今様 おろしや国紀聞 8/7
今回の旅は、ロシアの広さと、伝統と、宗教心の根強さと、共産主義の影響を実感するものでした。
日本の45倍もの面積があるが、北極圏やシベリアなど高緯度地域が多く、日本よりわずか2千万人弱多いだけの1億4千2百万人の人々が住んでいるだけ。 ヨーロッパ最大の都市である首都モスクワと、同じく4番目の大都市である旧都セント・ペテルスブルグを訪れました。
両都市の道路の舗装はいいのですが、車の数が多くなりすぎている上に、信号機が少なく、割り込みは当たり前。 道の両側には駐車の列。 ひどいものになると歩道にまで乗り上げているのも時々見かけました。 このため、毎日、本当に信じ難いほどの交通渋滞。 しかし、道の両側や中央部にはかなり幅広く街路樹が植わっているところが多かった。 日本なら「街路樹を切って道路を拡幅せよ」と抗議が出るのは間違いないところ。 市バスやトロリーバスの便はかなり多いのですが、車体はほとんどが旧式のポンコツ寸前。
ところが、一歩市街地を抜けると、本当にまっすぐな道が、2−3キロも続き、両側には白樺や赤松、ポプラなどの並木となっているところが大部分。 この並木がきれると、草原やライ麦や大麦、ジャガイモ畑が続き、山が全くないので360度見渡せるといった感じ。 北海道の広大さなど物の数には入らない。
モスクワのクレムリン宮殿や赤の広場、レーニン廟の前に立つと、米ソ冷戦時代を見聞してきた私たち世代のものにとっては感慨もひとしお。 宮殿の赤い城壁とその下に立ち並ぶ歴代の首相や大統領たちの胸像が往時を忍ばせてくれるだけ。 テレビ中継で見た、大陸弾道弾(ICBM)の軍事パレードがおこなわれた場所も、今は、各国の観光客のメッカに過ぎなくなってしまっていました。
こうしたところの観光には、何の規制もなく、ロシアも民主国家に変わったんだと感じるのですが、国内線の飛行機に乗る時にも、さらには、ホテルにチェックインする時にも必ずパスポートの提示を求められました。 どこへ行っても観光用のパンフレットや地図もほとんどなく、あってもロシア語のみ。 ホテルやレストラン、税関や入国管理官らも、全く英語が通じませんでした。 さらに、笑顔を浮かべて応対するということが全くなく、入管職員らは命令口調というより、怒気を含んだ口調で、恐ろしかったです。 共産主義時代に、上からの命令に、黙々と従って行動してきた習性が、いまだに根強く残っているとしか感じられませんでした。 これは、数年前、旧東ドイツを旅した時にも感じたことでしたが、ロシアの共産主義が崩壊して10数年も経つのに、このサービス精神のなさは信じがたいことでした。
唯一の例外は、肉屋、果物屋、漬物屋、チーズ屋、花屋、八百屋が集まった「市場」を訪れた時でした。 どの店のおばちゃんたちも、ロシア語をまくし立てながら満面の笑顔で味見を勧めてくれました。
ロシア正教(東ローマ系キリスト教)の修道院らは、第一次・二次世界大戦で破壊され、さらに共産主義の下で、宗教は禁止されていましたが、庶民の信仰心は厚く、生き残ったそうです。 今では至る所で、ねぎ坊主頭のきらびやかな修道院が、15−18世紀に建てられた当時のままに修復・再建されていました。 どこでも観光客だけでなく、スカーフで髪の毛を包んだ女性たちが熱心にお祈りを捧げていました。 ある寺院のそばでは、地元のコーラスグループがミサ曲を歌い、地元のラジオ局が放送していました。
共産主義革命が起きる1914年までの約200年間、都の置かれていたサンクト・ペテルスブルグを訪れました。 水の都といわれるほど運河が張り巡らされ、両岸には18世紀頃からの建物が連なり、全てが写真スポットといえるほどです。 エカテリーナ宮殿やエルミタージュ美術館を訪れましたが、その荘厳さは、言葉に尽くせません。 世界各地の財宝や美術品、装飾技術の粋を集めています。 これだけのものを完成するためには、国民がどれほど虐げられていたかと痛感されます。
エカテリーナ宮殿の大広間は、高校の体育館より広く、金箔の柱、極彩色の天井画、とてつもなく大きいシャンデリヤで輝いていました。江戸時代後期に、伊勢の船頭大黒屋光太夫がカムチャッカに漂着して、苦難の末、この地に連れて来られて、この場所でエカテリーナ女王と面会した時は、さぞ仰天したことだろう。 この旅行直前に、井上靖著の「おろしや国酔夢譚」を再読してきていただけに、生き生きと感じるものがありました。
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