中年夫婦のアメリカ・ホームステイ
 

(7) 「ケーコ、ホームラン!

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話し終わると、クラスにしばらく沈黙が続いた。 そして、一人が拍手を始めるとみんなも拍手に加わり、そのうちに男の子が立ち上がって「ケーコ、ホームラン」と言って握手を求めてきた。

 私(慧子)は、夫と違って、大学などの授業にはついていけないから、新聞で見つけたベトナム難民向けの英語学校に通いだしていた。 2年前の19754月末、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結した後、多くのベトナム難民がアメリカに移住、彼らがアメリカ生活に適合できるように政府の肝いりで各地で英語学校が開かれていた。 私はそこにもぐりこんだのだ。 ベトナム人はただだったかもしれないが、私は2ヶ月で188ルの経費を払った。 大学も出ていないし、英語の勉強は20数年間全くしていなかったのに、テストの結果、Aクラスに入れられてしまった。

 女子はポーランド人のハリーナ、イラン人のキミアとプェルトルコ人と私の計4人。 ハリーナは本当はロシア人だったが、当時、アメリカではロシア人は嫌われていたので、彼女はポーランド人と名乗っていた。 男子はクエート人、ロシア人、ブラジル人、ニカァラガ人、ベトナム人2人、イラン人。 ベトナム人の大部分は下のクラスだった。

 テキストは、アパート暮らしの日常を語るもので、水道の故障、家主との対話、車の免許の取り方といったような興味深いものだった。 午前は、文法や会話などテキストに沿って進めていくので比較的易しかった。 苦痛だったのは午後のフリートーキング。 みんなはブロークンな英語ながら、お構いなしにガンガン話す。 典型的な内気な(?) 大和撫子の私はついつい沈黙を守るだけ。 いつしか男生徒からは無視されていた。 ところが、ある日、事態が一変した。

 クエート人男性が、自分の国では母親は子供に献身的に尽くすといった話をした。 すると、若いアメリカ人の女先生は「母親は子供や夫の奴隷ではない」と強い調子で言い切った。 私は、この奴隷という言い方にカチンときた。 すぐに立ち上がり「母親の愛情は無償の尊いもの。 奴隷とかいうレベルのものではない」という意味のことを単語をつなぎつなぎしながらまくし立てた。 声も次第に上ずっていたようだ。 みんなの母親に近い年齢の、しかも、馬鹿な(アメリカでは喋らないということは話すことが何もない馬鹿者)日本人が、先生に食ってかかったものだから、みんなあっけにとられた様子だった。 そして、冒頭に書いた沈黙につながった。 しかし、クラスの人種構成から考えても、母親に対する考え方は私の主張の方に共感があり、「ホームラン」といってもらえたようだ。 この体験から、私は、言葉の流暢さより、内容の方が大切だということを実感した。 

 イラン人のキミアは、父親と長兄をイランに残したまま、母親と次兄と3人でアメリカに来た。 一家では出国できないという。 イラン人の男子も政治的な話は一切口にしない。 「ここは自由の国アメリカだ」と言っても「どこで誰が聞いているか分からない」と言って絶対に話さなかった。 案の定、2年後、聖職者たちを中心とするイラン革命が起き、パーレヴィ王朝の独裁体制が崩壊した。 コスタリカ人の男子は、1年前にカナダ・モントリオールで開かれた五輪について「オリンピックなんて大国のお遊びだ」とはき捨てていた。 アメリカ人と結婚してブラジルから来た男性も、「故国に自由はない」と言っていた。 底辺の語学学校だっただけに、当時の世界情勢が凝縮されていた。 この後、ベルリンの壁が崩壊、米ソ冷戦構造が終焉し、アルカイダによる世界貿易センタービル爆破とそれに続くアメリカのイラク攻撃へと、わずか25年間で信じがたいような大変化が続いている。

毎朝乗ったバスの運転手が私が降りる際に言ってくれた「ハブ・ア・グッド ・デイ」(Have a good day!)の大きな声とともに忘れられない英語学校だった。

 


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