文学への誘い【にいがた文芸風土記雪の足跡
Footprints In The Snow
北国・越後の風土と、そこに生きる人々を主題にした名作の一片を紹介させて頂きます.。これらの作品にて、北越への旅の憧憬を拝すれば幸甚に存じます。


photo by t・matunaga




森 敦  「かての花」 『 鳥海山 』より

 弥彦山は広い蒲原平野を、日本海からまもる自然の牆壁をなすびょう然たる山々の一つである。すなわち、新潟市から西南に延びる砂丘が隆起して
いつしか長者山になり、角田山になり、弥彦山になる。これが連亙して、蛇ガ峰、猿ガ岳となり、良寛で知られる国上山に至っているが、角田山よりもや
や低く、蛇ガ峰、猿ガ岳よりも僅かに高いにすぎない。にもかかわらず、ひとり弥彦山はいわゆる前山をひかえ、ながい稜線を持つアスピーテ型の山容
をみせ、小ながらも月山を彷彿させ、山々を渡り来たった神々の、好んで屯するところとなるであろうことを感じさせる。ここに越後一ノ宮弥彦神社があり、
古歌にも、    伊夜比古は神にしませば星雲の たなびくときも小雨そぼふる
とあるから、弥彦はかつては伊夜比古と呼ばれていたかもしれない。しかし、玉砂利の清々しい厳かな社はたんに拝殿にすぎず、神体は弥彦山そのも
のであるという。 わたしは弥彦山が伊夜比古と呼よばれるとき、それがすでに神として、仰いでわたしたちの見得る山そのものの姿を越えた、なのも
のかを意味するような思いがするのである。
 山頂からの眺望がまたすばらしい。杉の巨木にかこまれた神社裏のロープウェイで沢を登ると、芝草の刈り込まれたゆるやかな山の背に、近代的な
展望台が建っている。すでに小公園の観を呈しているばかりか、海陸にわたる全円の風光をほしいままにすることができる。わたしのためにしばしの
住まいを見つけてくれた若い友人とともに、初めてここを訪れたのは秋ではあったが、なにかもう吹き荒れる冬の季節風の気配があった。信越の山々
はすでに見えず、三条市を貫いた五十嵐川を入れながら、こなたに燕市、吉田町を配した信濃川の蛇行する蒲原平野には、雲間を漏れる光が走り、
眼下の日本海には海を濁らせて寄せ来る一面の荒波が、はるかに潮騒をとどろかせている。佐渡は人家の白壁が見えるほど間近に浮かんで、いまに
も打ち寄せられて来そうだが、ハッとして目を凝らすと荒波が停止して、かえって潮けむる沖へと動いてでも行くようだ。
 街はこの弥彦山と前山のあわいにあって、公園があり、神社があり、神社の境内には競輪場があり、格好のレジャー・タウンをなしている。ことに、
競輪場は桜と紅葉におおわれ、グランドには花壇がつくられていて、絵のようにうつくしい。わたしにはそこで熱狂し、希望し、絶望する群衆もおもしろ
ければ、群衆の前におどり出て、拳を振り上げながらいかに予想が的中したかを絶叫してまわる予想屋のダミ声もおjかしかった。いや、競技が終わる
と、色とりどりのシャツで満場をわかした選手たちが、ほとんどドサ回りのサーカスの団員なみにも扱われていないのにも興味があった。ひと口に競輪競
馬というが、少なくとも競馬の選手たちは、その君臨した馬を乗り捨てれば、あとは馬丁にゆだねるであろう。だが、彼らは自ら馬丁になって、彼らの馬
であるところの自転車を畳んでケースに入れ、またどこかの競輪場へと旅立って行くために、とぼとぼと歩かなければならぬ。彼らは騎手である同時に
馬丁あるということ、彼らが彼らみずからにおいてすべててあることが、彼らを誇らすどころか卑下すらさせているらしい様子が、みょうにわたしの共感を
呼んだ。
 わたしの見つけてもらった住まいは、弥彦山の麓というにはやや高い杉林の中にあった。街は楽しげで壺中の天とでもいいたいが、壺から仰ぎ見た口
のように、山あいでただでさえ空が狭いのである。それが一歩街を離れて杉林にはいると、僅かに山肌が見えるばかりで、ほとんど空を仰ぐことができ
ない。あたりは古い墓場になっていて、みな弥彦神社の氏子らしく、おい茂った下草の間に、ほとんどただのグリ石に命(みこと)だ姫(ひめ)だと刻み込
まれた粗末な石が、無数にころがっている。たまたま磨かれた立派な暮石があると、かえってそぐわないほどで、杉林を見まわりに来るその持主たちの
足音も深い寂けさを感じさせ、やがてわれらも行かねばならぬところに来てしまったような気がするのであった。が、夜がふけると、どこからともなくごうご
うと凄まじい音がするのである。ひょっとすると、日本海のあの潮騒が、山越えに聞こえるのではあるまいか。いまもひとり、深夜の荒浪に耐えているで
あろう佐渡を思い浮かべずにはいられなかった。
 しかし、夜明けが近づくにつれて、凄まじいその音は遠のくように低くなり、あたりままたもとの寂けさに戻る。終夜叫びに叫んだ樹々なにごとにもなげに
みえるが、毎朝のように杉の折れ枝、枯れ枝を山と背負って、奥から降りて来る老婆があった。してみると、あのごうごうの音は潮騒ではなく、夜がふけ
ると山をおろして来るのか、ひょうびょうと蒲原平野を渡って吹きあげて来るのかわからぬが、そうした風が樹々を揺るがして沢を鳴らすのである。
 「やっぱり、風で相当やられるんですね」
ある朝、わたしがそう声をかけると、老婆はうさん臭げながらも、みょうな笑顔をみせて立ち止まり、
 「ンだの、弥彦ははじめてだか
 「ええ、しかし、こんな沢鳴りがするとは、考えてもいませんでしたよ」
 「なんたて、弥彦は八沢というて、それぞれ名のある中でも、この沢は鳴沢というほどだすけ」
 「なるほどね。なんだか潮騒のようにも聞こえるので、あの荒い日本海から山越しに、して来るような気もしてたんですよ」
 「山越えもするんでねえか。これでお山があるすけ、なんとかいられるんども、このあたりは大石原というほどでの」
 下草の中に無数のグり石のあるのは事実だが、見るところ他に石があるわけでもない。すでに老婆も言うように、大石原とはもう人の住むところでは
ない、との意味かもしれぬと頷けぬでもなかったが、
 「大石原?グリ石の墓のほか、そんな石ないじゃありませんか」
 「そだの。もとは一面、ただ石ばかりだったんども、長太郎どんが来て、拾うてしもうたんだすけ」
 「長太郎どんが・・・・・」
 わたしはそんなただ一面の石をひとりで拾ってしまったという長太郎どんとは、伝説の人物でもあったのではないかと思わずにはいられなかった。
 「そだそだ。どこの人かしんねいども、稼ぐひとでの。荷車に積んでは、吉田まで曳いて行ったもんだて
 「吉田まで?」
 吉田町は山頂からすると、指呼の間にあるように見える。しかし、それは平野の町を上から眺めるからで駅から、ディーぜルカーに乗ってもかなりの
もんで、とても歩ける距離ではない。
 「もとは、弥彦の衆は風が出たいうては、みなお山さ来ての。折れ枝、枯れ枝を拾うて、吉田さ背負って出て、塩だ、砂糖だと買うて来たもんだ」
 「・・・・・・・・」
 「それに、このあたりの杉林は、みな伊夜比古さまじきじきのものでのう、折れ枝、枯れ枝は、伊夜比古さまが風をつかわして、下された天の賜だいうて、
だれもが喜んで拾わせてもろうたもんだて」と言うと、老婆がちょっと笑顔をなくした。杉林の奥でれいの見まわりの足音がしたからかという気もしたが、
わたしの思いすごしだったかもしれぬ。「いまはこのあたりの杉林も、旦那衆に分けられてしもうたすけ、こげな折れ枝、枯れ枝を拾うても、なんのかんの
と言うんども、折れ枝、枯れ枝はだれのものでもない。木を離れて落ちてしまえば、おんなじ天の賜でねえか」
 「・・・・・・」
 「長太郎どんだとて、ひとの墓石まで拾うたというわけじゃねえ。燃やして火にする枝がえば、生きられるもんでねえし、死ねばだれでもが石になるもん
  ださけ、石がねえば死ぬこともできねえんでねえか」
 と、老婆は他所でもこんなグり石を墓石にすると思ってい、伊夜比古さまがそうしてわたしたちに、生きるための火と死んでならねばならぬ石とを、生み
なしてくれると言わんばかりである。
 「それでいま、どこにいるんですか、その長太郎どんは」
 「どこさいるもんだかのう。どこぞでまた、石をとっても文句のねえとこさ行ったんであんめえか」
 そして、老婆は杖を立て直し、背負った折れ枝、枯れ枝をずり上げて、「ああッ」と顎をしゃくって歩きはじめた。荷を背負う人は頭を下げるかわりに、みな
こうして顎をしゃくって、ノド声を出すのである。
 わたしは更に奥へ入って、鳴沢を見ておきたいと思った。   ・・・・・・・・





水上 勉 「寺泊」 昭和51年  抜粋   旧三島郡寺泊町

 よこしなぎの雪が寺泊の海岸へ降りかかる。海はよごれた灰いろで、高波は砂丘の砂をけずるせいか、褐色の長い布を吹きあげる
みたいに空へ高まる。かと思うと、すぐにうねりを低めて岸へ近づいてくる。岸の下にはある種の動物の裸体を思わせるテトラポットが、
出雲崎の断層の方までのびている。それにあたってくだけては退き、くだけては退きしている。見ていると、緩慢なくりかえしだが、
風と雪が激しくなるので、海は猛りをあきらめ、ただその荒々しい行為をつづけるだけだという表情に思えた。それにしても、なんと荒
涼たる町か。海岸通りは船小舎と製材所と、給油所が表に出ているが、あいだに、とびとびに人家とも、倉庫ともつかぬトタン屋根の
ひしゃげた平家が、雪囲いの茅の束をふるわせているばかりで人影はないのだ。風のなかで啼いているのは灰黒色の羽をひろげて
むれとぶ、腹の白い海ねこだ。

 高波は、ぼくの背丈のすれすれぐらいの防波堤へのしかかるようにうちよせる。堤のヘリに手をつき、遠い出雲崎の方角を見た。
何も見えやしない。ただ、もう断層へうちよせる波ばかりだ。波は、地球のコブに襲いかかって、そのコブの皮をはぐみたいだ。
鼠色の雪ぐもの下、なだれ落ちる山塊。錫いろの岩肌と灰色の海。よこしなぐ雪はもう乳色にぼくの視界を染めるばかりだった。・・・



水上 勉 「越後つついし親不知」 1962  抜粋

 親不知は、北アルプスが日本海に没入する断崖の果てにある。いまは越後市振(いちぶり)から糸魚川に至る北陸線に一つの寒駅
をもっているが、市振から親不知に向って進むにつれて、線路は海に沿いはじめて、先ケ鼻、親不知、風波、竹ケ鼻、外波、鬼クリ、
鬼ケ鼻といった断崖の中腹を、海すれすれに通過する。現在、この断崖を抜ける国道は線路に沿うて中腹を通っている。しかし、昔は、
海に落ちこんだ崖裾(がけすそ)を旅人は通らねばならなかった。荒波はしぶきをあげて崖におそいかかり、年じゅう波濤の音が岩を
噛んでいた。荒波に親は子を忘れ、子は親を忘れて、身の安全に気をうばわれ、岩間から岩間へと、夢中にかけぬけた恐ろしい道は、
いまは海中に没しているが、汽車の窓から眺めても、昔の難所の面影はのこっている。
だが人びとは親不知の風光に眼をとられるあまり、この海に没入するアルプスの断崖が、壁のように背後の切りたっているのに眼を
向けて息を呑む者は少ない。ましてや、親不知をすぎ、まなしに橋をわたる歌川の山奥に、わずか十七戸の歌合部落がひっそりと
かくれていようとは考えられないことだったのである。・・・



川端康成 「雪国」 1935~1947  抜粋   南魚沼郡湯沢町

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車はとまった。向側の座席から娘がたつて来て、
島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶやうに、「駅長さあん、駅長さあん。」
明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れてゐた。もうそんな寒さかと島村は外を眺
めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と雪の色はそこまで行かないうちに闇にふくまれてゐた。・・

 この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催ひである。遠近の高い山が白くなる。これを嶽廻りといふ。
また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のやうである。これを胴鳴りといふ。嶽廻りを見、胴鳴りを聞いて、
雪が遠くないことを知る。昔の本にさう書かれてゐるのを島村は思ひ出した。島村は朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪が
降った。もう今年も海や山は鳴つたのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と會ひつづけるうちに聴覚が妙に鋭くなつて来てゐるの
か、海や山の鳴る音を思つてみるだけで、その遠鳴が耳の底を通るやうだつた。・・・



大庭みな子 「三面川」 昭和61年  抜粋    村上市

 鮭一(けいいち)伯父が仕事を兼ねて三面川に行く、連れて行ってやろうか、と姪の道子に初めて言った。彼はこの十年ばかり毎年一、
二度三面川に行く。けれども今まで一度も誘ったことはない。三面川の河口、越後・村上は新潟と山形の県境に近い。三面川は朝日連
峰から流れる何本かの川を集め、日本海に注ぐ。・・

 道子が起こされたときはもう新潟に着いていた。羽越線に乗り換えて、村上に向かう車窓では、彼女はやっと一眠りして眼をぱっちりと
あけ、外の景色を眺める体調になっていた。「はさ木がなくなったねぇ」鮭一は首を振った。はさ木とは刈りとった稲を乾かすために棹を渡
す柱代りに使う田の畔道にある雑木の並木のことで、二十年くらい前までは、越後平野の代表的な風物だった。・・・

 「いや、ぼく自身が村上の出ではありませんけれど、ぼくのおやじが村上の生まれで、幼い頃の三面川の鮭の思い出にとりつかれて、
本業でもないのに鮭の人工孵化のことばかり気にしていましたから、ぼくがその意思を継いだわけですよ。でも、次から次へと新しい
問題がでてくるのが、この世のありようですよ」鮭一は海猫の姿を探していた。青年は道子をみつめていた。青年の視線を辿って、鮭一
はなぜ道子をここに連れてくる気になったんだろうと訝った。そして道子はなぜここについて来たんだろうと思った。「死んだ祖父の出た
ところだというので、一度来てみようと思って、伯父について、初めて来たんです。いい町ですね、村上は」・・



新井 満 「海辺の生活」 1990 抜粋    新潟市

 中学生になった。毎日、放課後になると桜木は家とは反対の方角、即ち海辺の方へ足を向けた。十分ほど歩くと護国神社に突きあたる。
松林に囲まれた小高い丘の上に、 ふるさとは 語ることなし そういう文字の彫られた巨石が立っている。それが坂口安吾の文学碑なの
であった。松林の彼方を遠望すると海が光っている。夏なら青く、冬なら灰白色に緑の絵具を少々まぜたような不気味な色をして光ってい
る。 耳をすましてみる。 幽かに潮騒の音。 そして松籟。 石碑の台座を背にして草原の上に腰をおろし、ぼんやり海を眺める。すると、
松の枝を吹き揺らしてだんだん近づいてくる風のかたちがわかるのだった。 風に吹かれながら、ふと考えた。 語ることなきふるさととは
どういう意味だろう。ふるさとなど、所詮、語るに価しない無価値な場所だということか。それとも、ふるさとを思うと万感の思いが込み上げ
てきて、人は言葉を失ってしまうということなのか。 ようわからなかった。桜木はどう考えようと、どう自問自答しようと、前方に光っている
ふるさとの海はいつも知らん顔であった。いつも黙ってそこにあった。夕陽が沈むと、桜木はしかたなく立ち上がりズボンの埃を両手では
らい、神社の玉砂利を蹴り蹴り家路についた。・・・



藤沢 周 「ブエノスアイレス午前零時」 1998  抜粋   旧津川町

 表面が鈍い鉛色になると半熟卵になる。まだあと五分はかかるだろう。カザマは軍手を外してアノラックのポケットから煙草を取り出した。
土木作業員が着ているのと同じ地味な紺色のアノラックだ。学生時代に代々木のガード下で立ちんぼのバイトをした時に支給されたもの
と同じタイプのものだ。ただ胸には黄色の刺繍で小さく「みのやホテル」と入っている。狐の嫁入り・深雪の里、みのやホテル・・・・。自分が
これを着てから、ますます硫黄臭くなっただろうとカザマは思う。・・・

 外は小雪に変わって、逆に早朝よりも一段と暗くなった。鉛色の空が山間(やまあい)の町に蓋をしたように覆っている。カザマはニットの
帽子を耳までかぶると、雪の中に黒く剥き出しになった軒下や木の影に視線をやった。異様なほどはっきり見えて、ピントが何処を見ても
合ってしまう感じだ。善入山の中腹に所々黒く見えるのは、温泉の源泉のある所だ。そこだけは雪が積もらない。雪よりも薄く黄色に濁っ
た蒸気の筋がじっと固まったように立ち上がっている。目を凝らすと、激しくいくつもの渦を巻いて動いているのが見える。・・・



立原正秋 「紬の里」 昭和46年  抜粋     南魚沼市塩沢

 「きみも雪の一部分だよ。ああ、実によく降るな。雪あかりがあるが、物に反射がない。とりとめがないと感じたのは、反射がないせいな
んだな」 障子が二枚あけてあり、その向うのガラス窓の外に大粒の雪が舞っていた。山も木も白一色で、そこに更に新しい雪が舞いおり
ているので、それは本当にとりとめもない感じがした。志保子は、もしかしたらこのひとは三日間とりとめのない事を考えていたのだろうか、
と思った。雪あかりは、家の中いる者にはわかるが、雪の中にはあかるさはなかった。雪の中では方向がつかめなかった。あかるさがな
いというより、雪の中は殆ど闇にちかかった。闇の中で日常の暮らしを克明に刻みつづけてきた志保子には、雪が鑑賞の対象になったこ
とがなかった。雪国に棲んでいる者にとり、去年の雪は懐かしくとも、よろこびの対象にはならなかった。石油ストーブやガスストーブが入
ってくる前は、炬燵で暖をとるよりほかなかった。いま宿のこの部屋には暖房が通っているのに、高階は炬燵を使っていた。それは都会
人の情緒を求める一面のあらわれにすぎなかった。「雪が降りつもってこの宿が雪に埋もれてしまえばいいわ」 ・・・



三島由紀夫 「沈める瀧」 昭和30年  抜粋  旧小出町

 そのとき紅葉の山々のはざまの空に、崇高な山があらはれた。駒ヶ嶽である。銀山三嶽の一つであるこの山には紅葉の片鱗もなく、
紫紺のあらはな山頂の部分に、數條の白い絲のさまをした雪がかがやいてゐた。二三日雪がつもつて、また消えたあとである。
駒ヶ嶽は孤獨な肩をそびやかし、空の青い深い静けさを、その存在で護つて立つてゐるやうに見えた。地上的なものに觸れて低い
山々は紅葉してゐるのに、この山ばかりは地上にただ基底を託して、半ば天界に属してゐた。それは一つの不動の思想、だった。
美しいのは、少なくとも俺に美しく思はれるのは超絶的な自然だけだ、と昇は感動して思つた。彼の内的なものとは隔絶し、しかも
彼のもつとも内的なものだけを動かすやうな、さういふ自然。

 昇は奥野川の上流にむかつて、人一人通らない川ぞひの径を歩いてゐた。紅葉の林を抜け、白い廣大な芒野に出ると、その芒野
の中央にも、置き忘れたやうに、一本の真紅の楓があつた。ここらはいづれ、ダムの完成と共に水底に沈む地域である。畑へ出た。
痩せた土は貧しい大豆を育ててゐた。そのとき川ぞへの芒の草むらから、鶺鴒が低空を切って飛び翔つた。彼は川岸へ下りて、対岸
の福島縣の稜線のきびしい山々の肌を見た。頂きに近いあたりは斑らで、裾は密生した紅葉である。川は隆起した川床のために瀬を
なして、ひときは音高く流れてゐる。

 石抱橋をわたらずに山ぞひの新道を少しゆくと、喜多川はダムの人造湖に流れ入つてゐた。石抱橋のあたりは標高七七六米であ
るが、七二〇米から下が湛水區域に入るのである。新しい自動車道路は、喜多川岸の、もとは絶壁であった山腹を切り拓いて作くら
れてゐた。ダムの湛水區域のこの最初の眺めが、一行を大いに興がらせた。石抱橋をわたつてゆく道は、屈曲のはげしい岸をめぐ
つて、三里四方の湖の對岸をゆくのであるが、橋の残つている舊道の端は、草や、石ころや、ついきのふ通つたやうなトラックの深い
轍をさへ残して、やがてそのまま湖の中に消えてゐた。
 又あるところでは水邊の荒れた畑が、畝のつらなりの半ばを水に浸し、梅の半ば枯れかけた葉の乏しい枝の一つを、水の上へさし
のべてゐた。やがて銀山湖がその下に没した人造湖の廣大な風光がひろがつた。かなたには福島縣の山々が影を落としてゐた。
山の姿は、そのどの高さを水面で切つても、おのずから形を成して、前からここが湖だつたかのやうに自然であった。岸の形が、
昔を知らない人の目には、少しも異様に思はれなかつた。女たちは自動車の窓から首を出して、水のなかに沈んだ土地のたたずまひ
が、そのまま見られないかと期待したが、湖の水は青く濁つて、水底を透かさなかつた。~
                                             (ここでいふ奥野川とは信濃川の支流で魚沼地区を流れる魚野川である)



坂口安吾 「黒谷村」    昭和6年  抜粋   旧東頚城郡松之山町

 二人が黒谷村の峠まで辿りついたとき、もう黄昏も深かった。熊笹の中から頸だけを延して顧れば、今来た路は幾重もの山波みと
なって、濃い紫にとっぷり溶けてゆくのが見えた。山に遠く蜩の沈む音をききながら峠を降ると、路は今迄とはまるで別な平凡な風景
に変わってきた。山という山はみな段々の水田に切りひらかれて、その山嶺まで稲の穂が、昼ならば青々と見えるであろう蕭条と戦
がせていた。時々山毛欅の杜が行く手を脅かす位いなもので、あの清冽な谷川も、ここではすぐ目の下に、あたりまえの川の低さに
なってしまった。黒谷村字黒谷は、黒谷川に沿うて一列に並んだ、戸数二百戸に満たない村落であった。丁度夜がとっぷりと落ち切
った頃、二人は村端れの居酒屋を潜って、意外に安価な地酒を掬んだ。二階の窓を開け放すと裏手にはすぐ谷川で、たしかに深い山
らしい涼しさが、むしろ膚に寒々と夜気を運んできた。遠くから又遠い奥へ鳴り続いている谷川のせせらぎを越して、いきなり空へ攀じ
ている山々の逞ましい沈黙が、頭上一杯に圧しつけて酒と一緒に深く滲みてくるのだった。~

              蜩=ひぐらし(蝉)、山毛欅=ブナ、戦=そよぐ、潜=くぐる(くぐりはいること)、攀=よじる(よじのぼっている)



野坂昭如  「行き暮れて雪」   1984年  抜粋  新潟市

 公舎の前の坂を降りて左に進むと、迷彩をほどこした四階建ての県庁がある、その前の幅広い堀を隔てて、白山神社、堀の手前から
右に軌条がのびて、古ぼけた電車が走る。市内の主な交通機関は、天然ガスを利用した、銀色のバスだった。県庁前から左に大通り
があって、その突当たりが図書館・・・。

 いたるところに堀があった。目抜き通り、といっても、空襲前の、神戸本町、大阪心斎橋に較べれば、いかにもみすぼらしい古町の、
西側の堀を西堀という。ほとんど流れはうかがえず、雪を含んで、粘調な印象のその水は、雲にさえぎられてはいても、陽のうつろうに
つれ、黄灰色、淡青、灰色と表情を変えた。石垣を積んだ堀の側面の、二丁おきに水の面まで降りる階段があり、そこに舟着場のよう
な、半畳ほどの石が置かれている、稀に、棹で舟をあやつる姿を見受けた。堀の幅は六メートル、両側に柳と桜が植えられ、直角に走
る道筋ごとに、橋がかかる。堀に沿って北へ進むと、少しずつ家並みが華やぐ。駅から、信濃川に架かる万代橋を経て、図書館で左折
、県庁の向うの通りの、図書館までが柾谷小路、そこで右折し、県庁にいたる道が東仲通り。西堀と柾谷小路のぶつかる左角に、小
林デパート、向いに市役所、古町と交叉する四つ角は、大和デパート、銀行、本屋、呉服屋がしめていた・・・。

 ドッぺり坂を昇り、まっすぐ海へ向った。砂地だが石のように固い道で、左に広がるグランドを過ぎると、松の防砂林、わずかな傾斜を
越えると、向こうは砂丘。明治年間に、しばしば洪水する信濃川を治めるため、上流に堰をもうけ、昭和に入って、さらに分水、このため
川口まで運ばれるはずの砂の量が減り、日本海の波浪にくずされる砂との、バランスが崩れた。昭和の初めまでは、波打際まで一キロ
近くあったというが、今は二百メートル、それでもなだらかに砂浜はうねっていて、少し歩かないと海は見えない・・・。

 寄居浜には、夏場だけの仮普請ながら、二階建ての浜茶屋が十数軒ならぶ、冬の荒れようとはうって変わり、穏やかな海、ただし、
陸からの風、この土地ではダシと呼ぶ風が吹く時は、ボートは出せない、打ち寄せる波が、風に消され、みた眼には凪の如くで、いっ
たん沖に出ると、戻って来られなくなり、しばしば佐渡まで流されるという・・・。
その佐渡は晴れた日、くっきりと島影をあらわす、右手の海上はるかに、粟島の、粟粒の如き姿が、見えることもあった・・・。



開高 健  「すばらしき野生!」   抜粋    旧北魚沼郡湯之谷村

 ~ いまから十年余り前、後に『夏の闇』という作品になった小説を書くつもりで、私は新潟県北魚沼郡湯之谷村銀山平にある奥只見
ダム、通称銀山湖とよばれる人造湖の“村杉小屋”という宿にゆき、春、夏、秋とすごしたことがあります。“村杉小屋”には、六十センチ
以上もあるイワナやニジマスの、まるでサケのような物凄い魚拓が何枚と貼ってあって、私は肝をつぶしたものです。釣師の常識では、
北海道ならいざ知らず、本土でイワナやニジマスが六十センチにも生育することなどちょっと考えにくい。三十センチをこえるイワナだっ
たら、もうすでに大物でしょう。それで私は吃驚した。しかし、イワナが条件しだいでこれほど大きくなれる事実、私は肝をつぶしつつ反面、
ホッと嬉しくもなったものです。銀山湖のあたりは田も畑もないから、農薬も流れこんではこないのでしょう。けれど、ここで生活を始めて
みて、私は自然の中の生活というのがどれほ酷烈なものか、毎日、目を瞠らされる思いで知らされることになりました。

 奥只見の春は五月の末か六月の初めころにかけて雪がとけてやっと訪れてくるのですが、すると山はコゴミ、ワラビ、ゼンマイ、フキの
とう、ナメタケ、ヤマウドなど山菜の季節になる。それで山菜採りがはじまる。ところが、これが大都会に住んでいる人間がピクニックにい
って、山菜をちょっと摘んでくるというのとは、まるで様相がちがうのです。ゼンマイやワラビは、ちょっと湧き水のある沢の急坂にできる
のだけれどそういうところにさしかけ小屋をまず造って、夫婦かなんかでそこへ寝泊まりします。だいたい亭主が山を歩いて採ってくる。
女房の方は大釜で湯をぐらぐら沸かせて、そこへ放りこみ、ムシロの上へサッとひろげて乾燥させるわけです。それが一週間か十日ある
かないかという間のことで、それを里に持って帰って売る。そういえば簡単に聞こえるけれど、重労働も重労働、難行苦行なんです。
私なんかイワナ釣りをしたりしているすぐ傍で働いているのを見ると、とても見ていられないくらい酷しい仕事です。

 こういう生活を送るときには、みな鯨の脂身の塩漬の大きい塊を持っていきます。それを天上の棟木からロープでぶらざげ、食事時に
なると鉄鍋で味噌汁を煮たてた中へ、ロープを引っぱってこの鯨をじゃぶんと落とすんです。脂がギラギラと輪になって広がっていく。
そうするとひっぱって鯨を味噌汁から出す。毎日、ニ度三度これを繰りかえしていると、ゼンマイの終わるころにはこの鯨がすっかり小さ
くなって、石鹸のかけらぐらいになるそうです。“村杉小屋”のかあちゃんが私いったことがある、「先生、これやらないと、眼が見えなくな
っちゃうんだ」 そんな脂のギラギラした味噌汁が美味しいわけないのだけれど、そうしないと栄養不足と重労働で眼が見えなくなるので
すから、美味しいの不味いのといっていられないのです。

 “村杉小屋”の生活でも、私は焼酎のサカナにマーガリンを出されて驚いたことがありましたが、これも理屈としては同じなのです。
それくらい山国のせいかつは酷しい。芭蕉の句に 此山の かなしさ告げよ 野老掘(ところほり) という痛切な名句がありましたが、
これをもじってみると、駄句で字余りだけど、 此山の かなしさ告げよ ゼンマイ採り ということにもなりますか。ところが、山国の生活
は重労働の、難行苦行のというだけではすまないのです。 “村杉小屋”のかあちゃんはマイタケ採りの名手なのですが、自分の穴場
へいくのに決して真直ぐには向かっていかない。かりに穴場が北にあるとすると、まず東の方へ歩いていく。それから西に向かい、また
東へ戻りといったぐあいにジグザグ歩きをしながら、目的の場所に近づいていくのです。「何でやねん?」と私が尋ねると、かあちゃん
は、「誰が見てるかわかんねえでねえか」と答えました。山国もまた、競争は激しい。生存競争は厳しいのです。マイタケ採りの名手で
もあるかあちゃんが山に入っていった。どこへ、何しにいくのだろう。山の中の過疎の世界でも人の眼はどこにあるかわからないのです
から、かあちゃんとしては慎重たらざるを得ません。陽動作戦をえんえんと繰り返しつつ朝早くに小屋を出て、暮色たれこめたころマイタ
ケを抱えて帰ってくるのです。それはそれでいいとして、その自分の穴場は旦那にも教えないというので、私はあきれかえりました。
聞けば、やはりマイタケ採りの名手だった母親も、かあちゃんに死ぬまで穴場を教えてくれなかったそうです。「で、かあちゃんもそうす
るのんか?」「当り前だ。死んでも教えてやんねえ」 もちろん、とうちゃんの方もマイタケ採りはやりますが、こちらは目的地へ一目散
という勃起性直情怪行ですから、他人にすぐ知られてしまう。かあちゃんの守秘主義もゆえないことではないのです。

 一方、私はそんな夫婦の生活を横目で見つつ小説を書きにかかるのですが、いっこうに姿形がはっきりしてこない。霧の中の薄明か
りにぼんやりしてるきりで、私は寝たり起きたりマーガリンを舐めながら焼酎を飲んだり、イワナ釣りに精出したりしていました。当時、
まだこの小屋には電気が引けてなかったので、夜になるとランプの灯の下で、夫婦とあれやこれやの話をする。すると、そのうち、二人
がウナギというものを生れてから一度も口にしたことがないと知りました。彼らが住んでいる宇津野という村落があって、ちょっとそこか
ら下ると信濃川の支流の一つで魚野川といういいウナギがくる川があり、ヤナバで食わせるのですけれど、四十近くになるまで二人と
もウナギを食べたことがないというのです。とうちゃんもかあちゃんも山で生れ、山で育った山人間だけれど、それにしてもウナギの味を
知らないとは、ちょっと胸をつかれました。山国の生活はそれほど隔絶していたのですね。ひとむかし前までは、山と里の生活ははっき
りちがっていた。そのちがいは、食べ物にもっとも典型的にあらわれていたのでしょう。しかし、いまはどうです。山も里もみんな同じで、
インスタント食品が行きわたってるし、一年中キュウリが食べられたりする。要するに土地の別、季節の別がなくなってしまったのです。
じつに味気ないことだと思いはするのだけれど、“村杉小屋”の夫婦がウナギはもちろん海の幸でも簡単に口にできるようになったの
だということを考えてみると、いささか私は動揺せざるをえません。~





森 敦  「かての花」 短編集『 鳥海山 』より

・・・ 冒頭から ・・・     ───────  中略  ──────

 いつからか、こうした時雨がみぞれになり、夜ごとの沢鳴りも激しくなった。いよいよ冬の季節風が吹く荒れて来るのだと思っていると、
チラチラとみぞれに白いものが混じって来て雪になった。雪になったといっても、一挙に積もるものではない。積もっては消え、消えては
積もって、いつとなく根雪になっていくのである。根雪になるにはまだ間があるであろう。越後は豪雪地帯といっても、そんなところは北越
山間部のことで、海に近い弥彦はさほどでもないと聞いていたから、タカをくくっていたが、降りだしたかと思うとシンシンと降り続いて、
未曾有といわれるほどの大雪になった。
 弥彦神社は大晦日の夜に参ると、二年越しのに拝んだのと同じ効験があるとされている。それで、近郷近在の人々が込み合って、
大惨事までひき起こしたことがあるほどだが、ブルドーザーを出動させ、夜を徹して除雪にあたると放送されていたのに、弥彦在住の者すら
境内まで辿りつけぬほどになった。ものみな深く埋もれて、沢鳴りはおろか、雪がふっているのか、やんでいるのかもわからぬシンとした日が
つづいたが、わたしは雪を踏んで杉林の奥へと行くらしい足音を聞いた。なんということもなく、わたしはあの老婆が雪を踏んで行くように
思われて、ぞうッとしたが、どうやらそれもひとりではない、いったい、この雪にだれがなにをしに行くのか、気にならぬではなかったが、
そんな足音もそのときだけで、それからまったく聞かれなくなった。あまりにシンとしているので、屋根に積もった雪にうめきはじめた梁の音が、
そんなふうに聞こえたのかもしれない。そんなことを考えながら、わたしは施すすべもなく、ただ埋もれるにまかせて、石のようにみずから
安んじるよりほかはなかった。・・・・・




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