A: 「パンは何語でしょう」
B: 「英語です」
A: 「ブブー、ポルトガル語です。 英語では、ブレッドゥ bread と言います」
パン pao
コップ kop タバコ tabaco カルタ carta
カステラ pao de Castella ボタン botan カッパ capa
現在私たちがカタカナで使っているこれらの言葉はポルトガル語から入ってきたものです。
ということで、パンの故郷
葡萄牙 Portugal に行ってきます
7月8日から21日まで夏期休暇をいただいて、ポルトガルに海外研修に出かけることになりました。地図に弱い人は、左の地図でヨーロッパをしっかり確認してください。ポルトガルは、ユーラシア大陸の最西端に位置し、日本の約4分の1の面積のところに、日本の13分の1の人々が暮らしています。
国語はポルトガル語で、ブラジルなど世界7カ国で合計1億8000万人が話しています。 今でこそEUの中でも中進国に甘んじていますが、15世紀の大航海時代には、エンリケ航海王子を中心に世界に進出、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の喜望峰周りでインド航路を開拓してからはインドに総督府を設け、香辛料貿易を独占して富を築いただけでなく各地に植民地を獲得したのです。
ポルトガル人が中世以降の日本の歴史を変えたと言えるかも知れません。 明王朝(中国)のマカオに居住権を得て中国貿易を繰り広げていたポルトガル人の商人が1543年に種子島に漂着、火縄銃を伝えました。 これを知った織田信長は日本の鍛冶職人たちに命じて大量の火縄銃を作らせ、長篠の戦で使用して、それまでの弓矢と刀剣・槍だけという戦闘のあり方を一変させたのです。 1549年には、スペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルがポルトガル国王の命を受けて来日、キリスト教(カトリック)の布教を始め、帰依した九州の3大名は、1582年に10代の少年4人の遣欧使節を派遣、少年たちはポルトガル、イタリアなどを回って8年後に帰国しました。 こうしてヨーロッパ人との交通が開かれた結果、日本人は中国、朝鮮、インド以外に、西洋という文明があることをはじめて知り、南蛮文化が花開いたのです。(神戸市立南蛮美術館に関連絵画が多数展示されています)
今なお中世が生き続けている
ポルトガル旅行の印象です。 ともに人口250万人の大都市圏の首都リスボンと商業の中心地ポルトを始め、人口千人足らずの田舎町まで、主に世界遺産に指定されている教会や修道院、城塞跡地を巡ってきました。 天正(1582年)の少年遣欧使節団がローマに行く途中にリスボンに立ち寄った際に宿泊した修道院や、彼らが演奏して当時のポルトガル人たちを驚かせたという古いパイプオルガンのある教会などにも立ち寄り、歴史の連続性に思いをはせました。
しかし、10日足らずの観光客のうわべだけの印象ですが、一番驚いたのは、ポルトガルの人たちの生き方です。 大都市でもほとんどの会社や店は午後5時には店を閉める。 開いているのはレストランとカフェ(お酒も出す喫茶店)ぐらい。 観光客相手のおみやげ物やでも土曜・日曜は休み。 超一流の店以外は看板もほとんどなく、しかもどの店も本当に薄暗く、覗き込まないと何の店か分からないところが多い。 10時にもなると公園や木陰、路上に設けられたカフェのテーブルなどで老人男性たちがおしゃべりを始める(女性の姿はない)。 レストランでの晩御飯は大抵8時過ぎからで2時間ほどかけるという。 ファド(ポルトガル民謡)・レストランへ行ったが、ワイングラス2杯分のテーブルチャージだけで2時間以上いても平気。 リスボンで地下鉄に乗ってみたが、時刻表も時計も、電車が入ってきても何の案内もなし。 現地ガイドの話では、長距離列車は時刻表はあるが正確ではないし、テレビだって新聞のテレビガイドの時間通りに始まらないことが多いという。 90%がカソリック教徒というだけあって、世界遺産に指定されて観光客が多数出入りしてカメラのフラッシュをたいている教会でも、膝まずいて静かに祈りをささげる現地の人が多かった。 自動販売機やコンビニなどという24時間営業の店などというものはないといっていいほど。 マクドナルドなどのファースト・フード店はでき始めているが余り人気がないという。
ポルトガル人のガイドが「東京に行った時、みんな走るみたいに歩いていたのにはびっくりしましたね」と言っていた。 時間と効率さと便利さだけを追求する私たち日本人は、本当に進んだ文明人と言えるのだろうか。
道も、人が歩くところは絶対に石畳。 あちこちで補修工事をしている姿を見かけたが、赤ちゃんのこぶし大ほどの立方体の石ころを一つ一つ金槌で削って調節しながら組み合わせていく。 所によっては、黒石をはめ込んで絵模様をつけていく。 工費と時間の節約だからといってアスファルト舗装などにしない。 効率とは無縁の作業だ。 でも模様のある道を歩いていると実に楽しい。 廃墟になった修道院や城砦の一部を原型をそのまま利用して改装し国営ホテルとして利用している。 かなり高級だそうだが、雰囲気がよいので人気があるという。 古いものは壊して、新しい便利なものを作ればいいという我々の考え方とはかなり違うようだ。
リスボンの商店街でぶらっと立ち寄った店で「この前、日本の皇太子殿下が来られて、皇太子妃へのお土産だといわれてハンカチを2枚お買い上げになられました。 お見せしましょう」といって見せてくれた。 細かなきれいな刺繍の入ったリネンのハンカチで、1枚が約1万8千円。 「皇太子妃がご病気だそうで、早くよくなられるといいですね。 皇太子は本当にお優しい方ですね」といわれた。 実にきれいなハンカチだったし、話の種にもなると思ってついつい1枚買ってしまった。 我々庶民にはとても使えない代物なのですが・・
悲しいこと
「先生、あれは自慢なんけー」 ポルトガルからの絵葉書が着いたかどうか尋ねたときに、中3の1人がこんなことを言いました。 私は片耳しか聞こえないので、聞き間違えたのではないかと思い「え?」と聞き直しましたが、また同じ言葉が返ってきました。
海外旅行に行けること、英語で手紙が書けることを見せびらかせるために絵葉書を送りつけたと思っているのです。 家庭でもそんな受け取り方をした話になっていたのでしょうか。 いや、家庭では絵葉書のことなど話題にもならなかったのかも・・ 余りの悲しさに、そのクラスで、ポルトガル旅行の印象を話す気になれませんでした。
高校生になってから入塾した生徒が「絵葉書と切手を買い込んできて、帰国してから出したと思とった」と言ったが、彼は単なる勘違い。 消印にまで注意がいかなかっただけ。
私たちは海外旅行に行くたびに、どんなに疲れていても塾生全員に絵葉書を書くことを義務と思って実行してきています。 英語塾なのだから、子供たちに海外の香りをほんの少しでも感じてもらえればと思うからです。 各学年までに習った英文構造を使って、ほんの少し難しい単語も交えて書くようにしています。 知らない単語は辞書を引いてくれることを願って・・ (残念ながら高校生でも余り辞書を引いてくれていない様子です) こんな悲しい言葉も聞きましたが、これに懲りず来年からも英文絵葉書は送り続けるつもりです。 社交辞令かもしれませんが「英文の絵葉書をいただいて子供たちも喜んでいます。 先生たちの豊かな体験を子供たちにぜひ伝えてやってください」という励ましのお言葉もいただいています。
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