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冷たい木の床に、火照った頬を押し当てて目を閉じる。日陰を通う風も、夏の湿りには勝てないようで、そうしていてもじわじわと汗が肌に滲み出てきていた。頭の中、遠くで鳴いている蝉の声がこだまして響いている。 石川領は、神宮よりも少しだけ北に位置するため、少しだけ過ごしやすいといえばそうだが。熱気に浮かされた頭で、ぼんやりと考えることはだいたい決まっている。兄上はまた倒れたりしていないだろうか、父は自由の利かない体であちこち出歩こうとして皆をハラハラさせていないだろうか、妹はまた二人にわがままを言っているのではないか、と。賑やかな桜花のことが思い出され、目を閉じて息を吐く。 自分で望んで来たのに、季節が動くほど故郷を離れていると、じっとしていたり気のゆるんだときなどに思い出してしまう。やはりどうしたって懐かしい。そんな思いに浸っていたい反面、情けないやらで、再びため息がもれた。 しかしながら、石川での流紅の生活は、決して窮屈なものではなかった。石川家の当主には、流紅や紅巴と同年代の息子がいる。彼は何かと流紅に友好的で、話し相手をさせたり、外に出るときは流紅をつれまわしたりもする。城下を歩き回ったり、近場へ釣にでかけたり、頻度はさすがに違っても流紅が桜花にいたころとあまり変わりないといえばそうだった。当然ながら、子息の守りであると同時に流紅の見張りとして、いくらか護衛も常についてきていたが。 石川家の家臣たちもあまりいい顔をしていないのを流紅も知っていたが、気詰まりになるより非難の視線の方がよほどましなので、放っておいた。時折神宮からの使者が夜陰にまぎれて来るのには、城の様子も城下の様子も、領内の様子も、何を優先して伝えるべきかが判断に余り、とりあえず見聞きしたままだけを伝えてある。こういうとき、父の言っていた「適材適所」が思い出されて、歯がゆい思いをするのだけれど。本当に、自分が来て良かったのかと少し思い、そして石川へ来た日のことを思い出す。 石川家の子息は流紅たちと変わらない年頃だが、現当主は彼らにとっての祖父と変わらないような歳だった。石川家がどっちつかずの態度なのは、むしろそのせいなのかもしれない。国を残してすべてを背負わせるのには、まだ跡継ぎが幼いから。 「愚かな」 平伏する流紅を上座から見下ろして、彼は一言吐き捨てるようにつぶやいた。 「お前は自分の価値が分かっているのか。国内ではどうだか知らんが、外では、神宮の様子を窺っている誰もが、お前が当主になるだろうと踏んでいる。つまりは、お前が跡を継がぬ神宮家は取るに足りぬ。お前の兄は愚者ではないが、戦の世には向いておらぬ」 愚か者はお前だ、と思い出すだけでも怒鳴り返してやりたい気持ちになる。あの時も、必死の思いで奥歯を噛み締めて、声をおさえた。 お前に何がわかるのだ、と言ってやりたい。兄上を知りもしないくせに、一体何がわかる? ――しかしながらそれは、神宮の家臣たちにも言えたことだったけれども。 「親父はただ、腹が立ってるだけなんだよ」 石川家の長男は、石川の当主との最初の対面の後、憮然としていた流紅に、申し訳なさそうに言っていたが。 「おぬしは、まったく人質とは思えぬな」 ふいに声をかけられて、自分が考えていたことなのか外から聞こえたものなのか束の間迷い、流紅は瞼を押し開けて目を開いた。すると、「起きていたのか」と少し呆れた声が降ってきた。 流紅は部屋の真ん中で寝転がっていたが、熱気にやられたようにぼんやりとした頭で、いつの間にか鬱々と考えんでいたようだった。そのまま瞳だけを向ければ、開け放した戸の向こう、廊下に立っている若者が呆れた顔で流紅を見ていた。 彼の腰には、石川の当主が流紅からとりあげた刀が挿されている。父親が奪ったものを、自分が預かるといって持っているのだが。 「暇だろう。稽古の相手をしないか?」 何もしなくても、じんわりと汗が肌を伝うというのに、腰に手をあてて流紅を見下ろしながら彼は言った。 「竹(たけ)寿(ひさ)殿は元気だな」 床に手をついて身を起こし、あぐらをかいて座りなおしながら流紅が言う。 「おぬしには敵わぬ」 石川の長男は、流紅が断らないのを見越して笑いながら、立ち上がるのを促して手をさしのべた。 城の庭の、日陰になる土の上に座り込んで、竹寿は手拭いで汗をふいている。真夏に本気で動いたせいで、しばらくはこのまま立ち上がりたくもない。日の陰になって冷えた土は、気持ちが良かった。 「噂に違わぬ腕だな。わたしにも励みになって、おぬしがいるとわたしも楽しい」 竹寿の疲労に比べて、流紅は元気なものだった。彼が自分相手に手加減をしていたことなど、竹寿にもよくわかっている。 諸肌脱ぎになって、井戸の水を頭からかぶっている流紅を眺めながら、彼はぽつりとつぶやく。 「実は、観桜宴を見に行った」 「この間の?」 桶を置いて、流紅が振り返る。 「親父に無理を言って使者にまぎれて行った。神宮家の様子を見てくるのは、今後のことを決めるのに悪いことじゃないだろ?」 「竹寿殿も、意外とやんちゃだな」 「おぬしに言われるのは、多少心外だ」 笑いながら、彼は言う。 「能天気だなと思ったよ。神宮も家臣も民もどいつもこいつも。だが、活気があった。一人一人に気力がある国は、強いと思う。石川にはそれがない。飛田は、まだどうか分からないが。おぬしたちは、とても楽しそうだった。出来ることなら神宮に肩入れしたいと思ったよ」 「いいのか、そんなことを言って」 次期当主が言うには、軽々しい言葉だ。だが、彼は最初から流紅に対して悪意がなかった。 「別に構わぬ。わたしの一存で何がどうなるということでもないし、思っただけで実際に出来るわけでもない。父は石川家がどこにもまつろわずにいられることを望んでいるが、わたしの目には、それはもう不可能だと見えてきているだけだ」 戦国の世を、なんとか踏ん張ってがんばってきた父が、一人で立ち続けたいと思う気持ちも、分かるような気はする。だが、竹寿が年若いからかもしれないが、もともと力のある神宮と飛田に挟まれ、徐々に大きくなる彼らに対抗するだけの力が、自分たちにあるとは思えなかった。意固地になる年寄りと、つらくても切り抜けてきた時期をしらない若者の客観的な見方と、考え方の違いなのかもしれない。 だから父は、流紅に対して歯がゆく腹立たしい思いを持っているのだろう。現在の状況が切羽詰ってきているとは言え、神宮家はやはり、他家よりもまだ力の強い国だ。そして飛田と同様、皇家の血を引くことは、何よりも力になる。 それなのに、石川家のように力の弱い立場から見れば、彼らは信じられないほどに、甘い。状況を甘く見ているかのようだと、頭の固い家臣連中誰もの目に映っているのだろう。余裕があるつもりなのか、ただ愚かなのか。 同じものを見て、竹寿が好ましく思い、力強く思うのとは違って。――うらやましくも思うのは、同じなのだろうが。 ぽたぽたと頭から水をたらしながら流紅が彼のところに歩いてくる。解いた髪を乱暴かきまぜて、動物のように雫を振り払おうとする流紅に苦笑しながら、新しい手ぬぐいを投げてやる。 竹寿の目に、観桜宴で民に囲まれていたときの彼と、今の彼は、まったく同じように映る。本当はそうではないのかもしれないが、彼の目にはそう見えた。どこにいても自我を失わず、たった一人でも頓着なく笑う、奔放な強さ。 「おぬしのもとにも、神宮からこっそり使者が来ておろうが、まだ知らないだろう」 竹寿の隣に座り、受け取った手ぬぐいで頭を拭きながら竹寿を見る流紅に、彼は苦笑しながらつぶやく。 「飛田が本條を攻める。ほかに泣きつく場所がないから、本條は神宮を頼る。おぬしの兄が戦に行くぞ」 流紅の手が止まった。頭にかぶった布の下から、強い目が竹寿を見返す。 ――思えば、神宮の人間は、皆同じような目をしていた。 遠目にうかがい見ただけだったが、物静かに見える紅巴ですら、同じような目をしていたように思う。 「それが言いたくて、稽古だとか言い出したのか」 「そう。城内でわたしと一緒なら、おぬしのお目付け役もついてこないから」 言いながら竹寿は考える。このまま石川家が飛田にも神宮に抵抗して、こうしてここにあるのは、無理かもしれないとわたしが思っていた――それは目の前の少年に、ただ肩入れしたいだけなのかもしれない。 「おぬしたちにとってみれば、石川家はどっちつかずで卑怯だと思うだろう。だが、我らも生き抜くのに精一杯なんだ。この戦が正念場だな」 「いいのか、そんなことを教えて」 「多少おぬしの情報が遅れておるだけで、どうせ知ることだ。構わぬ。どう転ぶか分からぬが、気持ちの構えには多少時間が必要だろうと思って、先に教えてやっただけだ」 「そうか。ありがとう」 前を向いてしまった流紅の顔は、水を吸った布に阻まれて見えない。彼がどんな表情で言ったのか分からなかったが、考えることなどたくさんあるはずなのに、驚きよりも嘆きよりも困惑よりも先に、さらりと礼の言葉が出る彼に、なんとなく苦笑してしまう。あきれではなくて。 「これを持っていろ」 立てかけてあった刀を手にして、彼は流紅の方へ突き出した。 「おぬしの刀だろう。持って行け」 かぶったままだった手拭いを頭から取って、流紅は再び竹寿のほうへ頭を向ける。 「これはさすがにまずいだろう」 戦になれば、いよいよ神宮の人質の意味が出てくる。自分に味方しなかった、と飛田に攻められる前に、流紅を突き出して言い訳をしなければならないだろうに。 彼に、少しでも力を与えることは、石川家にとって裏切りになるのではないか。もし神宮が負ければ、流紅は飛田家に突き出されることになるのに、武器が手元にあれば、少しでも逃げられる可能性が出てくる。扱い方を知らない人間ならそれもほんの小さなものだろうが、流紅は戦い方を知っている。 「刀一本で何が変わるとは思えぬが、何か変わるとしたら、それも何かの運命で、何かの関わりなんだろう。さっきも言ったように、わたしはやはり、おぬしに肩入れしたいのかもしれないな」 なんとなく、自分自身にも呆れたような笑みが出てきた。確かに、流紅の言う通りまずいことだろうとは分かっているのだが。 同じものを与えても、誰もが同じようにそれを活用できるとは限らない。こんな手助けは、ほんのきっかけにしかならないものだ。けれどもそれひとつで道を開けるなら、それは立派に流紅の力だと思う。 ――わたしは、それを見たいのかもしれない。 神宮にとって正念場であると同時に、石川家にとっても、命運を分ける正念場だ。親父も家臣も殺気立つほどに緊張している。 見て、見極めたいのかもしれない。自分自身の判断が正しいと。 そして差し出されたものを断る理由が、流紅にはない。彼は竹寿から見ると大げさなほどに、なんとなく神妙な、厳かな表情で刀を受け取る。随分と久しぶりに手元に戻った刀を眺め、何か特別なものでもあるかのように、抱きしめるようにして両手で握り締めた。 「兄上の刀だ」 つぶやきは、いつになく切羽詰った声だった。 |