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藤 原 正 彦
馬鹿になること
いささか唐突な言い方であるが、受験戦争を勝ち抜くための必要条件は「馬鹿」になることである。
その時期には受験戦争の意味だとか、人生の意義やら目標といった大問題を深刻に考えてはいけ
ないのである。ただ阿呆のように、志望校突破だけをひたすら思い続け努力することにつきる。
それ以外に必勝法はない。そのような馬鹿たりうる人間だけがこの戦争に勝つ。
馬鹿になること。これが受験に限らず人生の様々な局面で、成功のための重要な鍵となること
が多い。どの分野に進もうと、その道で第一人者と言われる人はほぼ例外なく馬鹿である。
一流ボクサーと呼ばれる人はたいてい、一日に二十キロ程度のランニングは欠かさないし、少し
でも時間があると狂ったように砂袋をなぐり続けている。一流数学者は、胃を痛めながら明けても
暮れても、真理とかいう、何の役に立ちそうもない抽象的なしろものを追い続けている。
部外者にとっては、このどちらの人生の中にも、生存理由となるべき正当な意義を見出すのが
困難であるに違いない。しかしボクサーを志す人間は、泥まみれ、血まみれで砂袋をなぐり続ける
ことの全人類的価値を考えたり疑ったりしては決してならない。数学者を志す者が、目ざめている
時はもちろん夢の中まで抽象的真理を追究するということの意味に疑念をはさんではならない。
ただ無心に信じ続けなければ成功はおぼつかない。馬鹿になるとはそういうことである。
馬鹿になることはむずかしい。そうなれるということはそれ自身、偉大な才能であるとさえ
言ってよい。多くの人はなかなか馬鹿になれない。だから一流にはなれない。健全な常識や良識を
十分に備えた人間が馬鹿になり切ることは容易ではないのである。逆に言えば、一流と呼ばれる
人々のほとんどは、何らかの点で、社会通念的には不健全あるいは異常と見なしうる特徴を持って
いる。
馬鹿になれる人だけが世の中で成功しているというのは冷徹な現実であり、ある意味では悲しい
現実であると言えるかも知れない。
なぜ馬鹿になることがそれほど決定的に重要なのだろうか。この答えは簡単だ。各個人の潜在的
能力というものが伯仲しているからである。馬鹿になった時に初めて、それによってもたらされる
狂気が、当人の眠っていた能力を掘り起し、それを無限大へと発展させるドライビング・フォース
となる。天才とか一流と言われる人々を身近に見ているとそう思えて仕方がない。
それではどうしたら馬鹿になれるかという問題になる。ごく自然になれる人は最も恵まれた人で
あるが、そうでない人でも短期間なら馬鹿になることが出来る。それにはある種の自己暗示が効果
的と思われる。私も受験時代には、一年ほどの間、誰に教わった訳でもないがこの方法によって
完全な馬鹿になっていた。おかげで全く無邪気にガリ勉をすることが出来た。そして合格した。
一方、長期間にわたって馬鹿でいられるための効果的な方法に関しては私は知らない。実際そんな
ものがあるのかどうかも確かではない。日本中が一流だらけになっては住みにくくて困るから、
そんな方法がなくて丁度良いのかも知れない。
『数学者の言葉では』藤原正彦 著 新潮文庫
-折にふれてP167〜168より抜粋
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