地震の恐怖


  私がまだ赤ん坊のころ地震があって、母は慌てて私を負ぶったのだが、その時私は頭から板の間に転落してしまい、頭をしたたか打ったそうだ。それ以来、快活だった私は無口になり、今でも無口なのである。脳に多少影響あったのかもしれない。ぱっとしない性格になってしまった。
 
 さて、それはさておき、自分の記憶の中で一番強烈だった地震は、1968年高校2年の時の十勝沖地震である。その時青森にいた。ちょうど高校の中間テストの日で、1時間目が終わって休憩時間の最中だった。突然大きな縦揺れが始まったのであるが、何のことだか良くわからない。そのうち横揺れが来て、初めて大地震だと気がついた。しかし何も出来ないのである。立っていることさえままならず、机の下にもぐりこむことも出来ず、ただ椅子に座って机にしがみついているだけであった。外を見ると木造校舎のモルタルが一気に剥がれ落ちるのが見えた。教室は一気にパニックに襲われた。
 揺れが少し収まったとき、誰かが窓を開けて外に飛び出した。しかしそれは非常に危険なことであった。なぜなら屋根から瓦が降っていた状況で、おぼつかない足どりで校庭まで走っていったのだから。やがて校庭に全員集合した時、なぜか私は八甲田山を見上げていた。無意識に山が噴火したと思ったのであろう。
 
 大きな地震で校舎にも若干の被害があったので、テストは中止となり、すぐ帰ることになった。家に帰る途中、堤防の石垣に亀裂が見えた。また橋のところで道路に段差が出来ていたり、側溝がつぶれ電柱が傾いていた。
 家に着いてまた驚いた。少し家が傾いている。庭には細かい砂とともに貝殻が噴出していた。いわゆる液状化現象である。家の中はテレビは転がり、本棚の本は全部飛び出していた。電気も水道もストップしていた。
 
 情報がないので、近くのNHKまで歩いていった。NHKではマイクロ波の中継所がやられていて、東京からの映像は直接届かず、盛岡か函館の電波を受信して放映していた。死傷者多数で、東北本線は路盤が崩壊し、線路が宙ぶらりんになって復旧のめどは立っていなかった。
 余震は頻繁にやってきた。本震より余震の方が怖かった。本震は無我夢中で何も考える余裕はなかったが、余震はちょっとした揺れでもナーバスになるのである。こっちの方が本震かもしれないと、身構えるのであった。
 
 震度で言えば5であった。しかしもっと激しかったような気がする。場所によって多少の違いはあるのであろう。電気・水道の復旧には時間がかかった。特に水道は浄水場からの本管が破損したので、1週間ぐらい断水が続いていたと思う。幸い近くに井戸を持っている人がいたので、使わせてもらった。
 この地震以来、地震にはかなり神経質になっている。日ごろの備えも怠らないように注意している。
 


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