中年夫婦のアメリカ・ホームステイ
(1) 西欧文明の源流を求めて
どこから入ったのか。 どのようにして入って行ったのか。 全く覚えていない。
でも、中に入ったとたん、薄暗く、ほとんど物音もせず、ある種ひんやりとした
霊気のようなものに取り囲まれたように感じたのは28年後の今でも鮮明だ。
私のような庶民は、一生足を踏み入れることはないと思っていた場所。
日本銀行本店。
今のような厳重な警備もなく、おどろおどろしい石造りの建物に
すんなりと入った気がする。 二階へ上ったが、どの窓口でどんな手続きをしたか
全く記憶がない。
妻は跡とり娘で、両親の面倒を見るために早晩、富山の田舎に帰ることにしていたが、
私た ちはその前に外国旅行をしてからということに決めていた。
私は、小学生のころから、ぜひともメソポタミア遺跡を訪れたいと思っていたので、
「同じ外国旅行をするなら、現代から古代へと西洋文明を逆にたどった旅をしよう」
ということになった。
アメリカからイギリス、ヨーロッパ諸国を経てローマ、エジプト、そしてメソポタミアへ。
西欧文明のトレース・バック(跡をたどること) と勝手にいきがっていた。
費用は貯金と二人の退職金を合わせればどうにかなるのだが、問題は
外貨持ち出し制限と旅行期間だった。 1977年。 日本人の海外旅行は1964年に
一応自由になっていたが、‘77 年当時の日本は、まだ発展途上で、
外貨準備が十分でなかったため、1人1000ドル以内に限って3ヶ月以内の観光旅行
(この数字は正しくありません。 どなたか正確な数字をご存知の方がおられたら、お教えください)
なら許可された。 しかも、1ドルは290円前後というべらぼうな
交換レートだったので、たいした旅行も出来なかった。
そこで私は一計を案じた。
大学卒業後10年間、神戸新聞社で新聞記者をしていたので、
「フリーのレポーター」として取材旅行に行くという話をでっち上げた。
「報道記者として立派な仕事をしていたし、今度の旅行でも時折記事を送ってくる予定」
というような内容の英文を和英辞書と首っ引きで書き上げた。
当時の神戸新聞東京支社長は私の入社時の本社社会部長だったので
私の意図を理解してサインをしてくださった。
これに預金残高証明書をつけて、日銀本店に乗り込んだという次第。
1円でも惜しかったので、旅行業者などには依頼せず全て独力。
外務省やアメリカ大使館にも出向いてどうにか 1万ドルの外貨持ち出し許可と
1年間の旅行許可をもらった。
早速、貯金と退職金をドルに換え、一部を旅行小切手にし、大部分を
アメリカの銀行の東京支店に入れて、アメリカで引き出せる手続きをとった。
2ヵ月後、外貨持ち出し制限が実質的に解除になった。
とたんに、急速な円高が進み、見る見るうちに、1ドルが180円前後になった。
苦労して英文をでっち上げ、旅行費用を全額ドルに変えてしまっていたことが、
大損する結果になってしまった。
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