突然の国際電話

     「ハロー、マサヨシ」 先月末、懐かしい聞きなれた声が呼びかけてきた。
   アメリカ、シアトルの親友マーサからの国際電話だった。  しかし、いつもとは違って、弾むような声ではない。  すぐに事態が飲み込めた。  去年の末から彼女の母親、レベッカがガンを患っていたのを知っていたから。  ただでさえ苦手な英会話なのに、ましてやお悔やみの表現などさっと出てこない。  彼女は泣くのをこらえなが「化学療法でガンは完治したのだが、2週間前に引いた風邪が元で肺炎を併発して、抵抗力が無くなっていたのであっけなく死んだ」と静かに話した。  80歳のはずだ。
  ちょうど2週間前に、レベッカから「化学療法が終わって健康になった。  シアトルに来てもう一度歌を聴かせて欲しい。  ”さくら”をありがとう」というカードを受け取ったばかりだった。 恐らくこれが彼女の最後の筆跡だろう。  マーサにこのカードの話しをすると「その直後に肺炎になったの」と声を詰まらせた。
   私たちは、レベッカの生き方が心から好きだった。  尊敬し、そのような素晴らしい人と友人であることを自慢するかのように日本人の友達たちに話していたほどだった。

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   一昨年の7月、マーサ一家を訪問した際、レベッカが、車で約3時間の海辺の古いホテルに招待してくれた。  その数年前に主人を亡くし、その年の春に、長男をガンで亡くしたばかりだった。  しかし健康体の彼女はアメリカ人の老人の例に漏れず、一人暮らしをしていた。
   彼女自らおんぼろ自動車を時速90キロ(ハイウェーでないが制限速度内)で運転して私たちをホテルまで連れていってくれた。  仕事の都合で別の車でやって来るマーサ一家を待っている間、ホテルのベランダで紅茶を飲みながら、私はレベッカと亡くなった長男トムが大好きだった「荒城の月」と「さくらさくら」をハーモニカで演奏し、慧子が歌った。  4月にトムが亡くなったと聞いた時に「彼の墓前で吹いてあげよう」と思い立って購入し、小学生の時以来初めての練習を続けてきたと話すと、レベッカは何度も何度も「ありがとう」を繰り返して涙ぐんだ。
   夕食後の歓談の後、レベッカは「'荒城の月’をもう一度吹いて欲しい」と言い、吹き終わると「ああ、このきれいな気持ちで息子のことを偲びたいから」
ホテルの近くの浜辺に簡易テントを張り、波の音を聞きながら寝袋にくるまって愛犬と一緒に眠るのだといって闇の中へ出ていった。  トムが亡くなった時は一週間浜辺で寝たという。

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     この国際電話を受け取った日、ハーモニカを取り出してレベッカを偲びながら「荒城の月」を吹こうとしたのですが、2年以上も吹いていなかったので、すぐにはメロディーになりませんでした。  何事も継続した練習がいかに大切か改めて実感しました。
   2日午前、慧子が小矢部市の「ヴォイス ミュージアム」を訪れたところ、戦前、藤原義江がニューヨークで歌った「荒城の月」のレコードがかかり、涙が出て仕方なかったという。  偶然とはいえ何か因縁めいた感じもします。
   レベッカについてはまだまだお話したいことがいっぱいあります。  いつかまたお話する機会があればと思っています。  こんなお婆ちゃん、いや、こんな人になれればと願っています。  来年3月末か7月にはぜひお墓参りをして今一度「荒城の月」を吹いてあげたいと思っています。

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