我が心 石に非ずして 転がすべからず  我が心 蓆(むしろ)に非ずして たたむべからず  「詩経・柏舟から」

孤雲蹤跡我相似
孤雲蹤跡我相似  こうんのしょうせきわれにあいにたり    





 ・・・・・・わかりますか。あなたには希望は託せないし、私も駄目だ。

 あなたは率直に言って、体も心も汚れきっており、私もまた、手も心も呪われており穢れているからです。なぜと言って、
私は昔、人を一人を殺したからです。

広島に原子爆弾が投下された日の翌日、川と道路いがい標識もなくなってしまった廃墟を歩きまわって、やっと自分の家を
探しあてた時、もう母は死んでいましたが、五右衛門風呂だった家の湯釜の下敷きになって、妹だけがまだ生きていました。
顔の半分が火傷で形相が変わり、頭は無毛症患者のように禿げちょろけになり、服も裂け、肩や腕の皮膚がべったりめく
れて血漿を流しながら、それでもまだ生きていました。

兄ちゃん、兄ちゃん、と、小学生だった妹は私にとりすがって泣いたものです。やがて嘔吐がはじまり、胃液を吐き尽し、
胆汁を吐き尽して、それでもなお、むせあげながら、水をほしい、水をほしいと妹は泣きました。
一面の瓦礫の町には水はなく、半焦げになって街路樹を切り倒して、人々は野天で死体を焼きはじめていました。
私は妹の苦しみを見かねて虫の息ながらまだ生きている妹を、人々が廃墟に薪を積みあげているその野天の荼毘所に
運んでいったんです。                                              
荼毘所=火葬場

わかりますか。私はこの平和の中には生きてゆけない。どうしても生きられない。妹はおきゃんで、お転婆で、可愛い娘
だった。顔の形相は二眼と見られないほど変わってはいても、その瞳は同じ妹の瞳でした。

妹は、私が性別のわからない他のおびただしい死体と一緒に、積みあげられた薪の上に乗せるとき、ちょうど、子供のころ
家で留守番をしていて変ないたずらをしかけた時、困ったようなそれでいて兄を許すような眼で私を見ていたように、声をあ
げずに私の方を見ていました。

そして消防団によって薪に火がつけられ、他の死体といっしょに妹も焔に包まれ灰になったんです。
放っておいても、看病しても、どうせ妹の寿命はあと数時間ともたなかった。

戦争がそれから数日後に不意に終わるなどとは思っておらず、私自身もいずれ弾薬もろとも敵の戦車の下敷きになるか、
竹槍で火炎放射器と刺し違えて死ぬはずでした。だけど戦争は不意に終わり、私は生き残りました。

・・・・・・こういう人間がどういう風に生きてゆけばよいのか、私は抽象的な平和の掛け声を信じない。解放のための戦争も
是認しない。私は平和行進にも参加せず、革命運動にも参加せず、「原爆許すまじ」の歌もうたわず、インターナショナルの
歌もうたわなかった。この世のすべてが破滅するのでないかぎり、天地一切の生きものが滅びるのでないかぎり、どうして
歌をうたう気になれようか。

・・・・・・あなたの眼を見た時、私にはわかった。理由は知らないが、あなたはこの世の全体を、いや、少くとも好色な男ども
を、そしてまた裕福な女たちを憎んでいる。そう、憎めるうちは憎むがいい。憎しみもまた生の一つの形式だから。・・・・・・
私も本当はこの世の平和な営みの一切を憎み、希望ありげな人々のすべてを侮辱したかった。   〜中略〜

しかし・・・・・・しかし、考えてみれば、私がもしあの悲しみの町の住人でではなく、この時代の人間でもなければ、妹を殺さず
にすんだかもしれなかった。私は私の故郷の町を一瞬の閃光で滅ぼした人間どもを金輪際許そうとは思わないが、しかし、
平凡な人間が平凡に生きるためにすら、やはり憎たらしい平和であっても平和が必要なのであり、理不尽な暴力や差別の
ない社会が必要なんです。

わかりますか。あなたに娼婦生活をやめよ、などという世間知らずな甘ったるいことは私は言わない。私にはわかっている。
あなたは生涯娼婦でありつづけるであろうし、自殺でもせぬかぎり、このスラムから抜け出せないだろう。しかし、それにも
かかわらず、あなたは自分のしていること、自分の生活、自分の人間性が、弁明の余地なく愚劣なのだと思わなければなり
ません。あなたが今のようになったどんな理由があるにせよ、あなたは愚劣な女なのであり、この世は愚劣であるように愚劣
なのです。そして、私もまた、自らの愚劣さゆえに、この世の愚劣さとともにあり、そして遂に何の主張の場も持てず、
.何の破壊力も持てぬまま、黙って ・・・・  そう、 黙って死んでゆくでしょう  ・・・・・  


                                                 高橋和巳・『憂鬱なる党派』から抜粋シタ。

 


文面を前後して貼る事あり・・
表題は付けたものの、構築する「アイデア」今一歩であります。

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