第一章






たべもの




「兄さまっ」
 ぱたぱたと軽い足音をさせて、少女が紅巴の胸元に飛び込んできた。気が強くて、見る人に鮮やかな印象を残す少女は、そこにいるだけで花が咲き乱れるように賑やかな存在感がある。それは艶やかな花ではなく、日に向かってまっすぐに伸びた、素朴な力強さのある花だったが。
「本当に明日行ってしまうの? 誰が桃巳に笛を聞かせてくれるの」
 観桜宴から十日と経たない出立の朝、皆で朝餉を食べた後だった。食事の最中もその後皆で話している間も、ずっと拗ねたような顔で黙り込んでいた少女は、自室に引き上げて行ったと思ったら、回廊を歩いていた紅巴のところに身を翻して戻ってきたのだった。とうとう我慢できない様子で、紅巴にぎゅっとしがみついて、泣き声で訴える。
「少しの間だけだよ」
 微笑して、紅巴は少女の髪をなでる。だが桃巳はタダをこねて、そのままで頭を左右に振る。
「ちょっとだっていや。兄さま、今日だってお顔の色が悪いし、流紅みたいに頑丈じゃないから、心配だよ」
「流紅が遊んでくれるよ」
「流紅はがさつだからいや」
 この少女が兄と呼ぶのは紅巴だけで、同母の兄の方の流紅をいつも呼び捨てにする。慕ってついて歩くのは紅巴の方にであって、流紅に対しては喧嘩仲間のような感覚であるようだった。
「他人のことを、ガサツとか言える口か? これが」
 後ろから少女を引き剥がすと、流紅が遠慮なく少女の頬を引っ張った。少女は驚いた顔でそれを振り払うと、肩を怒らせて流紅の方を振り返る。
「流紅の意地悪っ。乱暴者! どうして兄さまが他の国に行くのを止めてくれなかったのっ」
 無邪気な少女は、紅巴の後ろに隠れると、流紅に向かって不満をぶちまける。流紅は、フンと鼻をならしただけだったが、紅巴が少女の頭に手を置いて、優しく言った。
「ぼくが行きたいって言ったんだよ。かわいい桃巳を守るためだから、許してくれないかな」
「みんな、桃巳や流紅や父さまや、神宮のみんなを守るためだって言うけど、桃巳は兄さまに会えないのがいやだもの」
「ぼくも、桃巳に会えないのは寂しいよ」
 慰めるためだけでなく、本心だった。使命感のために、自分が行くとは紅巴自身が言い出したことでも、遠く離れることになる故郷や人々と離れることが寂しくないわけがない。いつもと変わらず穏やかな口調の紅巴だったが、その声からにじみ出るものを感じたのだろう。桃巳は何も言い返さず、ただ後ろから紅巴の顔を覗き込むようにして見上げていた。
「ほら、もう邪魔するな、桃巳。兄上は準備で忙しいんだからな」
 腕を組んだ流紅に、邪険に言われて桃巳は相手を睨みつけた。
「なによ、意地悪っ」
 少女は再び叫ぶと、紅巴を離した。彼女が来たときと同じように、パタパタと音をさせながら、小袖の裾を翻して回廊を駆けていく。
「泰明の、小さな子どもにまで嫁の貰い手を心配されている、って言葉を思い出すよ。武家の女の礼節と貞淑って一体なんだ、って気になる」
 その後姿を見送りながら流紅は苦笑をもらした。彼も紅巴も、神宮の家臣たちも桃巳には甘い。それは彼女の奔放さのせいかもしれないし、逆に彼らが甘いから、彼女がやんちゃに育ったのかもしれない。ただ、桃巳も神宮の血をひく人間だ、というだけなのかもしれないが。
「桃巳はまだ子どもだからね。茜子殿は武家の女らしく、しっかりとした教養があって頭のいい人だと思ったけどな」
「ちょっと口が出すぎだけどね」
 流紅はおどけて少し肩を持ち上げて見せた。それから、笑みをもらした紅巴と一緒に、彼の部屋に向かって歩き出す。紅巴の部屋は西側の離れにあって、当主の側室である母とそこに住んでいる。
「それはそうと兄上、桃巳が言ってたが、顔色が悪い」
「気のせいだよ。日陰だからじゃないかな」
「そうかな」
「みんな、過保護だな。そう心配しなくても、ただ隣の国に行ってくるだけだし、いつもいつも倒れたりしないよ」
 紅巴は、おかしそうに笑った。
 西の離れにもいくつか部屋があり、そのうちひとつを紅巴が使っている。日当たりの良い回廊に立って襖を開けると、部屋の中に光が入った。もともと物のない部屋だったが、ほとんどの荷が運び出されて、今は更にがらんとしていた。
「本当に、手伝いと言っても、してもらうことなんて何もないのに」
「うん、分かってたんだけど」
 部屋に入る兄の背を見ながら、流紅はうつむいてつぶやく。
「なんだ? 流紅も今日は甘えん坊なのか?」
 くすくす笑いながら紅巴が振り向く。だが、いつもなら桃巳と同じようにむくれて言い返す流紅が、神妙な顔で回廊に立ち尽くしたまま、うん、と頷いた。先刻までとはうってかわって、強い瞳で兄を見る。
「どうした?」
 もともと流紅は、紅巴が行くことに反対だった。だからまだ駄々をこねているのかと思ったが、どうやら違う。寂しがっているのとも、違うようだった。どこか思いつめたような、それでいて何かと決別したような顔で言う。
「兄上は、我慢強いし、絶対に弱味を見せないから、無理をしてるんじゃないかと思って」
「ぼくは、何も……」
「本当なら、そろそろ効き目が出てきて、立っていられるはずないんだけど」
 紅巴が眉をひそめる。
 一体何を言っているのか。そう問いたかったのかもしれないし、もうそれは通り越しているのかもしれない。
 ――変調に、彼自身が気づいていないわけがないから。
「そうか」
 つぶやいて笑った顔は、力が抜けていた。途端に全身からも力が抜けて、紅巴は床の上に崩れるように座り込んだ。そのまま仰向けに倒れそうになるところを、急いで部屋に足を踏み入れた流紅が支える。
 流紅にとって、彼がつらそうな姿を見るのは、とても耐え難いことだ。体が強くないくせに、ぎりぎりまで我慢して何事もこなして見せようとして、結局兄が倒れたり倒れそうになったり、具合が悪そうな様子を見るのは少なくないことだった。多分、実際にそういった姿を流紅が目にしているのは、紅巴が体を壊して苦しい思いをしているときの、その半分にも満たないのだろうが。いつもそれを見るたび、思うたび、誰かに乱暴に心臓をつかまれたような気持ちになる。
 ただ、今日だけは。
 自由にならない頬の肉を無理矢理ゆがませて、紅巴は言う。多分、苦笑しているのだろう。
「一服盛ったな」
「茸を」
 いつもなら、悲しい顔で必死に兄を呼び続ける流紅が、今日は決して動揺しなかった。
 静かな目で告げる。
「体が痺れて動けなくなるっていうやつを。昨日賄いの人に頼んで、今朝の兄上の膳にだけ入れてもらった。毒じゃないってなかなか信じてもらえなくて、目の前で焼いて食った」
「昨日見かけなかったのはそのせいか」
「ひどいものじゃないから全然動かせないわけじゃないし、すぐ効果は消えるそうだ。わたしは半日で治ったけど、兄上だったら、一日くらいはかかると思う」
 だけど、目的を果たすには、それで十分だ。――それ以上である必要もない。彼に、危害を加えるなんて、不本意そのものだから。
「こんなときに動けなくなって、みんなの兄上への評価がまた悪くなってしまうかもしれない。だけど、そんなものはここにいればどうにもで出来ることだ。石川にはわたしが行く」
 ――――納得なんて、しなかった。
 理詰めで言われても、感情は理解していなかった。







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