今日降る雪の…

天暦五(951)年十月。
本来ならば皇妃に与えられる殿舎のひとつ、昭陽舎―通称梨壺―に五人の歌詠みが集められた。
源順、大中臣能宣、紀時文、坂上望城、清原元輔。
彼らの使命は勅撰和歌集を編むこと、そして、『万葉集』を訓読すること。
世にいう「梨壺の五人」である。



「…無理だ」
坂上望城は、溜息と共にその言葉を吐き出した。
梨壺に和歌所が置かれてから二月。
天暦五年も最後の日になっている。
とりあえずは『万葉集』を訓(よ)もうということになって、日々万葉仮名と睨み合っているのだが…
さっぱり訓めないのである。
彼らとしては、『万葉集』の歌などほとんど知っている、
今更訓読だなんて大層なことをするまでもない、用意に書き下せる、
さっさと終わらせて勅撰和歌集を編もう…ぐらいのつもりだったのだ。
まさか、『万葉集』が「訓めない」なんて事態に遭遇するとは思ってもいなかった。
五人で二十巻だからひとり二巻。
今、望城の前には巻一と巻二が置かれている。
しかし、ようやく巻一の八首目に訓点をつけたところ…。
「…額田王など嫌いだ」
思わず、愚痴がこぼれてしまう。
「そもそも、私は歌詠みではないのに…」
それは行き詰まると必ず言ってしまうことだった。
実のところ、五人全員が素晴らしい歌詠み、というわけではなかった。
源順は確かに歌詠みだが、どちらかといえば学者である。
紀時文はたいした歌も詠めぬのに、あの紀貫之の子というだけで選ばれた。
そして望城自身、歌を詠むことなど苦手なのに、坂上是則の子だから選ばれたのだった。
結局、実際に歌詠みといえるのは大中臣能宣と清原元輔の二人だけ。
望城も時文も、この分不相応な大事業に、そろそろ嫌気がさしてきていた。
「…もうすぐ年が明けるというのに…」
隣で時文が泣きそうな声で呟いた。
「もう、いいですから。訓めぬ歌はそのままにしておきましょう」
そう言ったのは能宣。
「意外と訓めぬものですね」
「まったくです」
望城は頷いて、今開いている部分を四人に向けた。
「どなたか、訓めませぬか。額田王の歌だとあるのですが」

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾背子之射立為兼五可新何本

「無理じゃ!」
元輔はちらと見ただけで目をそらした。
「さすがにこれは分からぬ」
順もしばらく睨んでいたが、降参、とばかりに手を振った。
「…どんな歌なのか見当もつきませぬ」
唸ってしまったのは能宣。
「女人がこんな歌を詠めたのか…」
と、もう感動するしかない時文。
五人の間に、なにやら嫌な沈黙が訪れた。
ぱちぱち、と火桶の炭のはぜる音がするばかり。
閉めきったなかで置く火桶が空気を熱く悪くし、よけいにやる気が削がれる。
「…娘がおります」
元輔が言った。
沈黙に耐えきれなくなると、かならず彼が口を開く。
「十五になる娘が。…諾子(なぎこ)というのですがね、生意気な娘で…真名を書き散らすのです」
望城は元輔の方を見た。
四十過ぎの元輔にとって、十五の娘は可愛くて仕方がないのだろう。
口元がほころんでいる。
「女が真名なんて、みっともないでしょう。でもあの娘は学問が好きで」
「そんな女人は、きっと多くいる」
言わんとしていることを察したのか、順が口を挟む。
「そして彼女たちは、『万葉集』が読めても読んではいけない」
『万葉集』は真名で書かれているのと同じ。
だから、真名が読めることを隠さなくてはいけない女たちは、『万葉集』が読めないのだ。
元輔は、ぽつりと呟いた。
「『万葉集』が憚らずに読めるようになったら、娘は喜ぶだろうな」
そのためにも、『万葉集』を仮名で書き下さなくてはいけない。
だけれども、
「難しすぎます。私には訓めぬ」
望城は言った。
それが、五人の本心でもあった。
また訪れるのは沈黙。
遠くで鐘が鳴った。
誰ともなく、溜息がもれる。
「…明けてしまったか」
順が呟いた。
「今まで生きてきた中で、最悪の年越しだ」
そう言ったのは時文。
望城も口にこそ出さないが、同じ気持ちだった。
「そろそろ、帰りましょうかね」
元輔はそう言って、簾を上げた。
「あ…」
「どうかなさったのか」
簾を上げたままじっと空を見ている元輔を不審に思い、順が言った。
しかし、彼も同じく夜空に釘付けになった。
「雪が…」
雪が降っていたのだ。
夜空に、真っ白な雪が舞っていた。
梅の花と見紛うばかりに美しく、慎ましく。
「元日に雪が降るのは、豊年のしるしと言いますよね」
能宣が言った。
五人は夜空を舞う瑞祥に見とれた。
新年の空気が頬を優しく冷ます。
「新しき―」
元輔が詠う。
「新しき年の始めの初春の―」
『万葉集』の歌だった。
下の句を、順が続ける。
「―今日降る雪のいやしけ吉事」

新年乃始乃波都波流能 家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰
新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事

「家持、か」
何度も何度も声に出し、望城はその歌を味わった。
順が言う。
「家持は漢詩を好んだ歌人だ」
「漢詩を? 家持が…?」
「家持の歌は、どれも漢詩の影響を強く受けている。いや、家持だけではない。額田王の歌も柿本人麻呂の歌も、漢詩を学んでいなくては詠めぬ歌ばかりだ」
「あの時代…唐に追いつけ追い越せと、きっと必死で学んだのでしょうね」
能宣は遠い目をして言った。
順がそれに頷く。
「そうであろうな。そして得たものは? それがここにある」
そう言って、『万葉集』を指す。
「彼らは漢詩を学び、和歌を詠んだ。優れた作品は、更なる名作を生むのやも知れぬな」
しんしんと、雪は降り積もる。
元輔は雪を見つめたまま、振り返りもせずに言う。
「もう少し、頑張ってみましょうか」
時文が、ちらと望城を見た。
望城もそれに答え、手元の『万葉集』を一巻手渡した。
能宣が皆を振り返った。
「訓みましょう。そして、編みましょう。私たちの和歌集を」



天暦六年元旦。
五人の歌詠み、もとい歌訓みは、思いを新たに『万葉集』を見つめたのだった。


「あづさゆみ」の松帆様のお正月企画フリーSSを戴いてきました。
額田王の歌を前に当代名だたる五人が四苦八苦している様が楽しいやら,おかしいやら・・・・。
本当は笑ってはいけないけど・・・,ほほえましい一場面ですね。
今日降る雪のいやしけ事・・・本当にお正月にふさわしい歌ですね。
松帆様,お正月の風情を楽しめるお話ありがとうございました!!



松帆夕子様「あづさゆみ」こちらか遊びにいけますです。