。
電話がかかってきた。 「お約束の品をお譲りします。 友人たちが立会人として待っています。記念撮影もしたいので来ていただけますか?」????
大きな窓のある2人部屋だった。 部屋には2人の友人がいて ハバナクラブなどのお酒がテーブルにあった。 まずは乾杯!というわけでお酒をご馳走になった。
記念撮影もして 私の物になった。
600人の収穫祭 「彩々祭」が昼夜2部に渡って開かれる。
「花はどこに行った」の花どこ隊でハーモニカの伴奏、隅でブカブカやるのは 本当に気が楽。
私の出番の前に 丸尾さんの自主企画、チャッキリ節の踊りがあった。 姉さんかぶりに赤い前掛けの着物姿はみんな可愛かった。 そして何より3ヶ月いろいろなイベントがあったにもかかわらず、まったく出演しないで最後のこの舞台で というのがとても新鮮。
どこにもここにも出ていて鼻につく感じがないのがいい。
2部の前にと サウナに出かけた。 済ませてデッキに出ると 水面は見事に油凪、 海水とは思えないとろりとした、さざ波もない表面、2・3メートル先は深いガス、 銀河鉄道の旅をしているような不思議な気分に浸った。
右舷側にガスの切れ間から島影が見え出した。 誰かが「択捉島だ!」といった。
エ・ト・ロ・フ島の脇を銀河鉄道は走っているのか・・・・
2部にスジャータさんが「ウーピーズ」でアカペラをすることになっていた。
父兄参観気分で出かけた。 社交ダンスを観ていると 右舷側が急に日がさしてきた。
きっと夕日の時間が来たんだ!・・・と思って飛び出した。
案の定、劇的な空が待っていた。低気圧の溜まり場 ベーリング海は 晴れる日は殆どなく 久々の夕日は輝いていた。 しめくくりに相応しいドラマを楽しみカメラにも収めた。
海水に夕日が落ちる瞬間は ファインダーを覗かないで 生で、自分の目で観ていようと
カメラを下ろした瞬間、
太陽は{緑}になった!!!!!!!!!!!!!!!!!!
以前から聴いていた。 気象条件が調った時 ごく稀に太陽が緑になると・・・・
ひょっとしたらオーロラを観る確率ぐらいかもしれない・・・・・
カメラを再び手元に置く間はなかった。 残念のような、これでよかったような複雑な気持ちだった。
8月11日 時差1時間戻す 晴海まであと2日
デジカメのカメカメクラブが 展示した作品を一般にプレゼントすることになった。
以前、郵便を頼まれたクルーのユーリーは 3枚の気に入った作品があった。 どうしたら手に入るのかと何度も聞かれていた。 彩々祭が終わるまで待ってと言っていたので
彼はそわそわと私のところに来た。 カメカメの方たちも最後の追い込み作業にかかってみえるというのに ユーリーが欲しい作品はすでに1枚盗まれてしまっていた。
彼が作品の前に私を連れて行ったときには すでにその1枚はなく どんな写真だったのかと尋ねると 「ガイランゲル・フィヨルドの前にピースボートがいる写真」だといった。
私もそんな写真は撮っているので 「よかったらあげるよ」と見せたのだが 盗られてしまっている箇所を指差し「あれがいいんだ」というのだ。 カメカメの代表者、紺野さんのところに連れて行き 事情を話すとこころよくその作品を膨大な量のデジカメの作品の中から探してみるといわれた。 私も自分の荷造りなどで 余裕はないのだが 彼の熱意にほだされて ユーリーと紺野さんのところを往復した。
日露友好は エネルギーがいる。
入っていても怒鳴り声は聞こえていた。 テレビの捏造部分を取り上げて 講座が開かれたこともあったというのに 何か遊び的、ピースボート的とまでいうのは 言い過ぎかもしれないが 何か素直におめでとう!といって出席する気にはなれなかった。
さすが、風呂上り姿で イベント会場に出て行くわけにもいかず、 終わるまでサウナに閉じこもっていなければならないのか・・・と思っていると、庄治さんが 「こちらのドアを開けると 診療室に通じているはず」と言い出した。
秘密の通路のようにドキドキしながら診療室の前を通って出た。
最後のフォーマルディナーを高木さん夫婦と宮田さんとテーブルを囲んだ。
* スモークサーモンのバラ造り キャビア添え
* パンプキンポタージュ
* 牛フィレ肉の蒸し焼き エストラゴンソース
* シャンパンソルベ
* カリブ産ロブスターのテルミドール
* 自家製パン
* ベイクドアラスカ
* コーヒー
そのあと、船長主催のフェアウエルパーティーが 開かれた。
私はロンドンのナショナルギャラリーで買い求めていた 紙のお面を被っていった。
鼻と口元が自分で ほかは紙のヨーロッパの貴婦人である。
小さな目の穴から人が驚く様が面白かった。 もう、最後だから・・・と思うと大胆になれた。 「だれ?????」とか「ギョギョ!!!」とされるのが愉快!!!
話しかけられると 「ナイス・ミーチュウ」とうやうやしく手を差し出した。
8月12日 月曜日 時差1時間戻す
パレット新聞は100号となった。
晴海、神戸の下船説明会が開かれた。
あちらでも、こちらでも 住所交換、Tシャツに寄せ書きなど みんな落ち着きがない。
最後の昼食となった。
スジャータさんは カメカメクラブのデジカメの整理で忙しく 昼食に現れない。
彼女と同じ部屋の尚子さんが やってきた。
尚子さんは GETプログラム、ミュージカル、パクパク人形などで大活躍。
その上、「聞け、わだつみの声」という戦争に行って死んでしまった若者たちの詩の朗読劇までトライした。
無理がたたって風邪を引き 声も出なくなったこともあったが頑張りとおした。
昼食のレストランは満員だった。
席を探していると 年配の二人連れの前の席が見つかった。 2人で座った。
3ヵ月半 話したこともない人たちだった。 少し若い方が
「僕はこの船にとても高い目標を持って乗りました、そしてその目標をみごと達成しました」 と言われた。 私は「ヘー どんな目標だったんですか?」と尋ねた。
「何もしないという目標です」?????
隣でニコニコしながら聴いていた80歳を超えるおじいさんは
「3ヵ月半いろいろやってくれたが ミュージカルが一番良かった! この人は 何にもしない、何の企画も参加しないで通してしまったが あれだけはもったいない」と強調した。
「この水戸のご老公とは 一緒の部屋ですが ミュージカルのときは えらく叱られましたわ・・・」と何にもしなかったと自慢した人が頭をかきながら言った。
ミュージカルを実際に演じた尚子さん目の前でその話を聴いていた。
「尚ちゃん、うれしいねえ、最高の言葉だよ。 この席で食事が出来てよかったね!」というと 尚子さんは涙ぐんでいた。
それにしても 80歳を超えた方が この明るさ、 自分の痛いところを探している老人たちとは一味もふた味も違う。まだ 全部自分の歯だといわれたには驚いた。
もうそろそろ携帯電話が通じるかもしれない・・・と充電しなければ・・・と充電器を出した。
焦ったのか差込口に直に挿してしまった。
晴海に迎えにでてくれるはずの友達 陽子さんに電話が出来なくなってしまった。
そういえば、紗智子さんがカムチャッキに手紙をくれていた。
検閲されていたのもびっくりだったが 彼女が「くれぐれも慎重に、慎重に!」と書いてくれていた。 それなのに・・・友達だから私の性格が解かっているから念押しの手紙をくれたのに・・・ 肝心なところで こうなのだ。
それにしても、 今日は何日で何曜日か知らなくてもいいという生活は終わった。
夜にはデッキで花火大会があった。
司会者の声に頭痛がおきそうで部屋に戻った。ひねくれ者の私だがスジャータさんに話もあったので またデッキに出た。
すでに花火は始まっていた。
危険物の資格を持ったスタッフがいることもすごいけれども 炸裂音と煙は 次には船が爆発するのではないかと思うほど迫力があった。
花火が終わると 船の最先端の一番灯りのないところまでスジャータさんと一緒に行った。
今夜は「ペルセウス座流星群」が 最後の最後を飾ることになっていた。
仰いでいると 星が一つ流れた。 明日から現実の生活が待っている・・・・
首が痛くなるほど星を見ていた。 3ヶ月のあり余る時間が 数時間になってしまうと 大事な大事な{時}になった。
8月13日 晴海8時入港
昨夜は真夜中にも 「ペルセウス流星群」を見にデッキに出た。
流れ星も見たし・・・とベッドに入っていると 庄治さんとサトちゃんが 「38個の流れ星を見た!」と興奮気味に帰ってきた。 すでにコンタクトレンズを外していた私は
ベストタイムが2時30分と言われていたけれども また眠い目にコンタクトレンズを着けて粗相をしても・・・と思っていた。
サトちゃんは 「私のメガネを貸してあげるから」と デッキに出ないのは勿体ないと言わんばかりに私を促した。
最後のエネルギーを出して、メガネを借りてデッキに出た。
ピントがはっきりしない目でも 星の多さが判った。 サトちゃん あ・り・が・と・う
5時半起床。
デッキに出ると すでに明るく、半島が見えていた。 久里浜の火力発電所だと誰かが言った。 もう横須賀なんだ・・・ 船の行き来が増えてきた。
感慨深げに みんなが デッキに出てきた。 水戸のご老公もいた。久しぶりの朝日、そして洋上最後の朝日・・・
雲の動きを見ているのが大好きな私、普段は買い物やプールの行き来の車の中から見るだけだった。 ここでは 思う存分朝日、夕日を拝むことが出来た。
最後の最後の朝食は 家族4人でとることになった。
思い出話をしながら 食べていると
「昨日は どうもいいお話をありがとうございました」と声を掛けた人があった。
振り向くと 水戸のご老公に叱られた、何もしない高い目標の方が立っていた。???
いいお話って・・・私はヘーと聴いていただけで 話したのはお宅のほうだったのに・・・
昨日の昼食の話を3人に話すと 今のとぼけたおじさんがよけいに面白かったらしく
3人はお腹を抱えて笑った。
おかげで しんみりとならないで 明るい話題の朝食となった。
日航ホテルなど懐かしい風景が見えてきたときは 宮田さんの部屋の四角の窓から 携帯電話を借りて、目と鼻の先 月島に住んでいる友人の陽子さんと話をしていた。
「今、洋子さんの家の前を通っているのよ! 10時ぐらいに出られると思うわ」と。
送迎デッキには 旗やら幕やらで 「お帰りなさい」と派手な色で描いてあるのが見えてきた。 一目で自分がアピール出来るように原色の服を着ているひとも何人もいた。
「お母さんだ!」「妹だ!」「お兄ちゃんだ!」などと独り言を言っていた若者たちが
「オカアサーーン!!」と叫びだした。 聞いている私は胸が熱くなってきた。
この光景を一生忘れないだろう・・・・
一階のファーストから下船を開始し出した。私の部屋、インサイド2090には ロシアのスタッフが9時50分に迎えに来た。 ダンボール6個とスーツケース1個をどうやって運送業者まで運んだらいいのかと思案していたが このようにスタッフが日通のカウンターまでホローをしてくれるのなら 足の不自由な方とか お年寄りでも旅行が可能なのだと 改めて船旅の良さを感じた。
神戸まで乗船の庄治さんを残して 私とカヨチャン、サトちゃんが晴海で下船する。 まず、私がスタッフと共に部屋を出た。 庄治さんとは 改めてお別れの挨拶をしなかった。 泣きそうな気がしたからだ・・・・
出口まで来ると、 神戸下船組が 一列に並んで見送りをしてくれていた。
「安チャーン!元気でナ・・・」とか声援が飛んだ。 照れてしまった私は カメラを取り出し 「チョッと失礼!」と1枚撮った。
「安ちゃんは相変わらず余裕だなー・・・」と言って皆が笑った。
お酒の申告のところで 「ダンボールを開いてください」と言われたが 同じダンボールを他にも使っていたので 困った仕草をすると 「もう、いいです、行ってください」と言われた。 ヤレヤレ。
「お母さん!」娘の声がした。 陽子さんの脇には娘と彼氏がいた。
宮田さんの電話を借りたこともあり、陽子さんにだけ連絡していた。「お兄ちゃんも 今、ここに向かっているよ。 順子さん{嫁}も昼から休みを取って駆けつけるよ」
・・・・予期せぬ出迎えに私の心は舞い上がった。
もし、明日、神戸で下船にしていたら 出迎え一人もなくこの感激も味あわないで帰宅しただろう。 東京にしてヨカッタ!!! 本当の意味で一周にはならなかったけれど・・・
トリトンスクエアーに向かった。
途中で、 スペイン語の先生、ロシータに偶然出会った。
いきなり 抱き合う私たちを出迎えの面々は びっくりしていた。 外国人の教師の中で一番人間味があって一番好きな先生だった。
スペイン語をもっとまじめに習えばよかった・・・・
「このあとも船に乗られますか?」と尋ねると、彼女は自分の国に帰ると言った。
2度と逢うことはないだろう・・・・でも最後にもう一度逢えたのがうれしい!!
嫁の順子さんもまじえて お茶をした。
爆弾宣言!なんと息子が仕事を替わっていた。 船で逢った東京近辺の人達に
「六本木で息子がベトナムコーヒーの店をやっているのよ。近くに行かれたら寄ってやってね」と 言っていた。 私が東京で下船したのも息子の店に行ってみたいとおもったからでもある。 以前仕事をしていた レストランウエディングの店が東京に進出してきて 口説かれたというのだ. 親心でコマーシャルを3ヶ月したというのに・・・・・
今夜は 順子さんのところで泊まると主人に電話を掛けた。
夕方になってくると 帰ってきたからには 一刻でも早く現実に戻らなければ・・・と思い始めた。 充分遊ばせてもらった。 早く帰って緩みきったネジを巻きましょう・・・・
名古屋駅から電話を掛けた。
「太多線にまわる電車があったから・・・」「じゃあ、迎えに行かなくてもいいってことだな」・・・・内心は小泉駅にさくらとベティーを連れて来てくれたらうれしいな・・・と思って電話をしたのだが・・・・
小泉駅に着いた。 ベティーが狂わんばかりの声を出して駆け寄ってきた。
木製の長いベンチにボーとした様子のさくらと主人が座っていた。
「行ってきました。長い間、留守をしました。ありがとうございました」
8月14日
5時半、さくらとベティーに顔をなめられて 散歩に出た。 空き地だったところに新しい家が建っていた。
3ヶ月という時間は 家が一軒建ってしまう時間なのか・・・・
スーパーマーケットに行って 「スイカはどこにありますか?」と聞いた。
「もう、梨とか葡萄ですよ、スイカは終わりました」と言われてしまった。
やっぱり 浦島太郎になっているんだ・・・・
私の店もすっかり主人のペースで動いていた。少し立て込んだとき 手伝おうとした。 ユキちゃんというバイトさんを呼ぶつもりが「サトチャン!」と呼んでしまった。
3ヶ月の重みをここでも感じた。
エピローグ
ピースボートスタッフの野平さんと共に考えた「教科書問題」。
とりあえず、子供も巣立って まだ孫もいない。 教科書なんて私の問題ではないと思っていた。
戻ってきて3日目、8月16日の新聞のトップ記事は
「つくる会・教科書採択」という見出しで 新しい歴史教科書の動きが報じられていた。
教科書という単に子供の学ぶ教材に留まらない 国際社会の外交の重要なキーポイントにもなっていることに今回気づかされたが 新聞を見る目が私なりの違ってきたことも
今回の旅の収穫に違いない。 そして、 これからの日本を背負っていく若者たちに 教科書以外の教材が一杯あることにも注目してほしい。 いろいろな情報、経験で自分なりに租借して「自分の意見」をもってほしいとも。
紛争の真っ只中から参加していたIS{インターナショナルスチューデント}の方たちは 苦悩の中にも、現実を直視し 戦争の相手国の意見にも耳を傾け、「自分の意見」を堂々と言える人達であった。
また、 船から離脱し パレスチナに出かけたグループは 入国拒否、6時間監禁、ギリシャへ強制送還、抗議のピースウオークなどのドラマチックな経験をした。
その後のニュースで 映像ディレクターの後藤和夫さんはパレスチナに改めて入国して旅をしていると 私たちの船に報じてきた。
このように 紛争中か、まだ数年前まで戦いの中にあった国、そして現在もくすぶり続けている国を中心に世界を廻ってきたわけだが こうして私の旅日記を終えるに当たって
結論らしきことは何も言えないが、 「気づきの旅」であったとだけは 今いえる。
旅の成功、不成功は 80パーセント 部屋のメンバーによると断言できる。
その点、 私はいい人達にめぐまれた。
まず、庄治さん。乗る前から「もみじの手」で活動しようと沢山の援助物資を持ってきた。
ところが、メンバーの一部と気持ちの行き違いが生じ、彼女は援助物資だけ差し出し 活動をしなかった。 私は逆に 「もみじの手」を通じてパクパク人形やらで
お世話になり、楽しませてももらった。 もう一つ踏み込んだら誤解も解けるのに・・・と思うことが 私にも他のことであり こんなことも含めて「人間」なんだなあ・・・と
彼女をとおして 考えさせられた。
また、彼女は、ロンドンのB&Bに一緒に宿泊するまで B&Bの存在すら知らなかった。
ところが、ロンドン以降 1泊出来るところは すべて B&B級に宿泊して旅の面白さを満喫した。 OPを採ることもなく・・・・
60歳を過ぎて 英語の語学力も当てにせず、 度胸と感と 見たい、知りたいという意欲だけで 世界を廻った。 {船で出来たボーイフレンドと共に、 周りで誰が何と言おうと動じなかった}
彼女は これから家族と離れて 自分ひとりで生きていこうとしている。
今回の経験はどんなにか 糧になることか・・・・・
洋上で30歳になった カヨチャン。
一度も病気もせず、 環境に順応する力がものすごい。
10分でも熟睡し 目覚めも極端によい。 物事の動じる様子もなく、大胆にカード会社を利用して ラスベガス、グランドキャニオン、カナダのバンフまで楽しんでバンクーバーで合流した。
デジカメで撮った写真を寄港地が終わるたびに見せてくれたので 彼女の旅を 私も楽しめた。 そして、まったく解からないパソコンをうまくCDに載せて日本のホームページに送る作業を手伝ってくれた。
カヨチャンがいなかったなら、 同時進行で旅日記を送ることは出来なかった。
本当に、ありがとう。
サトチャン。 何度も高熱を出したが、奇跡的に回復した。
彼女の我慢強さには敬服した。 40度の熱を出したとき 1日、ベッドを上下替わったことがあった。若い2人の好意に甘えて下のベッドを使ってきた私が 初めて上のベッドに寝た。 暗い中、はしごを使って降りたり上ったりは大変で 経験して初めて
下のベッドを使い続けていたことに感謝した。
サトチャンは 不思議な子だ。
娘と同じ年の彼女だが 何故だか色々昔話をした。不思議と懺悔したくなるように
話をしてしまった。 若い彼女だが私の話を聴いたあとには ぐさっと来るような感想を言った。 若いのに鋭い判断力を持つ子だった。
だから、いつも私は自分の埃やアカを拭うような気持ちで彼女と対話した。
もう一つ、
人に話しては駄目だよといわれたが 迷った挙句 どうしても書き記したくて叱られるのを覚悟で、1人の男性のエピソードを話して終わりとしたい。
70代の男性、2年前に奥さんを亡くして 1人で寂しい食事を毎日していた。
ピースボートをチラシで見て 応募した。
メキシコからカナダに船で出来た友人4人で 飛行機で離脱した。 空港で4人は解散した。 彼はガイドブックを頼りに シャトルバスに乗り バンクーバーに1人で入った。
英語はまったく出来ないと言っていた。 ガイドブックに載っていたホテルに着いた。
ロビーには日本人の50代の女性が1人座っていた。
日本人だと分かって 声を掛けられた。 「よろしかったら 明日、ご一緒にウイスパーに行きませんか?」 もちろん彼は一緒に出かけた。 早朝7時のばすで。
彼女は「お互いに素性は明かさないでおきましょう、今日1日だけのお付き合いということで・・・」と言った。
楽しい1日が終わった。 戻ってきたバンクーバーで夕食のお寿司を2人で食べた。
あくる朝、フロントに彼女のメッセージと贈り物が残されていた。
次の日には 日本人の留学生と知り合い フェリーでビクトリアのブッチャード・ガーディンまで出かけた。 3日目には 1人で シーバスに乗り、バスも乗り継いで カビラノ渓谷へ出かけた。 それまでOPばかり採っていた彼はメチャメチャ自信を持つことが出来る経験をしたわけだ。
「船に乗ってよかったね!」というと 「ホンとによかったぁ!!!!!・・・・・」と言った。 ごめんなさい!書いちゃった・・・・・
最後に メールや手紙で長い旅を励まし続けてくれた友達たちに感謝したい。
どれほど、 メールやFAXが楽しみであったか、船に乗ったものでないと判らないのかもしれない・・・・
友人の中には9通の葉書きを寄港地の度に出してくれた人がいた。
届いたのは内 4通だったが・・・
主人は 私に最初に言った言葉が 「あきと君は元気に旅をしたのか?」だった。
9歳で単独世界旅行、お父さんは息子にメールを送り続けていたという。
3ヶ月でこころなしか、身長も伸びたかに見えた。
「あきと君! 君がこの旅で見聞きしたことが 君の長い人生のスパイスになったらいいね。」
おわり・・・・・・・・・・・安ちゃん 記す。
洋上に出したあきと君のお父さんのメールを紹介します。
To: 彰人(9歳の少年) (RoomNo.4030) |
2002/8/10(土)18:10 |
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彰人、お元気ですか? |
家族ニュース |
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