田辺朔郎

明治時代初期,幕臣の子として辛い幼・少年期をすごした朔郎。
外交手腕の鋭敏さで新政府に取り立てられた叔父・田辺太一に後押しされ,
工部大学(後の帝国大学工学科)に入学。
卒業論文で,琵琶湖疎水路線の地質調査,測量を取り上げました。
その論文が当時の京都府知事・北垣国道(くにみち)の目にとまったのです。
北垣知事は外国人お抱え技師なしで,日本人だけで琵琶湖疎水計画を成し遂げ,
京都にもう一度活気を取り戻したかったのです。
朔郎は22歳の若さで琵琶湖疎水計画の主任技師,監督に抜擢されました。

琵琶湖疎水は明治18年(1885年)8月着工,明治23年(1890年)4月に完成。
琵琶湖の水が京都に流れて,蹴上に水力発電所が設けられました。
この水力発電のおかげで,京都市街に電灯がともり,明治28年には日本初の電車が走りました。
京都は近代都市に生まれ変わったのです。


明治初期の時代,薩摩・長州の出でなければ出世は望めない厳しい時代。
自分が高みに登るなら,学問しかない事を少年期から痛感していた田辺朔郎。
今の大学制と違い,成績如何では学士の称号ももらえない,しかもその卒業時の成績で,
就職先の給料も大きく変わるのです。

見習わないといけませんね〜〜,当然!!!嘗ての自分も・・・です。
この人の偉業を耳にした時(テレビかラジオで放送していたんですが),私も大学4年生でした。
当時・・・とある,試験には落っこちるし,卒論もろくでもないことになっていたし・・・。
同じ歳でも大違いだな〜〜〜〜と酷く!!!痛感した記憶があります。
(いや,最初から比べる方が無理・・・ですが)
やはり,人間・・・努力,強い意志なしでは何事も成しえないのだ・・
と,この方には教えていただいた気がします。
しかし,今もこのていたらく・・・です。すいません。
やはり,ローマは1日にしてならず・・・です。

田辺朔郎氏は以前から描いてみたいと思っておりました。
しかし,この方を描くには疎水を描かなければいけないのです。
水彩のソフトで写真を見て南禅寺疎水を描いてみました。
もう一度背景描き直そうか・・と思いましが止めました。
水彩の使い方がよく解からないのです。未だに・・。

しかも,銅像の朔郎氏は設計書なるものを持っておられるが,写真ではよく解からない!!
今の測量士が持っているプラスチック製の筒っぽしか思い浮かばなかったのです〜〜。沈没ですね。
明治時代の服の資料もない〜〜。下書きの時点では,まだまし・・・だったのですがが
いざ塗ってみると今現在の服となんら変わらない・・・(ーー;)

今まで描いた私の歴史上の人物とは異なる事・・
時代が一番新しい,洋装・・ということもありますが・・・
私が描いた人たちの中で一番!!長生きされた方なのです。(82歳!!)

その後,朔郎氏は北垣知事の娘さんと結婚され幸せに暮らされました〜〜。
北垣が北海道開拓使として赴任してからも北海道の鉄道事業に携わったり,
土木技術の才能を生涯,国土建設事業に費やしました。

参考文献   田村喜子「京都インクライン物語」
(中公文庫)
空景の琵琶湖(文化評論者)

すいません誤字脱字絶対!!あると思います。長い文章は駄目です〜〜。。

2005.5.7.
2005.6.24