友人の死


  A君は、私と同様に鬱病の持病があり、友人でした。彼の家に行って、一緒にお酒を飲んだり、話をすることもありました。そして彼が時折鬱になる時は、私はそれとなくアドバイスをしていたのでした。
 
 ある冬の日、その彼が鬱病で急死したのです。その日は朝からどんよりとした天気で、私自身も少々鬱気味だったのです。全然仕事に身が入らない、そんな日でした。

 その頃私は、残念ながら、彼の病状を把握していませんでした。結婚前後で、自分自身の事で頭がいっぱいで、彼の事まで頭が回らなかったのです。とても責任を感じました。私がもうちょっと彼の事に注意を向けていたら、彼の死を防ぐ事ができたはずだと思いました。そのチャンスはあったのです。何日か前に、彼とすれ違った時の顔は蒼白でした。その時に気付くべきだったのです。しかし私は自分の事で手一杯で、彼の死を防げませんでした。

 お葬式の時、彼のお母さんは憔悴しきって、茫然としていました。お父さんは、振り絞るような声で、悲痛な気持ちを口にしました。その時初めて、子に先立たれた親の気持ちがわかりました。誰もが悲嘆にくれた、とてもとても悲しいお葬式でした。
 私が長い鬱病生活の中で、それでも今まで生きてきたのは、その時のご両親の姿を忘れないでいたからです。親より先に死んではいけない、そういう思いが、強かったからでした。

 彼の死から、もう20年近く経ちます。でも私には、まだまだ最近の出来事のような気がするのです。生きていたら50過ぎなのに、思い出す彼の姿は、30歳当時の若いままです。彼と私の時は、そこで止まっているのです。

 彼の死は、私の人生における、最大の痛恨事です。自分の注意が足りなかったばかりに、大事な友人を失ってしまいました。その事は、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれないのです。

 そして、このホームページを立ち上げた理由。その一つが、彼の死を無駄にしたくないという事なのです。同じ悲劇を、繰り返して欲しくないのです。人の死は、いつも周りの人を、深い悲しみに落とし入れます。
 
 誰も親しい人がいないから、と思ってはいけません。もし同じ悲劇を知ったなら、私は悲しむでしょう。
 


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