5. 生きた物質「モネラ」

フィルヒョウ理論とメンデル・モルガン理論―現代医学はこれらを医学の基礎理論としているわけですが、医学が生命をあつかう科学であるなら、生命を探求する生物学はその基本とすべき重要な分野であるはずです。

その生物学において、生命を動的・発展的に捉える二つの注目すべき学説があります。一つはオパーリンの「生命自然発生論」で、いま一つはダーウインの「進化論」です。
オパーリンは「生命の起源」のなかで、つぎのような大胆な説を唱えました。
「太古火の玉だった地球には、生物は何も存在しなかった。しかしやがて地球は徐々に冷えてきて、それにつれて無機物が有機物に発展していき、その有機物の一部が蛋白質になり、ついにそこからきわめて原始的な生命が発生した」
この説は、たとえばメタン・アンモニア・水、その他一、二の無機物をフラスコに入れて火花放電するとかなり高級な蛋白質ができることから、正しいものとして今の生物学で承認されています。
ダーウインは歴史的名著「種の起源」で、「アメーバのような原始生命が環境の変化に適応しながら自然淘汰されつつ、次第に進化、発展してきた。つまり、自然淘汰というメカニズムが働くことによって、よりうまく環境に適応したものが生き残ったのである」と述べ、これも生物学上不変の学説として広く認められています。
かつて無生物だった地球に、今では数千万種類の動物や植物が生存している。この事実からも、「生命自然発生論」と「進化論」は、その考え方の根本は正しいものとして認めざるをえないのでしょう。
するとここで、一つの素朴な疑問が生じてきます。フィルヒョウとメンデル・モルガン理論は、いうなれば「生命不変論」、つまり生命は変わらないという固定観念です。これにたいし、オパーリンやダーウインの理論は生命は変わるという「生命変動説」であり、流動的で発展的な考え方だといえます。
これら真っ向から対立する二つの考え方が生物学界において、いやじつは医学界でも受け入れられている―これはたいへんな矛盾というべきではないでしょうか?
ところがこの矛盾について、学者たちはなんとも思っていない、というより問題にしようともしないのです。その理由はおそらく学者同士のかばいあい、「わからないことはそのままにしておこう」といった怠慢や、妙な妥協があるからだと考えられますが、前節で述べた医学思想の混乱は、案外こんなところにあるのかもしれません。
さてオパーリンやダーウインの「生命変動説」は、フィルヒョウなどの固定思想とくらべると、生命現象をより本質的に捉えているように思われます。しかしこれらの説もよく考えてみると、100%納得できるかというと、そうではないのです。
なるほど、無機物から蛋白質ができることは厳然たる事実です、しかし、その蛋白質がどうして生命を持つにいたったかということになると、オパーリンの説では説明できませんし、ダーウインもその点については明言を避けています。
森下博士は、「じつは、ここが生物学のもっとも大事な局面の一つなのだが、そこが谷間になっているわけだ。考え方の本質としては正しいのだけれども、問題が残されているわけである」と述べています。
このきわめてデリケートな問題を追求したのが、前世紀の偉大な哲学者であり、ダーウイン進化論の熱烈な信奉者でもあったドイツのヘッケルです。ヘッケルは「モネラ」という画期的な概念を提唱したのですが、残念ながら生物学界でも医学界でも、その重要性に注目した学者はいません。その概念とは? まずそれについてご説明しましょう。
ふつう細胞は中心に核があり、そのまわりに蛋白質のかたまりであるコロイド状の細胞質があり、さらにそれを包む細胞膜があるという構造をしています。
そういう、はっきりとした形態を整えた細胞にまで進化する前段階として、「“核のない細胞”という存在を仮定してもいいのではないか」という考え方で、ヘッケルはその核のない細胞を「モネラ」と名づけました。
つまり細胞になりきっていないが、いずれ細胞に発展するであろうという細胞の前段階の状態のもの、いわば「未完成の細胞」という発想です。現代医学・生物学は、このような考えには見向きもしませんが、これは非常に重要な概念です。
そしてじつは、これと同じような概念を提唱した学者がもう一人いるのです。ロシア(旧ソ連)の医者で生物学者のレペシンスカヤ女史がその人ですが、女史はその同じ概念を「生きている物質」という名称で表現しています。レペシンスカヤ女史はソビエト医学アカデミーの正会員で、同アカデミーの細胞研究所所長でもあり、千島学説の絶大な支持者として知られています。
レペシンスカヤは、卵黄の表面に発生する赤血球に注目することでその概念をえました。
ニワトリなどの卵が孵化ふかするとき、よく見ますと黄身の表面に赤い斑点がいくつも出てきます。それが互いにつながって網目状になり、日がたつにつれてその網の目は細かくなっていきます。しかもその網はたんなる筋ではなく、なかが空洞になっているのです。
そのチューブの一部がやがてふくらんできて拍動をはじめる、するとチューブのなかを血液が一定方向に移動するようになります。それを観察したレペシンスカヤは、とくに卵の黄身の表面に赤血球が寄り集まって赤い点になっているところに注目しました。顕微鏡で見ると、なんとそこは立派な細胞の形をしているではありませんか。
そこでレペシンスカヤは、「これはいったい、どこからきたのか?」という大きな疑問をもちました。そんなものはもともと卵にはなかったことは事実です。卵の黄身しかなかったのに、孵化しはじめると赤い斑点がいっぱい現れてきたわけです。
「細胞は細胞から」というフィルヒョウ理論が本当ならば、この赤い斑点となっている細胞のその最初の第一個目の細胞は、あらかじめ卵の中に潜んでいたと考えなければなりません。そうでなければ、「細胞は細胞から」という考え方に反することになるからです。
しかし途中から赤い斑点が現れているのが事実ですから、はじめから赤血球が存在したなどということはありえないわけで、「細胞は細胞から」というフィルヒョウの考えは、やはり間違っていたのです。
じつは、赤い斑点となった最初の細胞は、卵黄のなかから生み出されてきたものです。卵の黄身というのは、私たちが卵黄球と呼んでいるブロック状のものからできています。これは核も細胞膜もないので細胞ではありません。その細胞ではないものから赤血球という細胞が生み出されている―これはもう、卵黄球が赤血球へと発展していっているとしか考えようがないわけです。
「卵黄は生命体? それとも物質?」ということになると、これははっきりいって議論の分かれるところですが、今の段階では物質(有機物質)だとみなす考え方が支配的です。そうすると、卵黄球という有機物質から「生命」が生まれたことになり、レペシンスカヤが卵黄球は「生きている物質」ではないかと考えたことは、ごく自然なしかも正しい判断だったといえます。
無生物と生命体という大きく異なった存在を連続相として捉え、その“つなぎの一段階”を発見したこの概念は、これまで誰も気づかなかった画期的なものです。
生命現象を固定的思想ではなく、流動的・発展的思想で捉えていくには、ヘッケルの「モネラ」という概念、およびレペシンスカヤの「生きている物質」という概念を、医学・生物学はぜひ導入しなければなりません。なおこれらの概念は、次節で述べる「造血」の過程における重要な局面を理解するのに役立ちます。
いずれにせよ、この矛盾に満ちたフィルヒョウ理論に固執する現代医学は、生命現象の因果関係が説明できないという、医学としては致命的な欠陥があるわけです。


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