山辺皇女と大津皇子

山辺皇女って,幸せな時間ってあったのかな〜??と思います。
近江朝廷時代は父・天智天皇も存命で,その皇女であったから
少女時代は彼女の周りも華やかだったかもしれません。。
どういう経緯で大津皇子と結婚したかしれませんが,大津には沢山の恋人もいたでしょうし,
山辺皇女にとって,心安まる日々はあったのでしょうか?
それでも,最後には大津に殉じた彼女。
大津の子供とされている粟津王が山辺の産んだ子供であるかわかりませんが,その粟津王も多分処刑されたでしょうし,もう山辺には残されたものもなく・・・。
大津の後を追うしか,なす術がなかったのでしょう。

山辺の祖父はあの有間皇子を讒言して死に追いやった蘇我赤兄。
大津の皇子の祖父・天智天皇は赤兄と共謀して政治的お荷物である有間皇子を
葬ったとされています。
幾年か後,自分たちの孫が死に追いやられる事になろうとは思いもよらなかったでしょう。
本当に,因果はまわる風車・・・。
この二人は血塗られた古代政治史の犠牲者です。

大津を死に追いやった持統天皇は同じ蘇我系出身でも,
異母妹山辺には良い感情は持っていなかったでしょう。
自分の祖父・蘇我石川麻呂が不遇の死に追いやられ,母もそれがきっかけで亡くなり,
その後,後の蘇我家を継ぎ,近江朝で,左大臣の位に上った赤兄
を快く思っていなかったことでしょう。
同族女性間でも,系列違いで熾烈な権力闘争がありますね。

大津の姉の大伯皇女は伊勢の斎宮に赴任していた時,天武15年
天皇の命で伊勢に参宮した山辺と出会っています。
(この時既に,山辺は大津の妃になっていたのでしょうか?)
その山辺が大津の後を追ったことを知った時,大伯の気持ちは如何なるものか??
その大伯来も持統天皇がなくなる前年に亡くなっています。
(あれ,以前,永井路子さんが「歴史と旅」の対談で,持統天皇の亡くなった翌年,
大伯は亡くなったたと言っておられたが???)

三重県名張市に大伯の建立した昌福寺(夏見廃寺)があります。
また機会があれば行ってみたい処です。


2005.10.22.