幕末〜明治維新/歴史年表(其の四) 1868年始〜1870年末まで
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1968.01.01( 12.07) 兵庫開港、大坂開市
天満屋で、新撰組が海援隊と乱闘になる
1868.01.02( 12.08) 朝議、三条実美ら五卿の復官、入京を許し、岩倉具視らの蟄居宥免を決定。
この夜、岩倉具視王政復古断行の機密事項を雄藩の諸士に授け、協力を依頼。
1868.01.03( 12.09) 天皇、王政復古を宣し、小御所会議にて従来の官職を廃して総裁、議定、参与の三職を
設置を布告(王政復古の大号令)
1868.01.04( 12.10) 徳川慶勝と松平慶永、二条城に至り、徳川慶喜に辞官、納地の勅旨を伝える
1868.01.06( 12.12) 王政復古の大号令から3日、元将軍徳川慶喜が混乱の中、兵をなだめ、ひとまず大坂へ向かう。
京都守護職を辞職させられた松平容保と弟定敬が従う。京都より大坂に下る
(徳川慶喜は反発する幕軍の暴発を避ける)
西郷隆盛が新政府参与職となる
1868.01.08( 12.14) 徳川慶喜、大坂城でフランス公使ロッシュ、イギリス公使パークスと会見。下坂の事情を告げる。
01.10( 12.16) 慶喜、大坂城で6カ国、英・仏・米・伊・普の諸公使およびオランダ総領事と会見
外国交際の責任が当方にあることを宣言し、国際的地位を高めようとする
1868.01.12( 12.18) 勝海舟が、老中稲葉正邦へ非戦を主張する意見書を提出する。
1868.01.12( 12.18) 近藤勇が二条城の軍議に参加して伏見奉行所に帰る途中、かつての新撰組隊士(高台寺党)に
狙撃される。
1868.01.15( 12.21) イギリス公使、大坂城で徳川慶喜と会見
1868.01.17( 12.23) 新政府が軍資金調達のために金穀出納所を設立し、三井が為替方となる
江戸城二の丸、焼失(庄内藩巡邏兵屯所への襲撃発砲事件と併せて薩摩藩が関わっていると判断される)
1868.01.18( 12.24) 老中稲葉正邦を中心とする幕閣会議が、前日の庄内藩巡邏兵屯所への襲撃などに対して、
薩摩藩砲撃の決断を下す。
1868.01.19( 12.25) 薩摩藩邸焼打ち事件。小栗上野介の命により、庄内藩兵、松山藩兵約千名を主力部隊とし、
これに鯖江、上ノ山藩などの兵千名を加えた部隊が、三田の薩摩藩の江戸屋敷を襲撃して焼払う。
勤王派に佐幕派討伐の口実を与えたことになり、薩長の執行が歓喜する。
旧幕府、不穏浪士掃蕩のため、庄内藩が江戸三田の薩摩藩邸とその支藩、佐土原藩邸を焼き打する。
1868.01.21( 12.27) 三条実美ら五卿、入京し参内
1868.01.22( 12.28) 薩摩藩邸焼打ち事件の報が大坂城に届く。会津、桑名の藩兵の興奮が強まり、慶喜の力ではもはや
抑え切れないところまでくる。在大坂の旧幕府麾下士および会津・桑名の藩兵、薩摩藩邸焼打ちの
報に激発されて討薩摩を主張。慶喜これに押されて、率兵上京を決意。
1868.01.26(慶応4年01.02) 薩摩藩邸焼打ちに興奮した会津桑名藩兵を主力とした1万5千の旧幕軍が討幕論に傾き京に向かう。
1868.01.27( 01.03) 幕府老中酒井忠淳各国代表に対し、軍艦兵器を薩摩藩に売らないことを要請する
政府軍と旧幕府軍が鳥羽・伏見で衝突し、戊辰戦争の幕が切って落とされる。 (戊辰戦争勃発)
1868.01.29( 01.05) 薩長軍が、錦旗を擁する官軍となる。
1868.01.30( 01.06) 鳥羽・伏見の戦い4日目、淀藩、津藩が寝返り、幕府軍の士気は一挙に低下する
この夜、慶喜大坂城を退去。軍艦開陽丸で江戸へ向かう
徳川慶喜はひそかに大坂城を脱出して江戸へ逃れ、鳥羽・伏見の戦いは新政府側の勝利となる。
1868.01.31( 01.07) 慶喜の逃亡を知った幕府軍の将兵が大坂城を捨てて逃亡する。新政府が徳川慶喜追討令を出す。
1868.02.02( 01.09) 外国事務総裁・外国事務取調掛を設立(総裁、嘉彰親王)
この頃、江戸城内の幕府評定は恭順に決定。徳川慶喜は小栗忠順を罷免し、
勝海舟を海軍奉行並、陸軍総裁に任命し、事態の収拾を一任する。
フランス軍事顧問団、勝海舟を訪れ、徹底抗戦を主張も受け入れられず。
1868.02.03( 01.10) 薩長倒幕軍が徳川慶喜、松平容保、松平定敬らの官位を剥奪し、会津藩、桑名藩の京都藩邸を
没収する
1868.02.04( 01.11) 備前藩兵、神戸で外国人と争闘(備前事件、神戸事件)
1868.02.04( 01.11) 幕府軍艦開陽が徳川慶喜を乗せて品川に戻る。
1868.02.05( 01.12) 新撰組が軍艦富士山丸で江戸に向かう。
1868.02.08( 01.15) 軍艦富士山丸で江戸にむかった新撰組が品川に上陸する。
1868.02.08( 01.15) 江戸城大広間で抗戦論を主張した小栗上野介忠順が徳川慶喜の怒りにふれて勘定奉行と
陸軍奉行の職を解かれる。
1868.02.08( 01.15) 勅使東久世通禧が各国代表と会見、王政復古を報じ国書を交付。新政府、最初の公式外交会談。
同日、外国交際を万国公法によりおこなう旨を布告
1868.02.10( 01.17) 新しい官制が定められ、有栖川宮熾仁(ありすのみやたるひと)親王を総裁とする新政府の体制が
整備される。
1868.02.10( 01.17) 勝海舟が、海軍奉行並を命ぜられる。
1868.02.10( 01.17) 朝廷が仙台藩主伊達慶邦に対して、独力で会津藩を追討せよとの命令が下る。
1868.02.10( 01.17) 三職分科制により外国事務総督及び外国事務掛を設置(総督、晃親王)
新政府、外国との和親を布告
1868.02.12( 01.19) フランス公使ロッシュ、江戸城に慶喜を訪問し、再挙兵を勧告。
慶喜、これを拒否。
1868.02.13( 01.20) 新政府、幕府締結の条約遵守確認を各国に通告
1868.02.14( 01.21) 新政府、徳川慶喜征討を理由として各国に局外中立を要請
1868.02.16( 01.23) 大久保一蔵の大坂遷都建白書の提出により新政府の廟議(朝廷の評議)で遷都が討議される。
1868.02.18( 01.25) 英・仏・米・蘭・伊・普の六カ国使臣、局外中立を布告
1868.02.19( 01.26) 京都で、赤報隊が金品を掠奪し勝手に進路を変えているとの噂が流され、赤報隊のうち、四日市にいた
滋野井卿の一隊が処分され、8名が死ぬ。
1868.02.20( 01.27) 約1万5000の旧幕軍が薩摩・長州・土佐の約4000の新政府軍と鳥羽・伏見で戦い敗退する
1868.02.25( 02.03) 外国事務掛を外国事務局と改める(外国事務局督・晃親王)
1868.02.27( 02.05) 徳川慶喜が、松平慶永に書簡を送り、恭順の態度を表明する。
1868.02.28( 02.06) 赤報隊が諏訪の本陣に入る。赤報隊は既に「偽官軍」の濡れ衣を着せられていた。
1868.03.01( 02.08) 新政府が松平容保、定敬らに登城を禁じ、江戸からの立ち退きを命じる。
1868.03.02( 02.09) 備前事件の責任者、滝善三郎が神戸永福寺でアメリカ人の目の前で作法通りに切腹。
1868.03.04( 02.11) 仙台藩が朝廷に、徳川慶喜の処置を諸藩の議論に委ねられたいとする建白書を提出する。
1868.03.05( 02.12) 徳川慶喜が勝海舟に説得され、恭順の実をあげるため江戸城を去り、上野寛永寺に謹慎することになる
1868.03.06( 02.13) 徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居する。諸藩はそれぞれ国許に引きあげ、天下の形成を静観しようという
方向になる。
1868.03.08( 02.15) 土佐藩の兵士20名、堺港でフランス軍艦デュプレクス号から上陸しようとする
フランスの水兵11名を殺傷(堺事件)
1868.03.08( 02.15) 庄内藩家老松平権十郎が、近日中に江戸を退去して国許へ戻ることを届け出る。
1868.03.09( 02.16) 松平容保と会津藩士が江戸を出発して会津に向かう
1868.03.10( 02.17) 政府、各国代表の参内を布告、同時に外国和親に関する諭告を示す
1868.03.12( 02.19) フランス公使、堺事件に対する要求5ヶ条を提示、政府03.15(02.22)応諾
1868.03.16( 02.23) 新政府の機関誌「太政官日誌」が創刊される。
1868.03.16( 02.23) フランス水兵殺害の土佐藩士を処刑(堺港、妙国寺で11名切腹)
1868.03.19( 02.26) 左大臣九条道孝が奥羽鎮撫総督に任命され、奥羽鎮撫総督軍が編成される。
1868.03.19( 02.26) 新徴組一番組分部宗右衛門以下組士・家族80人と、二番組山口三郎以下沖田林太郎ら組士・
家族85人の、総勢165人と人足100人が大挙して庄内鶴岡に向かって江戸を離れる。
1868.03.20( 02.27) 会津に着いた松平容保が藩士一同に対して、会津征討令が出た上は全藩一致して当たるよう述べる。
1868.03.20( 02.27) 新徴組三番組、四番組が鶴岡に向かって江戸を離れる。
1868.03.21( 02.28) 近藤勇が甲州に向かう前に、病の重くなった沖田総司を見舞う。
1863.03.23( 02.30) フランス公使ロッシュとオランダ代理公使ポルスブルックを紫宸殿において天皇に謁見。
イギリス公使パークス、参内の途中、四条縄手で刺客に襲われ謁見できず。
1868.03.24( 03.01) 近藤勇が土方歳三とともに甲陽鎮撫隊を組織して甲州へ出発する。
1868.03.24( 03.01) 奥羽鎮撫総督として九条道孝、副総督に沢為量と醍醐忠敬が正式に任命される。
1868.03.24( 03.01) 新徴組五番組、六番組が鶴岡に向かって江戸を離れる。
1868.03.25( 03.02) 徳川慶喜が明治天皇に謁見を許されて宮城の門をくぐる。
1868.03.26( 03.03) 偽官軍の汚名を着せて、新政府は相良総三以下8名を斬首、計54人の赤報隊を処分してしまう。
政府の方針が変って年貢半減ができなくなったため、官軍の先駆けとして年貢半減をふれまわっていた
赤報隊が邪魔になったためといわれる。
(年貢半減の勅定のもと相楽総三ら赤報隊は官軍先遣隊として、信州に進出するが、
新たな民衆運動の萌芽を危惧する官軍総督府は偽官軍の汚名を着せて、彼らを捕殺する。)
1868.03.26( 03.03) 天皇、イギリス公使パークスを紫宸殿に引見
1868.03.27( 03.04) イギリス公使襲撃の三枝蓊、林田衛太郎を梟首に。徒党3名を遠島に処する。
1868.03.___( 03.___) フランス軍事顧問団、局外中立のもと、江戸から横浜へ転居する。
1868.04.01( 03.09) 天皇、三職への蝦夷地開拓を諮詢
1868.04.02( 03.10) 会津藩が、長沼流兵法を捨てて洋式訓練を行う新軍制に切り換える
1868.04.05( 03.13) 大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝海舟が、江戸城開城について会見する
旧幕府陸軍総裁、勝義邦(海舟)、大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)と芝、田町の薩摩藩邸に
会見して衷情を述べる。西郷、進撃を一時停止。(江戸無血開城合意)
1868.04.06( 03.14) 天皇、五箇条の御誓文を宣する(五箇条の誓文発布)
1868.04.07( 03.15) 川路聖謨(としあきら)がピストル自殺する。68歳。幕府臣で勘定奉行兼海防掛をつとめ国防に活躍した。
1868.04.07( 03.15) キリスト教禁制、および、外国人に対する暴行禁止を布告
1868.04.10( 03.18) エチオピアの皇帝テオドロス2世の軍が、イギリス・インド軍に敗れる。
1868.04.13( 03.21) 明治天皇が大坂に行幸のため京都を進発。
(大坂遷都否決にともなう折衷案と言われるが、天皇と新政府のPRに絶大な効果があった)。
1868.04.15( 03.23) 対馬藩主宗義達を朝鮮通交事務取扱とする
1868.04.15( 03.23) 奥羽鎮撫総督の九条道孝が、仙台藩に会津討伐を命じる。
1868.04.20( 03.28) 神仏分離令が出る。宗教界は大混乱になる。
1868.04.23( 04.01) 福澤諭吉が、塾を鉄砲洲から芝新銭座に移し「慶應義塾」と命名する(命名は4月3日)。
月に金2分の授業料制度を設ける。
1868.04.25( 04.03) 近藤勇が流山で官軍に捕らえられる。
1868.04.27( 04.05) 長崎裁判所、在留外国人雇用の清国人の日本人に対する犯罪は、国内法をもって処すると決定
1868.05.02( 04.10) 会津・庄内両藩同盟が成立する。
1868.05.03( 04.11) 江戸城無血開城。徳川慶喜は水戸へ向かう。
1868.05.03( 04.11) 慶喜、江戸を発して水戸に向かう。官軍江戸城を接収(江戸開城)
1868.05.06( 04.14) 会津藩の抵抗頑強の報に、援兵出動を諸藩に命令
1868.05.12( 04.20) 神奈川裁判所、旧幕府神奈川奉行の外交事務を接収
在長崎各国領事、キリスト教徒弾圧に抗議
1868.05.17( 04.25) 新撰組局長近藤勇が江戸板橋で斬罪梟首の苛酷な刑に処せられる。35歳。首は京都に運ばれ、
三条河原にさらされる。
板橋に葬られた胴体は、後に遺族が掘出して改めて三鷹市大沢の龍源寺にてあつく葬られる。
1868.05.17( 04.25) 日本人120余人が、契約移民としてハワイに渡る。
1868.05.22( 閏04.01) 天皇、大坂東本願寺に行幸し、イギリス公使パークスとケッペル提督らを引見
パークス信任状を奉呈(明治政府承認の最初)
1868.05.24( 閏04.03) 三条実美、岩倉具視、晃親王(山階宮)ら、イギリス公使パークスと大坂東本願寺に会見。
新潟の開港延期とキリスト教禁制の件で論議
アメリカ、プロシア両公使、キリスト教禁制に抗議
1868.05.25( 閏04.04) 政府、改めてキリスト教禁制を布告
1868.05.27( 閏04.06) 小栗忠順(上野介)が岩倉具定の手の者によって上州権田村水沼河原で斬首処刑される。42歳。
1868.05.29( 閏04.08) 慶喜の恭順により、天皇京都に還幸
1868.06.03( 閏04.13) 大総督府、戦傷士卒治療のため医官ウイリスを雇う
1868.06.07( 閏04.17) 浦上村の天主教徒4千余人を34藩預とする旨通達
1868.06.10( 閏04.20) 奥羽鎮撫の参謀世良修蔵の密書が仙台藩に渡り、世良は金沢屋で遊女と寝ているところを仙台藩の
強硬派によって捕らえられ、春川の河原で斬首される。
1868.06.11( 閏04.21) 官制を改定して、議政、行政、神祇、会計、軍務、外国、刑法の七官を太政官に置き、
立法、行政、司法の三権分掌(岩倉具視、三条実美らの議政官が設置)
外国事務局を外国官と改称(外国官知事・伊達宗城)
1868.06.13( 閏04.23) 新政府、東久世通禧(みちとみ)、英・仏・米・蘭・伊・普各国使臣に局外中立の解除を要求
1868.06.19( 閏04.29) 田安家家主徳川慶頼の子家達(いえさと、亀之助)、宗家徳川氏の後継者となる
1868.06.20( 05.01) 新政府軍が白河城を奪う
1868.06.22( 05.03) 奥羽25藩の代表が盟約書に調印し、奥羽列藩同盟が成立。奥州諸藩、官軍に抗して同盟
(奥羽越列藩同盟)
1868.06.25( 05.06) 東久世通禧神奈川裁判所総督、江戸運上所において幕府から11カ国条約書を受領する
1868.06.25( 05.06) 奥羽列藩同盟に長岡、新発田、村上、村松、三日市、黒川の北陸6藩が加わって奥羽越列藩同盟となる。
1868.06.29( 05.10) 長岡・小千谷間の榎峠で長岡藩軍と東山総督府軍の戦いが始る
1868.07.04( 05.15) 江戸の長州藩大村益次郎率いる官軍、上野東叡山の彰義隊を攻撃、壊滅する(上野戦争)
福澤諭吉は砲声を耳にしつつも塾生に対してウェーランド経済書を講義し続ける。
新製の紙幣(拾両、五両、壱両、壱分、壱朱の五種)を発行
1868.07.07( 05.18)
新政府、各国代表に外国人の新潟通行禁止を要請
1868.07.08( 05.19) 新政府軍と長岡藩の戦闘で、戦火のため城下の2500戸が焼失する(長岡戦争)。
1868.07.10( 05.21) 新政府、天主教徒(キリスト教徒)100余名の山口、福山、津和野3藩分預を命令
1868.07.13( 05.24) 徳川家達(亀之助)を府中(駿河)に移封、70万石を給する
1868.07.15( 05.26) 奥州列藩同盟軍が、白河城奪還の攻撃を再開する。7月中旬まで続けられるが失敗する。
1868.07.17( 05.28) 上野戦争を避けて身をひそめていた上野輪王寺宮公現法親王が旧幕府軍艦で江戸を脱出して
平潟に到着する。
1868.07.17( 05.28) 浦上村天主教徒処分に関する各国領事の抗議に対し、国法により処断の旨を回答
1868.07.19( 05.30) 沖田総司が老咳(結核)のため没。25歳
1868.07.21( 06.02) 輪王寺宮が会津に入る。
1868.07.___( 06.___) フランス公使ロッシュ、離日。
1868.07.28( 06.09) 清が、アメリカと天津条約追加協定を結ぶ
1868.08.06( 06.18) 大坂を大阪と改称する。
1868.08.15( 06.27) 新政府軍が泉城を落とす。
1868.08.17( 06.29) 新政府軍が湯長谷城を落とす。
1868.08.17( 06.29) 会津を立った輪王寺宮が米沢を経て白石に到着
1868.08.28( 07.11) 奥羽越列藩同盟を脱退した久保田藩が、本庄藩とともに庄内(鶴岡)藩征討にのりだす。
1868.08.29( 07.12) 白石城内で列藩会議が開かれ、輪王寺宮が名実ともに列藩の盟主となる。
1868.08.29( 07.12) 新庄藩が庄内藩征討にまわる。
1868.08.30( 07.13)
輪王寺宮が白石城に入り、奥羽諸藩の軍事総督となる。元老中の板倉、小笠原が招かれて
参謀となる。
1868.08.31( 07.14) 磐城平藩が政府軍に降伏する。
1868.09.01( 07.15) 大阪を開港(開市場を開港場と改める)
1868.09.03( 07.17) 江戸を東京と改称(最初は東亰<とうけい>と表記)
1868.09.**( 07.**) 新政府、フランス軍事顧問団存続不可を決定。
1868.09.10( 07.24) 長岡藩士河井継之助の奇策で長岡藩兵が新政府軍から長岡城を奪還する。
1868.09.10( 07.24) 新発田の太夫浜に新政府軍が上陸する。新発田藩の先導により新潟港攻略。
(新発田藩は新政府軍に密かに通じていた。)
1868.09.11( 07.25) 河井継之助が新町口で新政府軍の銃弾に当たって重傷を負う。
1868.09.12( 07.26) 江戸城を開け渡して水戸に謹慎していた徳川慶喜が駿河に移る。
1868.09.12( 07.26) 三春藩が、政府軍に降伏する。
1868.09.15( 07.29) 新政府軍が再び長岡城を占領する。
長岡藩落城
1868.09.15( 07.29) 二本松城が落城する。
1868.09.17( 08.02) 重傷の河井継之助が只見村に向かう。
1868.09.21( 08.06) 相馬藩が、政府軍に降伏する。
1868.09.27( 08.12) 銃弾によって受けた左膝下の傷が化膿した河井継之助が只見村を発って塩沢集落に着き、
村医の矢沢宗益方に投宿する。
1868.10.01( 08.16) 河井継之助が銃弾による傷の化膿がもとで死亡する
1868.10.04( 08.19) 榎本釜次郎(武揚)ら、徳川氏の軍艦8隻を奪って、北上
1868.10.04( 08.19)
フランス軍人ブリュネ、イタリア公使館での仮装舞踏会から脱走し、榎本艦隊に身を投じ合流
1868.10.05( 08.20) 薩・長・大垣・大村・土佐・佐土原の6藩で編成された政府軍本隊が二本松を出発して会津へ向かう。
1868.10.05( 08.20) 榎本武楊の艦隊のうち咸臨丸が座礁する。
1868.10.05( 08.20) 官軍、会津若松城へ総進撃を開始
1868.10.06( 08.21) 政府軍が、会津の敢死隊が守る萩岡、二本松兵・猪苗代兵が守る勝軍山、大鳥圭介が守る
雉ヶ沢北方の勝岩山頂に攻めかかる。
1868.10.07( 08.22) 政府軍が猪苗代城を陥落させ、十六橋を渡って会津に迫る。
1868.10.08( 08.23) 飯盛山の裏側にたどり着いた白虎隊の隊士20人が、鶴ヶ城の方向にあがった火の手を見て落城と思い、
刺しちがえて全滅する。
1868.10.08( 08.23)
会津藩家老西郷頼母の家族・一族21人が自刃、藩士沼沢出雲の家族4人が入城できず自刃、
その他多くの藩士の家族が自害する。
土佐兵などが若松城下に入り、会津藩士の家族たちの壮烈な最期を目撃する。
1868.10.08( 08.23) 榎本武楊の艦隊が鹿島灘で台風に遭い、艦隊がバラバラになる。
1868.10.09( 08.24) 中野竹子が、柳橋の戦いで薙刀をふるって奮戦するが散弾に倒れ、自害する。20歳。
会津藩士中野忠順の娘で美貌と才媛をうたわれた。
1868.10.10( 08.25) 政府軍が、会津藩の火薬庫のある城東南の小田山裾を占領する。
1868.10.11( 08.26) 天皇誕生日を天長節とする旨の布告が出る。
1868.10.12( 08.27) 祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が即位する。即位の礼(第122代天皇、明治天皇)。
1868.10.13( 08.28) 米沢藩が鎮撫軍に降伏することに藩議を転換する。
1868.10.14( 08.29) 会津藩城外の総指揮者佐川官兵衛が率いる千人の決死隊が西門から長命寺で戦うが110人の
戦死者を出して惨敗する(長命寺の戦い)。
1868.10.14( 08.29) 肥前藩軍が、会津藩の青木火薬庫を爆破する。
1868.10.18( 09.03) 薩摩藩、新発田藩、尾張藩の兵が米沢に入城する。
1868.10.19( 09.04) 米沢藩が降伏する。
1868.10.20( 09.05) 会津鶴ヶ城の西出丸に美濃郡上藩の援軍37人が入城する。
1868.10.21( 09.06) 秀長寺に潜んだ会津藩佐川官兵衛の隊が西軍に奇襲をかける(秀長寺の戦い)。
1868.10.23(明治元年09.08) 「明治」改元。一世一元の制が定められる、一世一元の制を制定
1868.10.25( 09.10) 北方山地を捨てて喜多方に後退した会津軍が、熊倉に退く。
1868.10.26( 09.11) 熊倉に陣取った会津軍が、政府軍を敗走させる。
1868.10.27( 09.12) 新手の米沢兵団が南下中との報せが熊倉の会津軍にもたらされ、会津軍は熊倉を撤退する。
1868.10.29( 09.14) 政府軍の若松城総攻撃が、小田山砲兵の砲撃で開始される。
1868.10.30( 09.15) 一ノ堰附近で会津軍と政府軍の衝突が起こる。政府軍は多くの戦死者を出して青木へ退き上げるが、
会津軍も有力幹部を失う。
1868.10.30( 09.15) 福島藩が降伏する。
1868.10.30( 09.15) 仙台藩が鎮撫軍に降伏恭順し、奥羽越列藩同盟は盟主を失う。
1868.11.01( 09.17) 会津軍が、政府軍の攻撃を受けて一ノ堰から福原に後退する。
1868.11.01( 09.17) 上ノ山藩が降伏する。
1868.11.01( 09.17) 庄内藩が新政府軍に謝罪降伏する。
1868.11.03( 09.19) 幕府遣欧使節団がパリを離れる。
1868.11.03( 09.19) 松平容保が、降伏を請うため、手代木直右衛門、秋月悌次郎、桃沢彦次郎を森台村の米沢陣営に
派遣する。
1868.11.04( 09.20) 天皇、京都御所を発して、東京に向かう
1868.11.04( 09.20) 松平容保が、内々で重臣会議を開き、開城を告げる。
1868.11.05( 09.21) 明治天皇一行が草津に着く。
1868.11.06( 09.22) 会津藩主父子、官軍に降伏。
会津若松城が落城し、開城の式が行われる。幕府方の最後の抵抗も潰える。
1868.11.07( 09.23) 会津若松城の城兵が猪苗代に移される。
1868.11.11( 09.27) 新政府、スウェーデン・ノルウェーと修好通商および航海条約を調印(実施、明治2年5月1日)
1868.11.11( 09.27) 官軍が鶴岡に入る。西郷隆盛が大総督有栖川熾仁親王に従って春日丸で酒田に上陸し鶴岡に入る。
1868.11.12( 09.28) 新政府、スペインと修好通商航海条約を調印(実施、明治2年5月1日)
1868.11.26( 10.13) 天皇、東京に到着。明治天皇一行が江戸城に入城し、東京城と改称して皇居とする
1868.12.08( 10.25) 榎本釜次郎(武揚)ら、蝦夷上陸。五稜郭、函館を奪取
1868.12.10( 10.27) イカラス号水兵殺害事件の関係者を処罰(下手人、福岡藩士金子才吉は先に自害)
1868.12.__( 11.__) 榎本軍、松前城攻略のうえ行政、兵制を取り決めて、蝦夷共和国を称する。
1868.12.26( 11.13) 火刑、磔刑を廃止する。
1868.12.30( 11.17) 英・仏・普・伊四カ国公使、横浜駐屯外国兵の撤去を日本政府に通告
1869.01.01( 11.19) 東京鉄砲洲開市、築地に外国人居留地が設けられ、外国人を対象とした新島原遊郭ができる
新潟・夷港開港
1869.01.04( 11.22) 伊・仏・蘭諸公使、東京で天皇に謁見
1869.01.05( 11.23) 英・米・普諸公使、天皇に謁見
1869.01.20( 12.08) 天皇、京都に向け、東京を出発
1869.01.23( 12.11) 対馬藩家老樋口鉄四郎ら新政府成立通告のため朝鮮に出発(朝鮮側、通告受理せず)
1869.02.03( 12.22) 天皇、京都に到着
1869.02.04( 12.23) 外国官副知事東久世通禧、条約改正の意向を各国代表に通告(明治2年12月10日、商議延期を通告)
1869.02.09( 12.28) 英・米・仏・蘭・独・伊六カ国公使、局外中立の解除を宣言
1869.02.11(明治2年01.01) 三浦半島・観音崎に日本最初の燈明台((初の洋式灯台)燈台という呼称が登場するのは明治5年)
が完成し点灯される
1869.02.20( 01.10) 東久世通禧ら北ドイツ連邦代理公使フォン・ブラントと神奈川に会し、
修好通商航海条約23か条を締結(即日実施、明治2年9月11日批准書交換)
銅輸出解禁に関して各国代表に照会
1869.02.24( 01.14) アーネスト・サトウ、賜暇帰国、離日
1869.03.02( 01.20) 長州・薩摩・肥前・土佐の4藩の藩主が連名で版籍奉還を建白上表する
1869.03.15( 02.03) 条約改正の審議を外国官に命じる
1869.04.05( 02.24) 天皇が東京に滞在中は太政官を東京に移すことが決まる。これで事実上の東京遷都が決定する。
1869.04.18( 03.07) 明治天皇が再度東京に向かう。
1869.05.10( 03.29) アメリカで最初の大陸横断鉄道が完成する。
1869.05.__( 04.__) 新政府、蝦夷地奪還を計画。榎本艦隊、宮古湾にて新政府軍艦甲鉄の奪取を試みるも失敗。
新政府軍は榎本軍が守備する江差を攻略の箱館へ向け、侵攻し松前、木古内、矢不来を突破する。
榎本軍に参加していたブリュネらフランス軍脱走兵達は戦線を離脱する。
1869.06.12( 05.03) 土方歳三が五稜郭に戻る
1869.06.20( 05.11) 土方歳三が函館異国橋付近で腹部貫通銃創を受けて戦死する。35歳
1869.06.22( 05.13) 出版許可制、政府非難・風俗びん乱などを禁止し、版権保護などを盛り込んだ出版条例が定められる
1869.06.01( 04.21) 英、伊、仏、米、独と茶・生糸増税約書に調印(未実施)
1869.06.02( 04.22) 政府、茶・生糸増税約書の実施延期を代償に、下関賠償金残額支払いの3年間延期を、
英・仏・蘭・米4カ国に要請(明治3年2月6日、4カ国承諾)
1869.06.13( 05.04) 庄内の酒井家の会津への転封が、領民の反対運動によりひとまず白紙の状態になる
1869.06.27( 05.18) 函館、五稜郭陥落・榎本武楊、降伏する(戊辰戦争が終結)
1869.07.25( 06.17) 諸藩の版籍奉還を許し、公卿・諸侯の称号が廃され華族となる。(版籍奉還)
1869.07.25( 06.17) 庄内の酒井家が磐城平への転封を命じられる。
1869.08.01( 06.24) ロシア兵、樺太函泊を占領、明治政府が抗議しなかったため兵営陣地を構築
1869.08.02( 06.25) 武士を士と卒に改称する。
1869.08.06( 06.29) 東京九段に招魂社(靖国神社)が創建される。
1869.08.03( 06.26) 外国官知事・沢宜嘉
1869.08.10( 07.03) 外交は自主独立を建前とすべきの朝旨を知藩事に諭し、緩急国威を辱めないことを期させる
1869.08.15( 07.08) 外務卿 沢宜嘉、外国官を廃止して外務省を設置
1869.08.15( 07.08) 大学校が設立される
(昌平学校を中心に、開成学校・医学校を大学校分局として、これらを大学校と総称する)。
1869.08.19( 07.12) イギリスなど5ヵ国の公使が、外国人に渡った贋札・偽造貨幣問題で政府に談判する。
1869.08.29( 07.22) 庄内・酒井家の転封命令が、領民の70万両の献金と引き換えに取り止めになる。
1869.09.06( 08.01) イギリス公使パークス、樺太放棄を勧告
1869.09.14( 08.09) 横浜の灯明台と裁判所間に電信ケーブルを架設し、通信実験に成功する。
1869.09.16( 08.11) 外務大丞丸山作楽、樺太出張
1869.09.20( 08.15) 蝦夷を改めて北海道と称する
1869.09.24( 08.19) 上海の共同租界が正式に成立する
1869.10.06( 09.02) 新政府が、新しい時代に即する刑法について衆議院に対して下問する。
1869.10.08( 09.04) 大村益次郎が襲われる(11月5日死亡)。
1869.10.17( 09.13) 政府、宗家に朝鮮への使節派遣中止を指令
(同月、朝鮮政府、王政復古を報じた宗義達の書簡を非難・差し返す)
1869.10.18( 09.14) 政府、オーストリア・ハンガリーとの修好通商航海条約に調印
(イギリス公使パークスの仲介、即日実施、明治4年12月3日批准書交換)
1869.11.17( 10.14) スエズ運河の開通式が盛大に行われる。
(スエズ運河完成 )
1869.11.20( 10.17) 松平容保父子が新政府の使者、佐賀藩の徳久幸次郎から上京するよう命ぜられる。
1869.11.22( 10.19) 松平容保父子と家臣たちが備前藩士300人に護衛されて東京に向かう。
1869.12.07( 11.05) 大村益次郎(村田蔵六)没。46歳
1869.12.21( 11.19) 新政府が東京築地に外人居留地を設置する
1870.01.07( 12.06) 外務省出仕佐田白芽らを朝鮮派遣(日本の政権交代通告に関して交渉するが失敗)
1870.01.08( 12.07) 政府が、鉄道建設についてイギリス公使パークスと非公式に会談する。
1870.01.10( 12.09) ジョン・ロックフェラーが、オハイオ・スタンダード石油会社を設立する。
1870.01.13( 12.12) 政府が、鉄道建設を決定する。
1870.01.19( 12.18) 明治政府が東京府に対し小学校建設を促したことから、手習所に代る公立学校が誕生する。
1870.01.26( 12.25) 初の公共事業、電信が創業する(東京−横浜間)。
1870.01.11( 12.10) 各国に対し条約改正交渉は所定の期日(明治5年7月1日)をもって商議する旨を通告
1870.01.19( 12.18) 各国代表、浦上天主教徒(キリスト教徒)の各藩移送について抗議
1870.01.25( 12.24) 樺太函泊にて丸山作楽外務大丞ら、ロシア陸軍中佐デプレラドウィッチらと日露関係調整交渉を
おこなうが容易に妥結せず
1870.02.03(明治3年01.03) 神道の国教化をもくろんで、政府が大教宣布の詔を発する。
1870.02.22( 01.22) 樺太函泊にてロシア兵の埠頭工事を阻止しようとして、川島外務権大禄らロシア兵に逮捕される
(翌日釈放)
1870.02.26( 01.26) 長州藩の奇兵隊など諸隊の解散の措置に不満を持った兵士千人余りが藩庁を包囲する。
1870.02.27( 01.27) 商船規則で国旗のデザイン(日の丸の寸法)を示す。
1870.03.14( 02.13) 政府が樺太開拓使を置く。
1870.03.15( 02.14) アメリカ公使デ・ロングに樺太国境問題に関してアメリカ合衆国の斡旋を依頼する
(明治3年11月4日に取りやめ)
1870.03.25( 02.25) 政府、各国代表に府藩県への債権貸付禁止を通告
1870.05.19( 04.19)
民部・大蔵省に鉄道掛を設置する
1870.05.24( 04.24) 政府が、種痘の実施を各府藩に厳命する。
1870.06.13( 05.15) 白布・紅日光線章の陸軍国旗が定められる。
1870.06.15( 05.17) 北海道に屯田兵が入植する。
1870.06.21( 05.23) 天津教案。天津で、キリスト教会が焼き討ちされて、フランス領事や神父などが殺害される。
1870.06.26( 05.28) 諸藩から選出された議員で構成する集議院が開かれ、藩政などについて評議を始める
1870.07.06( 06.08) 東京府が、管内に小学校6校を開設することを決定する。
1870.07.19( 06.21) フランスがプロイセンに宣戦、独仏(普仏)戦争が始る。
1870.07.27( 06.29) 外務大丞柳原前光を通商交渉の為に清国に派遣
1870.08.09( 07.13) イギリスで、フォスター教育法(初等教育法)が制定される
1870.08.11( 07.15) プロイセンが、普仏戦争でのベルギーの中立を保障する
1870.08.12( 07.16) マンツィーニが、シチリア反乱を陰謀するが発覚し、パレルモで逮捕される。
1870.08.19( 07.23) 弘文・淳仁・仲恭の3天皇が天皇の系譜に加えられる(天皇の追諡)。
1870.08.19( 07.23) フランス軍がローマからの撤退を完了する
1870.09.02( 08.07) ナポレオン3世がセダンで攻囲され、降伏する。
1870.09.04( 08.09) フランス、パリ市民が街頭に進出し、その圧力のもとで共和政が宣言され、国防政府が組織される。
1870.09.12( 08.17) フランスの国防政府が、ルイ・アドルフ・ティエールを特使として諸国に派遣し、和平の斡旋を依頼する
1870.09.19( 08.24) プロイセン軍がパリ包囲を開始するが、国防臨時政府が抗戦を継続する。
1870.09.20( 08.25) イタリア軍がローマ市を占領する。イタリア統一がなる。
1870.10.02( 09.08) 薩摩藩音楽伝習隊が越中島で、天皇閲兵の際、西謙蔵の指揮で「君が代」を演奏する。
1870.10.02( 09.08) 住民投票が行われ、ローマがイタリア王国に併合することが決まる。イタリアの統一が完成することになる。
1870.10.05( 09.11) パリ民衆の反政府デモが激化する。
1870.10.13( 09.19) 平民にも苗字を付けることにする。
1870.10.12( 09.18) 外務権小丞吉岡弘毅らを朝鮮に派遣(外務卿の書簡を提出するも、朝鮮側に拒絶される)
1870.10.13( 09.19) 清国、日清両国は改めて条約締結の必要なし旨を外務卿に通告
(10.15(09.21)柳原前光特使、天津でこれを受領)
1870.11.10( 10.17) 沢宜嘉外務卿、英・仏公使と会談し、両国の横浜駐屯軍撤退を要求、その後もたびたび交渉
主に参照・参考にした年表:
・歴史データベースon the Web
http://macao.softvision.co.jp/dbpwww/index.html
・『一外交官の見た明治維新』下巻アーネスト・サトウ著 坂田精一 訳(岩波文庫)の巻末年表
・幕末年表http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/
・竜馬の遺伝子http://members.jcom.home.ne.jp/ryoumadna/index.htm
他、多数。
※ 幕末から明治維新までの年表の多くは、旧暦(和暦)で表示されているものが多く、閏(うるう)月など、
複雑?で不明な場合が多くあります。新暦(西暦)に引き直して並列表記してますが、正確さは保証できません。
※ 資料年表によって、日付が異なる場合もあり、こちらの判断で表記したものがあります。間違いも多々あると思います。