一般音楽編 第3話 <国立競技場> 一番の夢は国立競技場で野外コンサートを行うことだ。 「社長、とうとうこの日がやってきましたね」 「ああ、長い時間かかったがようやくたどり着いたか」 「見て下さい。この聴衆を」 「ああ、ざっと10万人はいる。よく集まったものだ」 「みんな社長と同じ夢を見ててくれてたんですね」 「ああ、こんなうれしいことはない。人生で最良の日だ」 「さあそれでは、ご挨拶を」 「みなさん、本日はようこそご来場下さいました。本日のコンサートは世界初 128マルチチャンネル、フルオーケストラ合唱付きの演奏であります。思 いおこせばマルチ音源の演奏会を最初に行ったのが20年前、当時はまだ1 0チャンネルでも珍しい時代でありました。それがハード、ソフトの発達に より今日では100チャンネルを超えるものが可能になったことは、まこと に喜ばしい限りであります。 さて、本日の演奏曲目でありますが、皆さん御存知ベートーベン原作、山田 豊作編曲の交響曲第9番合唱付きであります。楽譜データインプットはわが 社の総力を挙げて取り組みましたので、皆様方にはきっとご満足いただける ものと確信しております。どうぞご期待下さい。 えー、それでは挨拶はこのくらいにして、これより演奏に移りたいと思いま す。では音楽スタ−ト、どうぞ」 ついに演奏が始まった。楽器の一台一台、合唱の一人一人に相当するスピー カーからは別々の音が出ており、実に見事なハーモニーを奏でていた。同じ合 唱のテノールでも、スピーカー毎に微妙に音が違っていたのである。 演奏が終り、聴衆からは惜しみない拍手が送られた。この拍手は機械にでは なくこのコンサートに携わった全ての人に送られたものであった。聴衆の中に は、この種のコンサートでは珍しいことであったが、一人の初老の男がいた。 彼は感慨深げに空を見上げてつぶやいた。 「あれから20年か、ここまでになるとは夢のようだ。あの時はただバックバ ンドでカラオケを歌いたかっただけだった。それに音の出るところを目で確 かめたかっただけだったんだ。ステレオだと、どこから音が出てるのかわか らなかったんだ。左耳が聞こえなくて、音の方向感がまるでなかったんだ。 だからはっきり、このスピーカーからはこの楽器の音が出るということを、 確認したかったんだ。片耳でできることは、それしかなかったんだ。それが ここまでになるとはな」 空は青く澄わたっていた。初老の男はコンサートの余韻の中で主催者席を振 り返り、静かに頭をさげた。