| 織田信長暗殺の背後にイエズス会あり!? 2004年3月3日:ken1 この表題の説はわたしが言っているのではなく、最近、出版された『信長と十字架』立花京子 著 (集英社新書2004年1月発行)において展開されているものです。 「信長研究」の学者さんの説です。(笑) この『信長と十字架』は、わたしがここで何度も紹介している、太田述正氏の時事コラムにおいて取り 上げられていたのを機に、http://www.ohtan.net/column/200401/20040116.html#0 読んでみたものです。 この本の主張は、「天下布武の理念を掲げて、イエズス会のために立ち上がった織田信長は、イエズス 会によって抹殺された。」 「南欧勢力(エスパニア=スペイン、ポルトガル)に担ぎ出された織田信長は、イエズス会と対立するに 至り、謀殺された。」 というものです。 実は、この説自体は、けっして新奇なものでなく、過去に似たような事をいっているひと達がいます。 『政治を哲学する本』副島隆彦 著(総合法令出版1994年6月発行)において、それとなく触れられてい ます。 (この本は現在絶版だが、『決然たる政治学への道』副島隆彦 著<弓立社2002年8月発行>と改題 され出版されています。) 『政治を哲学する本』第八章 ローマ・カトリックによる日本支配の野望 「キリシタン弾圧と鎖国をした理由−イエズス会の野望」から、少し長くなるが、以下要約して紹介します。 ------------------------------------------------------------------------------------ <要約> 1543年に、種子島にポルトガル船が漂着して鉄砲を伝えた(同時に、キリシタン伝来)、ということは日本 人なら習って知っている。しかし、この「鉄砲伝来」とは、実は、ヨーロッパ(当時は、「キリスト教圏」)から 見るならば、ヨーロッパによる「日本発見」ということであった。このポルトガル船によって、このとき、日本 は「発見された」のであった。日本が「発見された」ということは、日本がその時、誰か(どこかの国)の所有 物になったということだ。ローマ法以来のヨーロッパ法学の原理に従うならば、「誰の所有物でもないもの は、初めに見つけた者の物になる(無主物先占)」という法原理に従う。 だからこの時、日本を初めて見つけたヨーロッパ人が、それをヨーロッパの国王に献上したら、その国のも のになる。ということに国際法理論上なっていたのだ。ジェノバ人であったコロンブスが、スペイン国王の ためにアメリカ(西インド諸島)を「発見」したように。しかしアジア諸国の場合は、誰かが実際にその地に 上陸して探査して実効支配してからでないと、その地の領有を主張できなかった。その6年後の1549年 に、フランシスコ・ザビエルが九州、鹿児島に上陸して来た。彼はスペイン人(カタルニヤ人)で、イエズス 会( Jesuit )という鉄の規律を持つ修道士会の、創設メンバーの重要人物である。 彼は、当時のヨーロッパにおける最強のプロパガンディスト(伝道者)の一人であった。彼が日本(鹿児島) に上陸したとき、日本をこの時以降、「神の国にする」、すなわち、「ローマン・カソリックの教皇(法皇)に 献上する」という重要な役目をもっていたのである。何と!日本という国は、ローマ教会に献上された国 だったのである。その献上の文書がローマのヴァチカン(法皇庁、教皇庁)に今でも残っているという。 ( 割り込み注記;天正8(1580)年に大村氏は長崎をイエズス会に寄進することにした。その内容は、 長崎の土地所有権・支配権・行政権・停泊税をイエズス会に与え、大村氏自身は貿易関税のみ 収納 するというものであった。教会領長崎の誕生である。 そして翌天正9年、「神の平和」侵害事件(教会内での異教徒=非キリスト教徒による闘殺事件)が 起こり、イエズス会が教会の 神聖性を説き、 それを異教徒が認めることにより(イエズス会が 長崎から撤退すれば貿易ができなくなるという現実的な利害の問題が、その背後にあった)、 イエズス会による長崎支配の確立・長崎の「キリシタンの町」化が進んだのである。 『あうろーら』第14号<21世紀の関西を考える会、1999>掲載 貿易都市長崎の成立と構造 若松正志 より ) イエズス会は、日本という国を、キリスト教国に変えて、民衆を改宗していく作業に敢然と取り掛かった のである。 一六世紀の日本での布教活動は、このイエズス会宣教師たちによって、以後数十年の間押し進めら れた。当時の日本は戦国時代の末期であり、 織田信長はイエズス会の宣教師たちの布教活動を大い に認めた。彼は、当時すでに腐敗しきっていた仏教各派の僧侶集団、当時日本国内で最も激しい民衆 叛乱を引き起こしていた浄土宗(本願寺)の坊主たちとの思想闘争上も、イエズス会の宣教師の意見を 聞いた。 信長は、宣教師(バテレン)たちに拝謁を許して、世界の実情をたくさん知ったはずだ。地球儀も もらっている。 当時の日本人のうち、信長だけは、世界の大きさということが分かっただろう。信長は、宣教師が献上 したズボンをはき、トラの皮をまとい、マントをひるがえしていたという。 この織田信長が共謀(コンスピラシー)によって打倒され、豊臣秀吉の時代になると、イエズス会の本性 が少しずつ日本人に分かるようになってきた。豊臣秀吉自身も、この頃は朝鮮侵略を行い、やがては明 の国にまで攻め入ろうとするくらいの旺盛な軍事力を築き上げた時期の日本の権力者であった。 例えば、フイリピン(マニラ)侵寇計画を、豊臣秀吉は企てていた。このとき、攻撃されるべき相手として 秀吉からの「降伏要求」の手紙をもらった相手は、ルソン(マニラ)にいたスペイン人の現地最高司令官 (総督)であった。この時代に、フィリピンは、すでに、完全にスペイン帝国の植民地になっていた。 ところがなんと、秀吉からのこの手紙を持っていった人物が、スペイン人総督に日本の内情を伝えており、 秀吉の意図は、十分に向うに見抜かれていたのである。やがて秀吉によるキリシタン弾圧が少しずつ始 まるようになる。 徳川家康が、一六〇〇年に関ヶ原の合戦で、国内の支配権をほぼ握っが、ちょうどその同じ年、1600 年に、豊後(今の大分県)水道の沖に漂着した一隻の船があった。リーフデ号である。 これに乗っていたウィリアム・アダムズ(イギリス人)とヤン・ヨーステン(オランダ人)の二人が、やがて徳川 家康に仕えるようになった。彼らは、直参か旗本の武士待遇を与えられた。 ウィリアム・アダムズは神奈川県の三浦半島に住み、二百五十石の領地をもらって徳川家康の外交顧問 (通訳、解説者)のような任務を勤めた。ヤン・ヨーステンは、今の東京駅の八重洲(ヤエス)口のあたりに 住んだ。 このウィリアム・アダムズが、徳川家康に真実を教えたのである。その内容は、「今の状態で、日本が イエズス会の宣教師たちの布教活動を許しているならば、やがて日本は、完全にローマン・カソリックと スペイン帝国の属国にされてしまうであろう」というものであった。 すでに、この頃にはイエズス会だけでなくフランチェスコ会やドミニコ会の宣教師たちも、京都や堺や長崎 で、教会を建てて布教を行いキリスト教の信者が激増していた。信者は、豪商たちや大名たちにまで 及んだ。 彼らキリシタン大名が結集してその資金力と、ヨーロッパの先端技術を導入した武力を動かせば、 徳川将軍家だって打倒されるであろうと、アダムズは家康に進言したのだ。 彼らの背後には、マニラに駐屯していたスペイン艦隊(ガリオン船、重武装商船隊)がいる。あれが、 内乱に乗じて、日本まで侵略してきたら、大変なことになる。事実、豪商や戦国大名の多くがキリシタン になっており、徳川家康の息子の一人や、なんと有力大名の伊達政宗までキリシタンであったと言わ れる。これらの「鎖国」に至る、歴史の事実は、中公文庫『日本の歴史』(一四巻「鎖国」岩生成一著)を 読むとよく判る。 家康は、このアダムズの意見を聞き入れて徐々に鎖国を断行するに至った。初めのうちは、家康は、 南蛮貿易を独占することによって得られる巨利を捨てがたかったのだが、やがてそれどころではなく なった。宣教師たちがどんどん密入国して来て、いよいよ危険な情勢になってきたからだ。 ------------------------------------------------------------------------------------ <以上、『政治を哲学する本』第8章より、要約。> この後の展開は、(秀吉以降)徳川幕府がキリスト教の禁教令を何度も発令し、キリスト教徒 (キリシタン)弾圧を強め、1637年12月から翌年2月の島原の乱の鎮圧によって終息するのは、 よく知られている史実です。 キリシタンは1640年までに、日本国内から最終的に駆逐され、殺されるか、追放されていった。 さて『信長と十字架』に戻ると、上記の説を敷衍して、本能寺の変の黒幕はイエズス会であるとしているの だが、実はこれも、小説家の八切止夫が1967年に、歴史小説『信長殺し、光秀ではない』(作品社)と いう著作の中で、信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たちで、しかも、信長が滞在する本能寺 に南蛮渡来の新式火薬で作った爆弾を、本能寺から90メートルという至近距離にあった、 「南蛮寺(サンタ・マリア教会)」の展望台から、打ち込んで本能寺を跡形もなく焼失させた、という説を 示している。当時の、信長がイエズス会を裏切った事実と、信長の焼死体が全く見つからなかったことを 根拠に立論しているのである。この八切氏の説は、古くから「トンデモ説」として一蹴されてきたが、 やっと日の目を見る日が、来たのかも知れない(笑)。 八切説によれば、イエズス会勢力が、信長を殺害しようとしたことの背景には、信長艦隊の四国出兵が、 マカオ占領のための出兵であるという風に誤解されたことも背景にある。信長が相互依存関係を一方的 に断ち切って、彼らの手先たるの役割を拒否したことから、双方は相互不信にあったのだという。 この推理が正しいかどうかはさておき、本能寺の隣に、南蛮寺(サンタ・マリア教会)があったというのは、 とても重要な史実だと思われるが、高校程度の日本史では教わりませんね!←当然といえますね。。。 こういう都合の悪そうなことは「知ラシムベシ」が教育(文部科学省)の方針だ。 上記の副島氏や八切氏は、歴史学の専門家ではないとの批判が当然のごとく?日本の歴史学会?に 於いてあるかどうかは知らないが、 立花京子氏は一応、歴史学者ですからトンデモ話として一蹴は出来ません!!! しかも、立花京子の『信長と十字架』は新書版で手軽に読めるので、お薦めです。 『信長と十字架』でわたしが、初めて知った点は、信長の有名な「天下布武」の印章が楕円形であること に注目し、当時の戦国大名の印章は角印が通常であったのに何故なのか?それは、当時日本に滞在 したイタリア人のイエズス会宣教師のヴァリリャーノの印章も楕円形である点、キリシタン大名で有名な 大友宗麟の印章も楕円形である点、また、当時のヨーロッパの印章は楕円形が多かった点から、信長と 宣教師との緊密な関係があったからこそ、これを真似て、信長は「天下布武」の印章を楕円形にしたのだ との推論をしている。 さらにわたしの一番の驚きは、信長の有名な「暦の変更問題」 (信長は本能寺の変の直前、朝廷に対 して暦の変更を要求し、天皇周辺や公家達は、この事を快く思っていなかった。結局、本能寺の変によっ て、暦の変更は行われずに済んだ ) についての推論である。 信長は天正10年(1582年)の正月から暦の変更を問題にしはじめたのだが、この暦の変更もイエズス 会が絡んでいたのではないか? 何故なら世界史的な重要事実として、1582年(すなわち天正10年) の10月(和暦9月)にユリウス暦からグレゴリオ暦に変更されたからだ!!! 暦変更については、欧州では16世紀初頭から叫ばれ、教皇庁としては懸案事項として長年議論されて きたものが、この時点で正式に導入された。当然、日本に来ているバテレン宣教師にも情報として伝わっ ていたはずである。信長は、このバテレンの要請を受けて、変更の際には支障なく太陽暦に移せるよう 日本においても調整しようとしたのでは?との大胆な推論を立花氏は展開している。 ところで、信長自身は、キリスト教徒であったという事実はなく、洗礼を受けていたという史実も報告され ていない。有名なバテレン宣教師であるルイス・フロイスの『日本史』においても記述はされていない。 信長自身はあらゆる(仏教を含め)信仰と無縁であったと思われるが、フロイスの『日本史』によると、 安土城内に総見寺と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山(ぼんさん)という石を自身の神体と して安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。天正10年5月の信長の誕生日には、 遠方の諸国から甚大な数の人々が集合して礼拝した。同寺を礼拝すれば諸々の現世利益が得られるの であった。との記述があり(『信長と十字架』からの孫引き) これが、バテレン宣教師の怒り買った一因であると立花氏はみている。 フロイスは「本能寺の変」による信長の最後を、これと関連させて、「唯一神デウスにのみ捧げられる べき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、われらの主なるデウス は、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が19日以上継続すること(「本能寺の変」は 天正10年<1582年>6月2日) を許し給うことがなかった。」と『日本史』に記述している。 立花氏はこのように、ルイス・フロイスの『日本史』記述をひきながら、イエズス会が信長暗殺の真の黒幕 であったことの証拠として示している。 ※フロイスの『日本史』は中公文庫として、『完訳フロイス日本史』全12巻 フロイス・ルイス 著、 松田 毅一・川崎 桃太 訳 中央公論新社から出版されている。 この本は戦国時代の日本史の第一級の資料として、是非とも買ってよまなければ・・・ (読みたい!)と思うが、いつになる事やら・・・。。。 (了) ken1 2004年3月3日脱稿 織田信長・バテレン関係歴史年表 |