第一章






別れ




「流紅」
 紅巴が咎めるような声を出す。
「もう決まったことだ。今更、こんなことをしてもしょうがないだろう。ぼくの都合が悪くなったら、日程を延ばせばいいことだ。こんな、馬鹿なこと……」
「すぐに人を呼んでくるから、大人しくしていてください。父上に言って、すぐに俺がたてるようにしてもらう」
 相手の言葉の先を封じて、聞く耳がないことを流紅は態度で示していた。その目で、声で、考えた末のことなのだと、告げていた。
 座っているのがやっと、という様子の紅巴はそれでも何かを言おうと口を開いたが、流紅はそれを待たずに彼を床に寝かせる。陽だまりの中の部屋の床は、その日の暖かさに反して冷たく、床に膝をついた布越しの肌にも冴えたものが伝わってくる。感覚の麻痺している紅巴には多分、分からないだろうが。
「流紅」
 襖の前に立って出て行こうとした流紅の背に、紅巴の声が追いすがる。
「兄上、説教なら帰ってから聴くよ」
「違う。流紅、待ちなさい」
 振り返れば、紅巴は動かない体を無理に床の上に起こして座ろうとしているところだった。何があったって言うことを聞かないつもりだったのに、考えるより前に書け戻っていた流紅は、彼を止めようとした。けれども、動かない体を無理に動かそうとして勢いが過ぎたのだろう、振り払うようにしてその手を断って、紅巴は腰に手を伸ばす。
「これを」
 震える手で刀を持とうとして力が入らず、紅巴の頬が悔しげに引きつる。
 紅巴の元服のときに、父からもらった刀だった。名工に打たせたもので、鍔にも飾りが施されており、身を飾り立てることを好まない紅巴が、唯一身に着けている装飾品のようなものだ。
「兄上、それは」
「持っていけ。ぼくだって、お前の身を案じてる。人質と変わらない身で、帯刀は許されないかもしれないけど、他の刀よりこれのほうが役に立つ。それに次期当主はお前だ。家臣のほとんどがそれを望んでいる。必ず無事に帰ってきなさい」
 自分だけ苦しいのだと思うなと、怒っているような声だった。滅多に感情の波を見せない紅巴が、厳しい目で流紅を見上げて、再度刀を引き出そうと手に力を込める。
 それを見て何だか泣きそうになりながら、流紅は彼の手から刀を受け取った。彼を助けてその刀を彼の帯から抜き出し、強く握る。その様子をしっかりと見届けて、確かめてから、紅巴はようやく体の力を抜いた。
「こんなもの、もろともしない強い肉体がほしかった」
 途端に、明るい色をした紅巴の瞳から、涙がこぼれ落ちた。悔しげではなく、どこか悲しそうで、そしてあきらめの混ざったような声だった。
「何が幸に転じるか分からない。これも運命だと言うのなら、お前はお前で、ぼくはぼくで、それに戦っていくしかないんだな。どうかこのことが、この刀が、お前にとって幸運に働くように」
 願うことは、同じだった。


「やりやがったな」
 門前では、準備を整えた一隊がいる。神宮の当主は彼らの様子を眺めながら、近く木の下に座して、同じように紅巴を待っていた。
 その彼の元に姿を現した次男を見ての、第一声はそれだった。浮かべた表情は、苦笑というよりは、いつものような飄々としたものに近い。
 流紅の様子を見て察したのだろう。何を報告するよりも前に言い当てられて、流紅は少し困惑した。――あるいは、ただ当てずっぽうだったのかもしれないが。
「予想してたんですか?」
「まあな」
 やっぱそうか、と付け足して、葉が芽吹きだした桜の木の下で、父は笑う。
「紅巴もそうだが、お前はもっと融通が利かないからな。何かするのではないかと思っていた。そこまでして、自分が石川に行きたいか」
 枝に残った花びらも、地面に落ちた花びらも、風に煽られて宙を舞った。そして刹那強く吹いた風が枝を揺らして音を立てても、流紅の耳が続いた言葉を聞き逃すことはなかった。
「さっさと隠居して、わしが行っても良かったのだがな……」
 思わずというように零れ落ちた言葉は、切実な響きがあった。出来るわけがないことを、つい言葉にしてしまうほど、悲痛な思いが。観桜宴の夜に、紅巴に対して感じた流紅の気持ちは、父も同じだったのだろう。敵陣に一人で彼を放り出すよりは、自分が行く方がまし。
 もしかしたら本当は、彼もやはり、紅巴を一人で行かせることに、まだ疑問があったのかもしれない。
 流紅は手にした刀を握り締めて、頷く。
「兄上は、皆が思っているような意気地のない方ではない。ひとりで行かせて、自分が邪魔になると思えば、何をするか分からないから」
「お前は?」
「わたしは、馬鹿だから」
 微笑して、流紅はつぶやく。自分を卑下しているわけではない、たくさんの思いを、そのひとことに込めて。そして毅然とした顔で神宮の当主を見て言った。
「罰しますか?」
「何を馬鹿なことを」
 怒ってなどいないのが、その様子を見ても分かる。神宮の血筋は、基本的に感情に素直だ。どこか楽しげに笑う彼の表情に、嘘はないだろう。
「何かするかもしれないと思いながら野放しにしていたわしも悪いからな。まあ神宮の当主としては面目丸つぶれだが、めったにない流紅のわがままだから許してやる。ついでに言うと、こんなこともあろうかと思って、実は石川家にはどちらが行くのかをまだ伝えていない。お前がそれでいいなら、わしは別に構わぬ」
 ただ、と彼は続ける。簡単に結っただけの髪を風に遊ばせながら。
「流紅、これだけは言っておく。きっと、どちらにしても、お前は後悔することになるだろうから。自分で選んだのだということを忘れるな。何が起きても、巻き起こることすべてに責任を持てとは言わない。だが、自分が選んだことだとあきらめてしまえば、真っ向から立ち向かうこともできるだろう。多分、どうにかなるさ」
 無責任といえば、無責任な言葉だった。責めているとも、突き放しているとも言えば、そうも取れた。だけども、どこかあっけらかんとした表情の中に、彼の強い信念が見えた。
 自分が決めたことだからと言って、全部に責任は持てなくても。すべてをその手に掴んで、握り締めておくことはできなくても。――何か、耐えられないことが起きても。それを選んだ自分を責めるのではなく、まあ自分で選んだことだから仕方ないと、あきらめてしまえば、気負わずにいけるだろう。
 そして再び吹いた一陣の風が、しがみつく花々をさらうように、もしくは流紅の見送りのためであるかのように、小さな花びらを舞わせる。下に座した人の肩に、立ち尽くす流紅の肩に、舞い降りる。
 花の命は短く、城下の祭りも終わり、花の祭りの時期も過ぎようとしている。新しい葉が芽吹き、桜の色だった桜花の山は青嵐に賑わうようになる。時間が過ぎるのは早い。来年の祭りもまた、すぐ来るだろう。
 そのときにはまた同じように、父と兄と妹と、神宮の暖かな民と一緒に祝い過ごすことを堅く誓いながら、流紅は父らしい訓示につられるように笑った。





2,3日前にはここまで書いていたかったんだけどなあ…。

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