織田信長・バテレン関係歴史年表



西暦   出来事

1415  エンリケ航海王子(ポルトガル)、北西アフリカにあるセウタを攻略 
      その後、生涯をもっぱら西アフリカ沿岸の探検と開拓にささげる

1488  バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰(きぼうほう)到達

1492  コロンブス(スペイン)、サンサルバドルに到達し、アメリカ大陸を発見
      出発時、3隻90名。帰国時(1493.3)、1隻40名

1497  カボット(イングランド)、北米へ向かう

1498  ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)、喜望峰(きぼうほう)を回り、インド航路を開拓
      出発時(1497.7)、4隻170名。帰国時(1499.9)2隻55名

1500  カブラル(ポルトガル)、ブラジル漂着

1501  アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア)、南米調査

1510  ポルトガル、ゴア(インド)占領

1511  ポルトガル、マラッカ(マレーシア)占領

1517  ポルトガル人、広州(中国)到達
      マルティン・ルター、「95か条の論題」を発表
      「宗教改革」の開始

1518  ポルトガル、セイロン(スリランカ)占領

1521  コルテス(スペイン)、アステカ王国(メキシコ)征服
      カール5世、ヴォルムス帝国会議を開く

1522  マゼラン、世界一周 スペイン出発時(1519.9)、5隻265名。帰国時(1522.9)、1隻18名。

1523   ツヴィングリの改革(カルヴァン派)(チューリッヒ)

1524  ドイツ農民戦争(ルター派)(〜25)

1533  ピサロ(スペイン)、インカ帝国(ペルー)征服

1534  
イエズス会の設立(カトリック教会の一派、)
      イグナティウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルとともにイエズス会を設立
      (「反宗教改革」の組織 )
      英国ヘンリ8世、首長法発布 (イギリス国教会)
     
織田信長、生まれる

1541  カルヴァンの改革(ジュネーブ)

1543  ポルトガル船が種子島に漂着、日本に鉄砲伝来

1544  ポルトガル船、薩摩に貿易を求める
      信長、父信秀から那古野(なごや)城を与えられる

1545  トリエント公会議(〜63) カトリック教会「反宗教改革」の開始
      21歳頃の大友義鎮宗麟、ポルトガル商人ジョルジェ・デ・ファリアとの交流始まる

1546  足利義輝、第十三代将軍となる
      シュマルカルデン戦争

1549  英国エドワード6世、国教の新教化促進 イギリス国教会
      フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸、布教活動開始(日本にキリスト教伝来)
      この頃に信長、近江国友村に鉄砲五百挺の製作を注文したという話がある

1550  ザビエル、京都・山口で布教
      大友義鎮(宗麟)、大友家の当主となる

1551  ザビエル、周防長門の大内義隆を訪問し、時計・鉄砲・緞子・鏡・眼鏡などを進呈
      大友義鎮(宗麟)、豊後府内を訪れたザビエルを歓待し、府内での布教を許可する
      ザビエル、日本を去る

1552  イエズス会宣教師バルタザール・カゴ、豊後に来たり、大友義鎮(宗麟)に謁す
      織田家、父信秀が病死し、信長が十九歳で、そのあとを継ぐ

1553  大友義鎮(宗麟)、過去3年間の年礼を将軍、義輝に納めて、肥前守護職を要請

1554  信長、今川勢が籠る村木砦を攻め、鉄砲を次々取りかえ撃ちはなして、落城させた
      大友義鎮(宗麟)、肥前守護職の見返りとして、新兵器の南蛮鉄砲を、義輝に献上
      大友義鎮(宗麟)、肥前守護職に補任される

1555  アウグスブルグの宗教和議
      メアリー1世によるカトリック復活(イギリス)
      大友義鎮(宗麟)、イエズス会士が育児院を立てるのを許可する

1556  明使来航し、倭寇の取締りを足利幕府に求める

1557  ポルトガル人、マカオ居住権を得る
      信長、弟の信行を謀殺
      大友義鎮(宗麟)、イエズス会に対して地所と会堂を寄進する

1558  木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が織田信長に仕える
     信長、岩倉城主信賢(のぶかた)を、鉄砲で攻めたて、降伏させる(尾張制覇)

1559  エリザベス1世、統一法発布(イギリス国教会の確立)
      織田信長、入京し、将軍義輝に謁す
      長尾景虎(上杉謙信)入京し、将軍義輝に謁す
      ポルトガル国王ドン・セバスチアン、大友義鎮(宗麟)に返書を出す
      宣教師ビレラ、京都で布教
      イルマン・アルメイダら、豊後府内にイエズス会の病院を設け、治療にあたる

1560  足利幕府、宣教師ビレラに布教を許可
      織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破る

1561  信長、美濃斎藤を攻める

1562  徳川家康、織田信長と同盟を結ぶ
      足利幕府、徳政令を発布
      フランス、ユグノー戦争(カルヴァン派弾圧)(〜98)

1563  (ドン・バルトロメオ)大村純忠、受洗、最初のキリシタン大名となる
      領内にイエズス教会堂を建立
      イエズス会宣教師、ルイス・フロイス来日。

1564  (ジュスト)高山右近洗礼を受ける
     信長、密使を通じて正親町(おおぎまち)天皇の皇室領回復の要請を受ける

1565  三好義継・松永久秀ら、第十三代将軍義輝を殺す
      フロイス、入京
      正親町天皇、バテレン追放令を発令
      松永久秀ら、天主堂を壊し、宣教師のビレラ、フロイスを追放
      信長、足利義昭(覚慶)供奉の意思を、細川藤孝(幽斎)に通告

1566  信長、美濃斎藤龍興を攻めるが、大敗を喫す

1567  口之津(島原半島南端)に南蛮船(ポルトガル船)入港 
      口之津開港
      信長、斎藤氏を滅ぼし、稲葉山城に本拠をうつす
      城下の井ノ口を「岐阜」と改称(美濃制覇 )
      この頃から「天下布武」という印章を使い始める
      この印文と岐阜という地名は、信長の天下統一の意志を表したものとされる

1568  足利義栄(よしひで)、第十四代将軍となる
      織田信長が足利義昭を奉じて上洛
      義昭、第十五代将軍となる
      オランダ、スペインに対し独立戦争(〜1609)
      オラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)1世をたてて独立戦争を開始

1569  信長、宣教師ルイス・フロイスに京都居住を許可←朝廷の方針とは正反対の方針
      信長、フロイスと朝日日乗との宗論(宗教論争)を行わせる
      フロイス、岐阜の信長へ直訴する
      フロイス、信長より布教許可を得る
      トードス・オス・サントス教会建立(現春徳寺)

1570  信長、参内し、将軍権限の委任を、天皇・諸大名から承認させる将軍権獲得
      信長、御所内裏を修理する
      姉川の戦い、信長・家康連合軍、浅井長政、朝倉義景を破る
      石山合戦始まる、一向宗徒、信長に対して一揆をおこす(〜80)
      伊勢長嶋に一向一揆おこる(〜72)
      大村理専、南蛮船の交易を許可
      ポルトガルより、ガラスの製法伝来

1571  レパントの海戦(スペイン)
      スペイン、マニラ(フィリピン)建設
      大村純忠、長崎開港
      大友義鎮(宗麟)、九州六ヵ国の支配者となる
      信長、比叡山(延暦寺)を焼き打ち

1572  サン・バルテルミ(カルヴァン派)の虐殺
     信長、長嶋一向一揆を討つ
     三方ガ原の戦いで武田信玄、家康を破る

1573  信長、近江国百済寺を焼く
      信長、将軍義昭を追放、室町幕府の滅亡
      信長、朝倉義景を自害させる
      信長、浅井長政を自害に追い込む
      宣教師カブラル、博多・山口で布教

1574  信長、伊勢長嶋の一向一揆を攻め、これを破る

1575  長篠の戦、信長&家康が武田勝頼を三河国に攻めて破る
      本願寺顕如、信長と和睦
      大友宗麟、子の義統に洗礼を受けさせる

1576  信長、安土城(滋賀県)を築く
      信長、大坂本願寺を討つ
      京都に南蛮寺(サンタ・マリア教会)を建立

1577  ドレーク(イングランド)が、世界周航出発(〜80)
      エリザベス1世からアメリカ大陸太平洋岸のスペイン植民地を襲撃せよとの密命
      世界周航をなしとげた初のイングランド人として喝采(かっさい)を得る
      信長、安土に楽市の制を敷く

1579  口之津港(島原半島南端)より上陸したイエズス会宣教師(イエズス会日本準管区巡察使)
      アレッサンドロ・ウァリニアーノ(,Alessandro,Valignani)口之津会議を開き、日本人聖職者を
      養成するとを決定。これに基づき宣教師の養成機関として設置されたのが、
      セミナリヨ(小神学校)、コレジヨ(大神学校)である。
      セミナリヨにおいては、宣教師のほかに音楽士、絵師、伝道士も養成した。
      近江安土で、浄土宗と日蓮宗、法論を行う(安土宗論)
      ユトレヒト同盟(オランダ )

1580  スペイン、ポルトガルを併合
      有馬にセミナリヨ(小神学校)設立
      石山合戦終る、大坂本願寺と信長の講和なる
      顕如石山を退く、教如も石山城を退く
      イギリス商船、平戸に来航
      イエズス会、安土に教会と修院を設立
      大村純忠、長崎をイエズス会に寄進

1581  オランダ、スペインからの独立を宣言
      信長、安土で馬揃えの行事を行う
      信長、京都で、馬揃え(一大軍事パレード)を華々しく行う
      イエズス会宣教師や近畿諸大名を呼び、天皇臨幸であった
      信長、左大臣に推任されるが、請けず
      信長、高野山の僧侶千余人を斬る
      秀吉、淡路国を平定

1582  ウァリニアーノ(ヴァリニャーニ)のすすめで、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らが、4人の
      遣欧少年使節を派遣する ローマへ向け長崎より出発(天正の少年使節)
      信長、暦の変更を要求
      天目山の戦い、信長&家康、武田勝頼を破る
      信長、朝廷に三職(太政大臣・関白・将軍)のいずれかに推任を要請
      信長、再び暦の変更を要求
      織田信長,本能寺で明智光秀によって討たれる(
本能寺の変
      高山右近、安土セミナリオを高槻に移す
      山崎の戦いにおいて、羽柴秀吉が明智光秀を撃ち破る
      秀吉が山城(京都府)で検地を行う
      10月15日 グレゴリウス13世、グレゴリウス暦を採用 → 10月5日を10月15日に変更

1583  秀吉、大坂城を築く この大阪築城に合わせ、高山右近、大阪南蛮寺(教会)を建設

1584  オランダ、オラニエ公ウィレム1世暗殺される
      ウォルター・ローリー(イングランド)、ヴァージニア植民地建設(失敗)
      スペイン船、平戸に来航
      小牧・長久手の戦い(信長の次男・信雄が徳川家康と連合して、秀吉と9ヶ月にわたり戦う)
      秀吉と家康が和睦

1585  天正遣欧少年使節団が教皇グレゴリウス13世に謁見
      オランダのアントワープ陥落、スペイン軍に降伏
      ディルク・シーナ、ポルトガル船で来日(最初のオランダ人)
      秀吉が関白となる
      高山右近、播州明石に転封

1586  秀吉,太閤(太政大臣)になり豊臣の姓を与えられる

1587  秀吉が島津氏を討って九州を平定、従える
      秀吉によるキリシタン禁令(
天正禁令
      この秀吉のバテレン追放令により、高山右近の領地没収、追放
      右近、小西行長・前田利家を頼り剃髪して南之坊等伯と号す
      大村純忠死去
      大友宗麟死去   

1588  英国(チューダ朝エリザベス1世の治世)、海賊出身のドレイク(副提督)率いる
      英国艦隊(the English fleet)が、スペイン無敵艦隊(La Armada)を撃破
      (これによりスペインの制海権が失墜し、オランダが事実上スペインから独立する)
      細川忠興のガラシア夫人(明智光秀の娘)受洗
      秀吉が刀狩りを行う
      秀吉、
イエズス会宣教師の追放を命令

1590   スペインのフィリペ2世,反乱諸州への貿易禁止令を撤回
      天正の少年使節帰国
      秀吉、小田原の北条氏を破り、天下統一を達成

1591  ウァリニアーノ(ヴァリニャーニ)ら宣教師、秀吉に謁見

1592  マニラ近郊のディラオに日本人町が建設される 
      秀吉、朝鮮出兵(文禄の役)
      秀吉、貿易船に朱印状を渡し貿易を推進(朱印船貿易)

1593  フランシスコ会の宣教師来日

1594  秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地)

1597  秀吉、再び朝鮮に出兵(慶長の役)
      秀吉、長崎西坂で26人のキリシタンを処刑 (日本26聖人長崎殉教 )

1598  秀吉病没 
      アンリ4世、「ナントの勅令」でユグノー(カルヴァン派)を認める
      スペイン、フィリペ2世死去。 フィリペ3世、オランダに対する貿易禁止令を復活 
      オランダ、インドへの新航路を発見すべく、ジャック・マフー指揮下のロッテルダム艦隊の4隻の
      僚船とともにデ・リーフデ(博愛)号出航

1599  マフー司令官が倒れ、デ・リーフデ号のシモン・ド・コルデス副指令がホープ号に移り指揮を執る
      ロッテルダム艦隊、マゼラン海峡のド・コルデス湾で越冬

1600  4月19日、デ・リーフデ号( De Liefde)、豊後の臼杵湾に漂着、生存者の中にオランダ人
      ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn) や英国人航海士
      ウィリアム・アダムス( William Adams)、のちの三浦按針がいた
      (このリーフデ号オランダ船として初めて日本にたどり着いた。が、リーフデ号はオランダに戻ること
       はなかった)
      細川ガラシャ、人質を拒否して自害
      徳川家康、関ヶ原の合戦に勝利
      イギリス、東インド会社設立

1602  ドミニコ会、アウグスチノ会の宣教師来日
      オランダ連合東インド会社 (VOC)設立

1603  家康、江戸幕府を開く

1605  家康、将軍職を秀忠に譲る

1606  バリニャーニ(Valignani,Alessandro)がマカオで没

1606  薩摩藩主島津家久が幕府より琉球征討の許可を得る。

1607  幕府がルソン渡航朱印を許可する。

1609  薩摩藩が琉球首里城を功略し、琉球王尚寧は降伏する。家康、その支配を認める。
     幕府、オランダ国王に貿易許可の朱印を与え、オランダ商館を平戸(長崎県)におき、
     オランダと貿易を始める。

1610  
家康がスペイン国王に書簡を送り、貿易の保護を約束する。
      幕府がシャム国王に書を贈る。琉球の尚寧王が家康と対面する。
      長崎港外にてマードレ・デ・デウス号撃沈事件

1612  幕府が直轄領に禁教令を出す
     
オランダ国王が、徳川家康にポルトガルの密謀を密告する。
      有馬晴信、殉死

1613 
 幕府、公家の生活を統制する公家諸法度と、僧が紫の袈裟を着用するには勅許を
      必要とする勅許紫法衣法度を定める(のちの禁中並公家諸法度)

      伊達正宗が支倉常長をヨーロッパに派遣する
      英国商館を平戸に設置

1614  家康、全国的禁教令、
宣教師国外追放令(キリシタン禁教令、バテレン国外追放令)
      高山右近ら、大阪から船で長崎へ。長崎から小型船でマニラへ出航
      右近マニラ到着後40日ほどで熱病にかかり死亡
      20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣(大坂冬の陣)。

1615  右近、マニラ市あげての召天式が行われ、サンタ・マリア聖堂に葬られる
      大阪夏の陣、豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡。
      幕府が一国一城の制を布く。
      徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を定める
      支倉常長がローマ教皇パウロ5世に謁見。支倉常長はローマの公民として貴族に列せられる

1616  幕府、ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限
      家康が死去
      幕府がキリスト教の渡来を禁じる
      リチャード・コックスが「コックス日記」に伊達政宗が松平忠輝と組んで謀反を
      起こそうとしているという記事を書く。

1618  長崎、平戸が外国貿易港として指定される

1620  ウイリアムアダムス(三浦安針)平戸において急死

1622  神父コンスタンツォ田平焼罪にて焚刑(元和の大殉教)

1623  イギリス商館閉鎖

1624  幕府、スペイン船の来航を禁止
      ルイス・ソテロ大村放虎原にて殉教死

1625  幕府、関所・駅伝の制を定める

1629  幕府がキリスト教徒の発見に踏み絵を用いる

1633  ジュリアン中浦神父殉教死(長崎・西坂)

1634  禁教踏絵令

1635  日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する
      洋書の輸入禁止

1636  大名の参勤交代が制度化(3代将軍家光)
      「宗門改め」の開始

1637  島原の乱発生

1638  島原の乱鎮圧

1639  ポルトガル船の来航を禁止 → 鎖国の完成

1641  オランダ人を長崎の出島に移す(オランダ商館閉鎖、長崎移転)

1644  宗門改めの制度化