サラリーマン26年


  私のサラリーマン生活は、若干の栄光と多数の挫折から成り立っていた。以下略。

 ええっ、あまりにも短い文章じゃないか。これじゃ何のことだかわからないからもう少し書くね。

 最初に社会人になったのは、昭和50年春でした。しかし波乱はすでに、ここから始まっていたのでありました。何と折からの大不況で、入社日が一ヶ月遅れたのです。大学は出たけれど、自宅待機。といっても私は親元を離れて一人で学生生活していたので、正確には下宿待機だったわけですが、その下宿も3月一杯で契約が切れたから、たまりません。何とか次の人が入居するまで居させてもらって、その後は遠くの兄を頼って居候したのでありました。
 ようやく入社したらすぐに5月の連休。会社の寮にいましたが、お金がありません。どこにも行けずに、近所をぶらぶらしていましたっけ。その時分、会社は操業短縮していました。ですから連休明けも、金土日と毎週3連休なのでありました。給料も初任給凍結で上がりません。のみならず勤務時間の短縮で、賃下げされてしまいました。というわけで、最初からついていないサラリーマン生活だったのです。

 それでも全てが暗かったわけではありません。一番うれしかった時は、自分の手がけた製品が初めて世の中に認められた時です。やっぱり社会的に認められた製品を作るのが、エンジニアにとって一番の励みになるものなのです。しかも全世界で使われるっていうのは、エンジニア冥利に尽きるんですねえ。その反面、責任も大きくなるのです。不良品を出したら一大事ですからね。普通は事前に信頼性試験をちゃんとやっているので、明らかな不良というのはまずないのですが、使用条件が極端だったりすると、不具合が発生することはままあることなのです。こういうのにも全部対応しなければならなりません。だから売れれば売れるほど、責任と負担が増えるのです。売りっぱなしというわけにはいかないのです。これでエンジニアは鍛えられるのです。勉強も大変です。実務的な勉強は、学校での勉強のように決まったやり方で、その先に答えがあるのとは違うのです。問題解決には、全能力を使って取り組まなければならないのです。しかも自分で出来ないことは、他部署に依頼したり、協力を得なけばならないのです。こういう社内調整や、交渉能力も必要なのです。それでも、世の中のためにという使命感でがんばるのが、エンジニアなのでありました。

 米国特許を取得した時もうれしかったですね。国内特許は数限り出して、いくつかは特許が成立しましたが、外国特許成立はこれ一つだけです。米国の特許官庁は良く調べてくれて、的確に指摘してくれるので、好感が持てましたね。それに比べて日本特許庁は本当にいやになってしまうんですよ。説得力がないことを持ち出して、なかなか許可しないのです。専門能力や調査能力があるのかいなと思うこともしばしばだったですね。

 それ以外うれしかった時はあったかしら。転職した先では確かに一時は出世頭でしたし、比較的厚遇されていたことは確かでしたが、感激するほどのことはなかったような気がします。世の中との接点が希薄だったから知れません。それとも若さを失ったからでしょうか。

 挫折の記憶は数限りなくあります。涙が出そうなこともいっぱいです。それらは追い追い書き続けることにしましょう。

 いやだったこともあります。社内の人間関係、取引先との関係、いろいろありました。特に社内の人間関係は自分で相手を選べないので、始末が悪いですね。大体不幸の始まりは、社内の人間関係から始まることが多いのです。わがままな人、非協力的な人、団体行動が苦手の人、無神経な人はどこにでもいるでしょう。ナイーブな私としては随分神経をすり減らしたましたね。

 取引先の関係でも悪い思い出はあります。大概は紳士的な担当者ですけれど、中には尊大な人もいて参りました。それに会社同士の関係で、相手先の製品を買えというノルマがあったりしていやだったですね、某自動車メーカーだったけれど。こっちは自動車免許がないから車はいらないのっちゅうに。会社としては、取引先に協力しないと、あとでひどい目にあわされるかもしれないから、報奨金まで出してノルマ達成に血眼を上げていましたけれど、供給品の大幅な値下げを要求されて、結局は会社は大赤字企業になってしまいましたね。くだらないノルマにエネルギーを使って、新しいことに挑戦できなかったのも赤字の原因だったと思いますが、その余波で私は辞めたようなものです。だから今でもその某自動車メーカーには好感を持てないのです。一将功なりて万骨枯るの見本みたいなものでしょうね。敢えて社名は公表しませんが。
 


戻る