幕末〜明治維新/歴史年表(其の弐) 1851年始〜1861年末まで
※西暦、新暦で表示 ( )括弧内旧暦(和暦表示)
1851.01.11(嘉永3年12.10) 清、広西省桂平県金田村で、洪秀全(37)が清朝を倒して太平天国をたてることを宣明する。
(太平天国の乱のはじまり)
1851.01.22( 12.21) 国定忠治が大戸関所で磔の刑に処せられる。41歳
1851.02.03(嘉永4年01.03) ジョン・中浜万次郎がアメリカ船に乗って琉球(沖縄)に帰国する。
1851.03.07( 02.05) 吉田松陰が参勤交代の一行に従って江戸に向かって萩を出発する。
1851.03.17( 02.15) 天保の改革を行った水野忠邦が蟄居謹慎を解かれる。
1851.03.18( 02.16) 水野忠邦、没。58歳
1851.03.23( 02.21) 清国で、洪秀全が天王を名乗る。
1851.04.06( 03.05) 吉田松蔭が藩主の参勤出府に随行して江戸に向かう。
1851.04.28( 03.27) 幕府が代官江川太郎左衛門に、下田付近の警備を命じる。
1851.05.14( 04.14) 水戸藩内で種痘を実施する。
1851.05.16( 04.16) ドレスデン会議で、ドイツ連邦体制の復活が決定される。プロイセンとオーストリアの間の秘密協定
が結ばれる
1851.07.25( 06.27) 清とロシアの間に17条のイリ通商条約が結ばれる。
1851.08.12( 07.16) 吉田松陰が、藩当局に東北旅行願を提出する。
1851.08.16( 07.20) 琉球にスペイン船が来航する。
1851.08.19( 07.23) 吉田松陰の東北旅行願の許可が出る。
1851.08.22( 07.26) アメリカのスクーナー船アメリカ号が、ワイト島一周レースで優勝する。
この後、この優勝杯はアメリカンズ・カップと呼ばれることになる。
1851.09.25( 09.01) 清で、太平軍が永安州城を占領する。
1851.10.01( 09.07) 太平天国が、財宝類の聖庫への納入を命令する。
1851.10.10( 09.16) 薩摩藩主島津斉彬が被写体となり、日本で最初の写真撮影に成功する。
1851.10.23( 09.29) 長崎奉行がジョン・中浜万次郎らを取調べる。
1851.10.29( 10.05) ベンガル・英領インド協会が創立される。
1851.12.02( 11.10) フランス、ルイ・ナポレオンのクーデターが起こる。
1852.01.05( 12.14) 吉田松陰が、過書の下付を待たず、脱藩して宮部鼎蔵とともに東北遊歴に出発する。
水戸、白河、会津、新潟を経て、青森まで足を運び翌年4月江戸へ戻ることとなる。
1852.01.08( 12.17) 琉球にイギリス軍艦が来航する。
1852.01.18( 12.27) イギリスがビルマに対して通商関税問題改定を要求して最後通告を行う。
1852.03.16(嘉永5年02.26) 台湾の嘉義の洪紀らの反乱が清朝に報告される。
1852.04.05( 閏02.16) 太平天国が、清軍の包囲陣を突破して北上する。
1852.04.08( 閏02.19) 清国人300余人が、アメリカへ移民に向かう途中、イギリス船を奪って石垣島に上陸する。
1852.05.08( 03.20) 遠山金四郎景元が町奉行を辞任する。
1852.05.08( 03.20)
デンマークなどの安全保障に関して、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、スウェーデンが
ロンドン議定書に調印する。
1852.05.23( 04.05) 吉田松陰が東北遊歴から江戸に戻り、萩への帰国を命じられる。
1852.06.06( 04.19) 清国とイギリスの間に、厦門の敷地交換協定が調印される。イギリス租界が設置される
1852.06.10( 04.23) 医師伊古田純道が、帝王切開の手術を行う。
1852.06.10( 04.23) 清の武将江忠源が太平天国を迎え撃つ。太平天国の指導者の1人の南王馮雲山が戦死する。
1852.06.29( 05.12) 吉田松陰が萩に着く。
1852.06.30( 05.13) イギリス本国の議会で、ニュージーランドが自治植民地として発足する。
1852.07.01( 05.14) カラチで、アジア最初の一般対象の郵便制度が導入される。
1852.07.21( 06.05) 長崎出島で発行された「オランダ風説書」がペリー来航を来春(1853年1月〜3月)と予告する
1852.08.25( 07.11) ジョン・中浜万次郎が高知に到着する。
1852.09.26( 08.13) 加賀の河北潟で、魚が毒物により大量に死ぬ。
1852.09.30( 08.17) オランダ商館長ドンケル・クルチウスが、オランダ東インド総督の公文書と風説書を長崎奉行に提出
する。公文書にはアメリカ艦隊の来航が予告されていたが、幕府は黙殺する。
1852.11.11( 09.30) 加賀の豪商銭屋五兵衛が河北潟への毒物を入れたとして息子たちとともに逮捕される
1852.11.20( 10.09) フランス、人民投票でルイ・ナポレオンを皇帝にすることが承認される。
(仏、第二帝政 )
1852.11.24( 10.13) イギリス海軍兵が中国人を殺害する。3日前のイギリス人が中国人に殴打されたことへの報復。
1852.12.01( 10.20) フランス、元老院がルイ・ナポレオンを推戴し、ナポレオン3世が誕生する。
1852.12.20( 11.10) イギリスが、ビルマのペグー地方の合併を一方的に宣言する。第2次ビルマ戦争が終結する。
1852.12.29( 11.19) 太平軍が漢口を占領する。
1853.01.18( 12.09) 吉田松陰が脱藩の罪により士籍と余禄を剥奪される。
1853.03.02(嘉永6年01.23) ハプスブルク皇帝が、ハンガリーに農奴解放令を発布する。
1853.03.03( 01.24) アメリカ議会が、大陸横断鉄道の路線調査費用15万ドルの予算を承認する。
1853.03.11( 02.02) 関東に地震がある。
1853.03.20( 02.11) 洪秀全が率いる太平天国軍が南京を占領する。
1853.03.29( 02.20) 太平天国軍が南京に入城し、天京と改名して首都とする。軍事共産主義の実現を目指す。
1853.04.08( 03.01) イギリス人とアメリカ人が、上海の租界自衛のための義勇軍を組織する。
1853.04.27( 03.20) 太平軍と交渉のためイギリス公使が南京に到着する。
1853.05.26( 04.19) アメリカ東インド艦隊指令長官ペリーが、那覇に来航する。22日間滞在。
1853.06.14( 05.08) ペリーが父島に来航する。
1853.07.08( 06.03)
アメリカ使節ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航する(ペリー黒船来航)。
以後出港まで、ペリーは江戸城に大砲の照準を合わせ、東京湾を測量していたといわれている。
1853.07.09( 06.04) 吉田松陰が、米艦の様子を探りに浦賀に赴く。
1853.07.14( 06.09) 浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道らが久里浜でペリーと会見し、アメリカの国書を受取る。
(ペリー、示威行動の末、幕府に国書を受領させることに成功する)
1853.07.17( 06.12) ペリーが那覇へ向けて浦賀を出航する。
1853.07.20( 06.15) 幕府が、ペリーの来港を朝廷に上奏する。
1853.07.27( 06.22) 12代将軍徳川家慶、没。61歳。
1853.07.28( 06.23) イギリス、フランス、プロイセン、オーストリアがウィーンでロシア・オスマン帝国戦争の調停書を作成
する。
1853.08.05( 07.01) 老中阿部正弘が、アメリカの要求について大名の意見を求める。
1853.08.07( 07.03) 幕府が、前水戸藩主徳川斉昭を海防参与に任命する。
1853.08.17( 07.13) ペリー来航の知らせを受けて、井伊直弼が彦根を発つ。
1853.08.22( 07.18) ロシア使節極東艦隊司令長官プウチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に来航する。
1853.09.07( 08.05) 幕府が高島秋帆の禁錮を解除する。
1853.09.07( 08.05) 上海で小刀会が蜂起する。
1853.09.09( 08.07) 上海の英米領事が、関税代理徴収を行う。
1853.09.14( 08.12) 英仏連合艦隊が、オスマン朝の援助のため海峡条約を犯してダーダネルス海峡に侵入する。
1853.09.21( 08.19) 長崎奉行がプウチャーチンからロシア国書を受領する。
1853.09.24( 08.22) ニューカレドニアがフランスに領有される。
1853.09.26( 08.24) 幕府が品川台場の築造を始める。
幕府品川台場築造に着手する。
1853.10.02( 08.30) 樺太のクシュンコタンにロシア軍艦が来航し、兵舎を建てる。
1853.10.16( 09.14) オスマン帝国がロシアに宣戦布告し、クリミア戦争が始まる。(クリミア戦争)
1853.10.20( 09.18) 吉田松陰がロシア艦に乗船するため長崎へ向かう。
1853.10.27( 09.25) 幕府が、長崎奉行を通じオランダ商館長クルチウスに軍艦・鉄砲・兵書などを注文する。
1853.11.01( 10.01) ロシアとトルコの間でクリミア戦争が始る。
1853.11.18( 10.18) 徳川斉昭が大砲74門を幕府に進上する。
1853.11.18( 10.18) ロシアのナヒモフ提督の黒海艦隊が、シノペに投錨していたトルコ艦隊を襲って撃破する。
1853.11.23( 10.23) 徳川家定が第13代の征夷大将軍に任ぜられる。
1853.11.23( 10.23) プチャーチンのロシア艦隊が突然長崎を出航する。
(上海にいたペリーと共同で対日交渉にあたろうとしたため。)
1853.12.07( 11.07) 幕府が、中浜万次郎を登用して普請役格とする。
1853.12.12( 11.12) 幕府が水戸藩に大船の製造を命じる。
1854.01.03( 12.05) プチャーチンが長崎に再来する。
1854.01.04( 12.06) 英仏連合艦隊が、オスマン朝の要請により黒海に入る
1854.01.25( 12.27) 吉田松陰が、ロシア船への乗船が果たせず江戸に帰る。
1854.02.05(嘉永7年01.08) プチャーチンが長崎を退去する。
1854.02.05( 01.08) 太平軍の北上部隊が、天津近郊で敗北し退却する。
1854.02.06( 01.09) ロシアがイギリス、フランスと国交を断絶する。
1854.02.13( 01.16) ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来港し、ついで江戸湾内小柴沖に停泊する。
幕府に対して国書(開国・通商)の返答を求める
1854.02.15( 01.18) 上海にアメリカ租界が開設される。
1854.02.23( 01.26) イギリスがボーア人とブルームフォンテーン条約を結び、オレンジ自由国の独立を承認する。
1854.03.01( 02.03) 幕府が、アメリカ軍艦の見物を禁止する。
1854.03.04( 02.06) 幕府が、漂流民の保護と薪・水・食料の給与は承認し、通商条約は拒絶する方針を固める。
1854.03.11( 02.13) ペリー艦隊が江戸湾に来航する。汽車模型を持参する。
1854.03.12( 02.14) イギリスとフランスが、ロシアに対抗するためにオスマン帝国と軍事同盟を結ぶ。
1854.03.28( 02.30) イギリスとフランスが黒海に艦隊を派遣し、ロシアに宣戦布告する。
1854.03.31( 03.03) 日米和親条約、全12ヶ条が締結される。 (日米和親条約)
幕府は下田・箱館を開く。(通商条約は回避)
1854.04.15( 03.18) 吉田松陰がアメリカ船に乗り込むことを志して下田に到着する。
1854.04.20( 03.23) オーストリアとプロイセンの間に対ロシア同盟が成立する。
1854.04.21( 03.24) 幕府が下田奉行を再び設置する。
1854.04.24( 03.27) ハプスブル家のフランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートと結婚する。
1854.04.25( 03.28) 吉田松陰が、下田に停泊中のアメリカ軍艦に乗り密航を企てるが失敗し、自首する。
1854.05.02( 04.06) 皇居が炎上する。
1854.05.05( 04.09) 幕府が井伊直弼に京都警備を命じる。
1854.05.06( 04.10) 密航を企てて失敗し自首して捕らえられた吉田松陰が江戸送りとなる。
1854.05.09( 04.13) 清の税関設置に対してイギリス、フランス、アメリカが抗議し、上海が自由港になる。
1854.05.11( 04.15) 吉田松陰(25)が伝馬町牢獄に投ぜられる。ペリーの陳情?により一死免ぜられ、幕府より国元で
謹慎を申し付けられる。
1854.05.13( 04.17) ペリーが箱館に行く。
1854.05.17( 04.21) 江川太郎左衛門が反射炉を築造する。
1854.05.23( 04.27) ロシア船が咸鏡道で住民を殺害する。
1854.05.25( 04.29) 京都所司代脇坂安宅が日米条約調印の次第を朝廷に報告する。
1854.05.26( 04.30) 前水戸藩主徳川斉昭が、日米和親条約締結を不満として幕政参与を辞任する。
1854.05.27( 05.01) アメリカのマクレーン公使が南京に入る。
1854.06.05( 05.10) 幕府の浦賀造船所で、西洋型帆船の鳳凰丸が竣工する
1854.06.05( 05.10) 上海に英仏米が管理する税関が設置される。
1854.06.07( 05.12)
ペリーが下田に入港する。
1854.06.14( 05.19) オーストリア・オスマン条約が調印される
1854.06.19( 05.24) 広東で天地会が蜂起する。
1854.06.20( 05.25) 幕府が、日米和親条約付録協定(下田協定)に調印する。
1854.07.11( 06.17) ペリーが琉球王府と琉米修好約条を締結する。
1854.07.20( 06.26) 反清復明、滅満興漢を旗印として、中国南部から東南アジアにわたって広く組織された秘密結社の
「天地会」が反乱を起こし、広州を包囲する。
1854.07.24( 06.30) 幕府が箱館奉行を再置する。
1854.08.02( 07.09) 幕府が、白地に日の丸の旗を日本の惣船印とすることを定める
(国旗として正しく制定されるのは1870年)。
1854.08.08( 07.15) ウィーンで、イギリス、フランス、オーストリアの3国会議が開かれ、クルミア戦争終結のための条件に
合意する。
1854.09.14( 07.22) イギリス・フランス・オスマン朝連合軍がクリミア半島に上陸する。
1854.10.14( 08.23) 幕府が日英和親条約に調印し、長崎と箱館を開港する。
1854.10.14( 08.23) 清の曾国藩の湘軍が、太平天国軍から武漢を奪取する。
1854.10.23( 09.02) 幕府がオランダに下田と箱館を開港する。
1854.11.08( 09.18) 下田で密航を企てた吉田松陰に判決が下り、国もとで謹慎という軽い処分となる。
1854.11.13( 09.23) 吉田松陰が罪人を入れる輿に入れられて江戸を発つ。
1854.12.02( 10.13) オーストリアとイギリス・フランスの間に攻守同盟が成立する。
1854.12.09( 10.20) 上海のフランス軍が小刀会を攻撃する。
1854.12.13( 10.24) 江戸から護送された吉田松陰が萩に到着して野山獄に投ぜられる
1855.01.03( 11.15) 幕府が五台場を庄内藩をはじめ5藩に警備させる。
1855.01.15(安政元年11.27) 「安政」に改元する。
1855.01.19( 12.02) ロシア軍艦ディアナ号が地震で大破したまま戸田への回航途中、一本松で沈没する。漁民が乗組員
を救助する。
1855.02.07( 12.21) 幕府が日露和親条約に調印し、下田、函館、長崎を開港する。
(日露和親条約)
1855.02.17(安政2年01.01) 清仏両軍が小刀会を制圧する
1855.03.24( 02.07) 日露通商友好条約が締結される。千島列島は日本の領土と認められる。
1855.04.08( 02.22) 幕府が、松前氏の居城附近を除く蝦夷地全体を直轄領とする。
(幕府が蝦夷地を再び直轄地に )
1855.04.18( 03.02) 香港総督ジョン・バウリングがバンコクを訪問し、イギリス・タイ友好条約(バウリング条約)を締結する。
1855.04.22( 03.06) 江戸城本丸の金庫から4000両が盗まれる。
1855.04.25( 03.09) 福澤諭吉が蘭学者緒方洪庵の蘭学塾に入門する。
1855.04.28( 03.12) イギリス軍艦3隻が函館港に入港する。
1855.05.31( 04.16) 清朝の武将の僧格林沁が太平天国の武将を捕らえ、太平天国の北伐軍を壊滅させる。
1855.07.14( 06.01) イランがフランスとの友好通商条約を調印する。
1855.07.22( 06.09) オランダ国王が、幕府に蒸気船スンビン号を贈る(後に観光丸と命名する)。
1855.08.11( 06.29) 幕府が、諸大名・旗本に洋式銃の訓練を命じる。
1855.09.10( 07.29) 長崎に海軍伝習所が設立される。
1855.09.10( 07.29) クリミア半島のロシアの要塞セヴァストーポリが、イギリス・フランス連合軍の攻撃で陥落する。
1855.10.02( 08.22) 薩摩藩が品川沖で初の国産蒸気船雲行丸の運転を試み、成功する。
1855.11.11( 10.02) 江戸の大地震、マグニチュード6.9(安政の大地震)。死亡者総数は7068人。
1855.11.11( 10.02) 蘭学者、藤田東湖が江戸の大地震で家屋の下敷になって死亡する。50歳
1855.11.**( 10.**) 堀田正睦、老中首座に就任
1855.11.24( 10.15) 琉球がフランスと和親条約を結ぶ。
1855.12.03( 10.24) 幕府が長崎で第1次海軍伝習を開始する。教官はオランダ人
1856.01.22( 12.15) 長州藩が吉田松蔭を出獄させ、蟄居させる。
1856.01.28( 12.21) 日露和親条約により下田港が開港する。
1856.01.30( 12.23) 幕府が日蘭和親条約を長崎で調印する。
1856.02.01( 12.25) ロシアが、オーストリアの最後通牒に屈して、暫定的な講和条約を飲む。
1856.02.29(安政3年01.24) フランス人宣教師オーギュスト・シャプドレーヌ(42)が、広西省で清朝の地方官憲に殺害される。
アロー戦争へのフランス参戦の口実となる。
1856.03.17( 02.11)
幕府が洋学所を蕃書調所と改称する。
1856.03.30( 02.24) パリで、イギリス、フランス、サルデーニャ、オスマン帝国の4ヵ国連合とロシアの間の戦争、
クリミア戦争を終結させるための講和条約が締結される。
1856.06.23( 05.21) 箱館奉行が、アイヌの人々に日本語の習熟など内地人との同化を強要する。
1856.07.19( 06.18) 吉田松陰が「講孟余話」を著す。
1856.08.10( 07.19) 外国貿易取調掛が設置される。
1856.08.21( 07.21) タウンゼント・ハリス(アメリカ初代総領事)が下田に到着する。通弁官ヒュースケンが同行する。
1856.09.01( 08.03) 楊秀清(Yang Xiu-qing)が、太平天国の内部抗争で北王の韋昌輝に暗殺される。46歳。
太平天国の1領袖の東王。この結果太平天国の結束は崩れていくことになる。
1856.09.03( 08.05) ハリス(米国総領事)が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
幕府に対して改めて通商条約の締結を求めてくる。
1856.09.18( 08.20) 坂本竜馬、剣術修行一ヶ年を許され高知を出発、江戸に再遊学、武市半平太(桃井塾監)、
大石弥太郎と同宿
1856.10.08( 09.10) 清国の役人が広東に停泊中のイギリス船アロー号の中国人船員12人を逮捕する(アロー号事件)。
これがきっかけでイギリスと清の間のアロー戦争が始る。
1856.10.16( 09.18) 長崎奉行が密告で浦上の隠れキリシタン15人を投獄し、信徒は獄死する(浦上三番崩れの始まり)。
1856.11.01( 10.04) イギリスがペルシャに宣戦布告する。
1856.11.04( 10.07) 雲南のムスリム蜂起の指導者の杜文秀が、スルタン・スライマンと称して王制を施行する。
1856.12.13( 11.16) ペルシャがアメリカと友好通商条約を調印する。
1856.12.16( 11.19) ボーア人が南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)を樹立する。
1857.03.04(安政4年02.09) ペルシャのカージャール朝が、パリ条約に基づいて、アフガニスタンの独立を認める。
1857.05.04( 04.11) 幕府が陸軍訓練所内に軍艦教授所(のち操練所と改称)を設ける。
1857.05.10( 04.17) インドでセボイ(イギリス軍のインド人庸兵)の反乱が起る。
(セポイの反乱)
1857.05.11( 04.18) 反乱軍インド兵がデリーを占拠し、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立する。
1857.05.17( 04.24) ペルシャがオーストリア帝国と友好通商条約を締結する。
1857.06.13( 05.22) 下田坂下町の船大工市兵衛の後妻きわの娘の吉(17)が、ハリスの看護のため駕篭に乗せられて
領事館の玉泉寺に入る。
1857.06.17( 05.26) 下田奉行の井上清直と中村時万がハリスとの間で、日米和親条約の補修条約として日米約定
(下田協約、下田条約 )を締結する。
1857.06.18( 05.27) 弥治川町の経師屋平吉の後家・津志の娘の福(15)が、ヒュースケンの世話のために領事館の
玉泉寺に入る。
1857.07.11( 05.20) フランスが、アルジェリアのカビリア地方を支配する。
1857.07.31( 06.11) 土佐藩が財政窮乏のため、藩士の俸禄を半減する。
1857.08.06( 06.17) 老中、阿部正弘が病没。39歳。アメリカへの対応に尽力した老中で福山藩主。
幕政は堀田正睦を中心に計られることとなる
1857.08.24( 07.05) アメリカで恐慌が発生する。
1857.09.01( 07.13) 松下村塾が長州藩により正式に認可される。
1857.09.11( 07.23) 幕政に不満の前水戸藩主徳川斉昭が政務参与を辞任する。
1857.09.20( 08.03) イギリス軍がデリーを奪回し、ムガル皇帝を捕虜にする。
1857.09.21( 08.04) 海軍伝習のためカッテンディーケとポンペが来日する。
1857.09.21( 08.04) プチャーチンが長崎に再来する。
1857.10.16( 08.29) 幕府が事実上初の通商条約である日蘭追加条約をオランダ商館長クルチウスと長崎で調印する。
1857.10.**( 09.**) 坂本竜馬、23歳 江戸修行期限満期になるが、一年延期を許される
1857.11.02( 09.16) 島津斉彬がオランダ製写真機で自分を撮影させる。
1857.12.02( 10.16) 福井藩主松平慶永らが、徳川慶喜を将軍に推す。
1857.12.07( 10.21) ハリスが江戸へ入り、将軍家定に謁見。アメリカ大統領ピアースの親書を提出し、
幕府に対して改めて通商条約の締結を求めてくる
1857.12.12( 10.26) イギリスとフランスの代表が、アロー号事件とシャプドレーヌ事件の賠償要求を清に提出する。
1857.12.16( 11.01) 幕府がアメリカ大統領の親書とハリスの口上書の写しを示して諸大名の意見を聞く。
1857.12.28( 11.13) 英仏連合軍が、広州を攻撃する。
1857.12.29( 11.14) 英仏連合軍が広州を占領する。
1858.01.05( 11.21) 英仏連合軍が広東に軍政を施行する。
1858.01.14( 11.30) フランス皇帝ナポレオン3世夫妻がオペラ座に向かう途中の馬車に、イタリア人愛国者の
フェリーチェ・オルシーニが爆弾を投げつける。皇帝夫妻は無事だが170人の死傷者がでる。
1858.01.15( 12.01) 釜石高炉の操業が開始される。
1858.02.12( 12.29) 長崎奉行が明春執行予定の踏み絵の中止を命じる。
1858.02.**(安政5年01.**) 坂本竜馬、24歳 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法」を授かる。
1858.02.18( 01.05) 幕府が、日米修好通商条約に勅許を得るため、調印の2ヵ月延期をハリスに求める。
1858.02.18( 01.05) ナポレオン3世が治安維持法を制定する。
1858.02.24( 01.11) 井伊直弼が、腹心の長野義言を京都に送り込んで関白九条尚忠に外交事情を説明させようとする。
1858.03.04( 01.09) ペリー(Perry,Matthew Calbraith)没。63歳。浦賀に来航したアメリカの提督。
1858.03.21( 02.07)
イギリス軍が、インド反乱の中心のアウド州の州都ラクナウを陥落させる。
1858.03.23( 02.09) 老中堀田正睦が参内し、日米修好通商条約の草案を提出して勅許の奏請を図る。
1858.04.06( 02.23) 堀田正睦の日米修好通商条約の草案に対し、朝廷が事実上の拒否の勅諚をだす。
1858.04.24( 03.11) 英米仏露の4国代表団が、清国に対して、6日間の期限つきで紛争処理交渉開始の要求書を
通達する
1858.05.03( 03.20) 朝廷が、条約の勅許を拒否する。
1858.05.20( 04.08) 英仏軍が天津に入る。
1858.05.28( 04.16) ロシアと清朝の間でアイグン条約が結ばれる。黒竜江が国境となる。
1858.06.04( 04.23) 彦根藩主の井伊掃部頭直弼が大老に就任する。
(井伊直弼が大老となる)
1858.06.13( 05.03) 清がロシアと天津条約を締結する。
1858.06.17( 05.07) 江戸の医者の伊東玄朴らが日本で初めての天然痘予防接種の治療所を神田お玉ケ池に
開設する。
1858.06.18( 05.08) 清がアメリカと天津条約を締結する。
1858.06.26( 05.16) 清がイギリスと天津条約を締結する。
1858.06.27( 05.17) 清がフランスと天津条約を締結する。
1858.07.23( 06.13) イギリスで、ユダヤ人民権欠除法が廃止され、ユダヤ人の議席獲得が認められる。
1858.07.27( 06.17) タウンゼント・ハリスが幕府に対して開国をせまる。
「清国において、英仏連合軍がアロー戦争に勝利しましたよ」
と報告し、
(だから、友好的なアメリカと通商を結びましょう)と脅しのような圧力をかける。
1858.07.29( 06.19) 幕府が、朝廷の許可を得ないままで日米修好通商条約に調印する。
(日米修好通商条約の締結)
1858.07.31( 06.21) 老中堀田正睦・松平忠固が外交処置不行き届きの責任で免職となる。
1858.08.02( 06.23) インド統治法により、イギリス東インド会社によるインド支配が終了する。
以後イギリス政府による直接支配となり、ムガル朝が名実ともに滅亡する。
1858.08.03( 06.24) 水戸藩主徳川斉昭が突然登城し、条約調印に関して井伊直弼に直断判する。
1858.08.04( 06.25) 幕府は井伊大老のもと、将軍家定の後継として13歳の紀伊藩主徳川慶福(後の家茂)と発表する。
1858.08.13( 07.05) 水戸藩主徳川斉昭が、定められた日以外に登城(6月24日の登城)したとして謹慎処分となる。
(安政の大獄が始まり)
1858.08.**( 07.**) 徳川斉昭、一橋慶喜、松平春獄らに将軍の命と称し、永蟄居などの処分が下される。
1858.08.14( 07.06) 13代将軍、徳川家定、没。35歳。
1858.08.18( 07.10) 幕府が、日蘭修好通商条約・貿易章程に調印する。
1858.08.19( 07.11) 幕府が、日露修好通商条約・貿易章程に調印する。
1858.08.26( 07.18) 幕府が、日英修好通商条約・貿易章程に調印する。
1858.08.31( 07.23) フランス・スペイン連合艦隊が、ベトナムのダナンを砲撃する。
1858.09.01( 07.24) フランス艦隊が、アンナンの要地ツーランを攻撃し、占拠する。
1858.09.11( 08.05) 朝廷が勅書を発し、幕府が朝廷をないがしろにしたとして幕府を非難する。
1858.09.14( 08.08) 孝明天皇が、条約の無断調印と徳川斉昭らの処罰に対する不満の勅諚を水戸藩に下す。
水戸藩へ幕政を詰問する密勅が下される。(戊午の密勅)。
1858.10.09( 09.03) 幕府が、日仏修好通商条約・貿易章程に調印する。
1858.10.10( 09.04) 坂本竜馬 江戸修行満期により土佐に帰国
1858.10.15( 09.09) 水戸藩士関鉄之介のもとに、水戸藩主徳川斉昭が謹慎処分になった旨の知らせが届く。
1858.11.01( 09.26)
ヴィクトリア女王が、インドを統治することを宣言する。ムガル帝国が滅亡する。
(ムガール帝国滅亡)
1858.11.08( 10.03) 上海で、清が英米両国と関税税率協定に調印する。
1858.11.12( 10.07) 水戸藩士関鉄之介らが井伊直弼を攻めるため西行を開始する。
1858.12.20( 11.16) 月照が入水し死亡する。46歳。一緒に入水した西郷隆盛は救出され、のち奄美大島に潜伏する。
1859.01.04( 12.01) 僅か13歳の徳川家茂(慶福)が第14代の征夷大将軍に任ぜられる。
1859.01.08( 12.05) 長州藩が吉田松陰を投獄する。
1859.01.**( 12.**) この頃、幕府が攘夷反幕の公卿を処分
1859.02.02( 12.30) 老中間部詮勝(まなべあきかつ)が参内し、条約調印事情了解の勅諚を受ける。
1859.02.17(安政6年01.15) フランス・スペイン連合軍がサイゴンを占領する。
1859.02.18( 01.16) 14隻のフランス艦隊がサイゴンに上陸し、グエン朝軍を破ってサイゴンを占領する。
1859.04.11( 03.09) 土方歳三が天然理心流3代目近藤周助に入門する。
1859.04.25( 03.23) スエズ運河会社が、オスマン朝皇帝の正式許可が下りないままスエズ運河の建設に踏み切り、
起工式を行ってレセップスが建設の開始を宣言する。
1859.04.28( 03.26) オーストリア帝国がサルディーニャ王国に宣戦布告する。
1859.04.29( 03.27) オーストリア軍がピエモンテに侵入し、イタリア統一戦争が始まる。
1859.05.12( 04.10) ナポレオン3世がジェノヴァに到着し、フランス兵12万がイタリア兵と合流する。
1859.05.23( 04.21) 清朝が、ロシア船のウスリー川の航行阻止を命令する。
1859.05.24( 04.22) ロシア船が清朝の命令を無視してウスリー川を航行する。
1859.06.24( 05.24) イタリア・フランス同盟軍がソルフェリノで決戦を行い、オーストリア軍を退却させる。
1859.06.25( 05.25) タイクー砲撃事件(英仏連合軍被害)
1859.06.26( 05.26) イギリス人、オールコック品川到着(和暦6月4日、東禅寺に)
1859.06.27( 05.27) ハリス、幕府に弁理公使昇進を通告
1859.06.28( 05.28) 幕府が、条約を締結した5ヵ国に長崎、箱館、横浜で自由貿易を許可する。
1859.07.01( 06.02) 横浜港が開港する。
1859.07.11( 06.12) ヴラフランカでナポレオン3世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が単独講和を結び、
イタリア独立戦争が終る。
1859.06.25( 05.25) タイクー砲撃事件(英仏連合軍被害)
1859.06.26( 05.26) イギリス人、オールコック品川到着
1859.06.27( 05.27) ハリス、幕府に弁理公使昇進を通告
1859.06.28( 05.28) 幕府布告を発し、3港(長崎、箱館、横浜)における自由貿易を許可
1859.07.03( 06.04) 英国総領事オールコック、高輪の東禅寺(イギリス総領事館)に着任
1859.08.16( 07.18) 米清条約が批准される。
1859.08.18( 07.20) ロシア使節ムラビヨフ、軍艦6隻を率いて品川に到着
1859.08.25( 07.27) ロシア軍艦乗組員2名殺害、1名傷害事件・横浜
1859.10.18( 09.23) アメリカ人宣教師ヘボン夫妻が来日する。
1859.10.22( 09.27) 幕府が、直轄地を縮小して会津など東北6藩に分与し、警備・開拓にあたらせる
1859.11.01( 10.07) 幕府が、福井藩士橋本左内(26)らその他多くの者に処罰を申し渡す(安政の大獄、第2次断罪)。
1859.11.05( 10.11) 神奈川フランス領事館雇用清国人の殺傷事件発生
1859.11.21( 10.27) 吉田松陰が斬罪に処せられる。30歳。長州藩士で尊攘派の志士。
その他多くの者が処罰される(安政の大獄第3次断罪)。
1859.12.05( 11.12) 藩命で水戸藩士関鉄之介が蟄居を命じられる。
1859.12.12( 11.19) 小林良典が獄中死する。54歳。公家家臣で、安政の大獄で投獄されていた。
1859.12.23( 11.30) 水戸藩士関鉄之介が水戸を脱出して井伊暗殺のため江戸に潜伏する。
1860.01.23(安政7年01.01) フランスとイギリスの間で、通商条約(コブデン条約)が調印される。
1860.01.24( 01.02) イタリア船が初めて横浜に来航する。
1860.01.29( 01.07) イギリス総領事館通訳、伝吉殺害事件発生
1860.02.04( 01.13) 幕府の小栗忠順らが日米修好通商条約批准のため、遣米使節としてアメリカへ向け出航。
尚、勝麟太郎(海舟)、福澤諭吉ら随行艦咸臨丸で品川を出航。(18日説、19日説あり)。
1860.02.21( 01.30) オールコック公使昇進を幕府に通告
1860.02.26( 02.05) オランダ人フォス・デッカー殺害事件発生(横浜)オランダ人1名、イギリス人1名が横浜で殺害される。
1860.03.18( 02.26) 咸臨丸がサンフランシスコに入港する。
1860.03.22( 03.01) 日本橋で水戸藩士らが会合し、井伊大老襲撃の策を練る。
1860.03.23( 03.02) 水戸藩士関鉄之介が井伊襲撃を前に、京橋で遊女と過ごす。
1860.03.24( 03.03) 大老、井伊直弼が、江戸城桜田門外で関鉄之介を首班とする18人の水戸・薩摩浪士に暗殺される。
46歳。(桜田門外の変)
1860.04.08(万延元年03.18) 「萬延」に改元する。
1860.05.09( 03.19) 幕府が、神奈川開港場の貿易を制定する。
1860.05.19( 03.19) 五品江戸廻送令
1860.06.15( 04.26) 幕府遣米使節が、列車でパナマ地峡を横断する。日本人初の鉄道利用となる。
1860.06.23( 05.05) 福澤諭吉らを乗せた咸臨丸がアメリカから帰国する。
1860.06.20( 05.02) 幕府、今後、洋銀の時価通用を通告
1860.07.09( 05.21) シリアのダマスクスで、キリスト教徒の虐殺事件が発生する。
1860.08.18( 07.02) 太平天国軍が上海を攻撃するが、英仏軍に敗れる。
1860.08.21( 07.05) 英仏連合軍が清の大沽砲台を占領する。
1860.09.11( 07.26) イギリス公使オールコックが、外国人として初めて富士山頂に登る。
1860.09.18( 08.04) 清軍が英使を拘束する。
1860.09.29( 08.15) 水戸藩主徳川斉昭(烈公)没。61歳。
1860.10.13( 08.29) 英仏連合軍が北京に入城する。
1860.10.17( 09.04) 幕府が、一橋慶喜、尾張の慶勝、山内豊信らの謹慎を解除する。
1860.10.18( 09.05) 北京のイギリス軍が、離宮円明園に放火し、焼失させる。
1860.10.24( 09.11) 清朝とイギリスの間に北京条約が調印される。イギリス領香港の誕生の糸口となる。
1860.10.25( 09.12) 清朝とフランスの間に北京条約が調印される。
1860.10.30( 09.17) イタリア人ナタール(フランス領事館雇用)傷害事件
1860.11.04( 09.22) 清朝とロシアが北京条約を締結する。
1860.11.06( 09.24) アメリカ、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選する。
1860.11.10( 09.28) イギリス公使オールコック、英仏連合軍の北京攻略を幕府に報ずる。(←脅し)
1860.11.14( 10.02) 清朝とロシアとの間に条約が締結される。
1860.12.12( 11.01) 皇妹和宮、将軍徳川家茂への降嫁の勅許下る。
1860.12.29( 11.18) 幕府がプロシアと仮契約を締結する。
1861.01.02( 11.22) ドイツで、ヴィルヘルム2世が即位する。
1861.01.15( 12.05) アメリカ公使館通訳ヒュースケン殺害事件発生
(犯人は浪士清河八郎、薩摩藩士伊牟田尚平らとみられる。)
アメリカ通弁官ヒュースケン(Heusken,Henry)が、赤羽根接遇所より麻布善福寺の公使館へ帰る途中、
数人の武士に襲われ斬殺される。28歳。
1861.01.26( 12.16) 英・仏両国公使、外国人保護の不備を理由に横浜へ退去
1861.02.04( 12.25) アメリカ、1月に連盟を脱退した南部諸州がアメリカ連合を結成する。
1861.02.08( 12.29) アメリカ、南部諸州よりなるアメリカ連邦が、臨時大統領にミシシッピ州のジェファソン・デービスを
選出する。
1861.03.02(万延2年01.21) 英仏両国公使、横浜から江戸に帰任
1861.03.04( 01.23) リンカーンがアメリカ大統領に就任する
1861.03.13( 02.03) ロシアの戦艦ポサドニックが対馬に来航する。
1861.03.29(文久元年02.19) 「文久」に改元する。
1861.04.12( 03.03) アメリカ、南軍がサムスター要塞を攻撃し、南北戦争が始る。
(米、南北戦争)
1861.05.02( 03.23) 将軍家茂が、仏・蘭・米・英・露5ヶ国に、江戸・大坂と兵庫・新潟の開市・開港7年延期を要請する。
幕府が攘夷派を恐れたため。
1861.05.13( 04.04) イギリスが、アメリカの南北戦争に中立を宣言する。
1861.06.27( 05.20) 清河八郎が甚左衛門町にさしかかったとき、職人風の男にまつわりつかれ、これを無礼討ちする。
このため清河は逃避行をすることになる。
1861.06.29( 05.22) 幕府が虎尾の会の首魁の清河八郎の捕縛にのりだし、庄内藩留守居役黒川一郎が北町奉行に
捕縛の命令を受ける。
1861.06.30( 05.23) 南町奉行所と庄内藩が清河塾とその関係者を捕縛する。清河八郎の妻お蓮は庄内藩により縄を
かけられ、小伝馬町の牢に入れられる。
1861.07.05( 05.28) 水戸浪士、高輪東善寺のイギリス公使館を襲撃書記官らに傷を負わせる(第1次東禅寺事件)
1861.07.21( 06.14) 南北戦争。ヴァージニア州のブル・ラン川の戦いで、北軍が南軍に惨敗する。
1861.08.05( 06.29) アメリカ連邦が、陸海軍の資金調達のため、初めて所得税を設ける。
1861.09.02( 07.28) 清が、プロシアと天津通商条約に調印する。
1861.09.**( 08.**) 土佐藩士、武市半平太「土佐勤王党」を結成
。
1861.09.20( 08.16) 幕府が長崎に養生所と医学所を設立する。
1861.09.24( 08.20) 日本がロシアと国境確定交渉を行う。
1861.10.01( 08.27) 近藤勇が、天然理心流4代目を襲名する。
1861.10.**( 09.末) 土佐勤王党血盟者192名、坂本竜馬9番目に血判加盟する。
1861.10.31( 09.28) イギリス、フランス、スペインの3ヵ国が、メキシコが対外債務とその利子の支払を停止したことに対し、
メキシコに共同干渉することをロンドンでとり決める。
1861.11.02( 09.30) 清で、西大后がクーデターで実権を掌握する。
1861.11.08( 10.06) 北軍が、イギリス船トレント号に乗船中の南軍使節を逮捕する。この結果一時英米関係が悪化する。
1861.11.**( 10.**) 坂本竜馬、日根野弁治より「小栗流三ヵ条」を伝授される
1861.11.11( 10.09) 清の西皇后(26)が実子の載淳を第10代皇帝の同治帝として即位させる。
1861.11.22( 10.20) 将軍家茂との結婚のため皇女和宮が京都を出発する。
1861.12.14( 11.13) 幕府がヒュースケン事件に1万ドルを支払う。
1861.12.16( 11.15) 将軍家茂との結婚のため10月20日京都を発った和宮が江戸に到着する。
1861.12.26( 11.25) スワードが南部使節の釈放に応じる。英米開戦の危機が回避される。
主に参照・参考にした年表:
・歴史データベースon the Web
http://macao.softvision.co.jp/dbpwww/index.html
・『一外交官の見た明治維新』下巻アーネスト・サトウ著 坂田精一 訳(岩波文庫)の巻末年表
・幕末年表http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/
・竜馬の遺伝子http://members.jcom.home.ne.jp/ryoumadna/index.htm
他、多数。
※ 幕末から明治維新までの年表の多くは、旧暦(和暦)で表示されているものが多く、閏(うるう)月など、
複雑?で不明な場合が多くあります。新暦(西暦)に引き直して並列表記してますが、正確さは保証できません。
※ 資料年表によって、日付が異なる場合もあり、こちらの判断で表記したものがあります。間違いも多々あると思います。