第二章






報告




 何事かと見れば、音は彼らの目の前の山中ではなく、陣の前方から聞こえた。となれば、飛田と向かい合っている前線か、もしくは飛田の後方か。
「御大将! 紅巴様はこちらか!」
 大声で叫びながら息を切らしてかけてきた兵は、紅巴を見つけると、地面に倒れこむように膝をついて頭を下げた。
「本條方の先陣が、飛田の陣に攻め込みました!」
 叫ぶように言う兵の言葉に、息を呑む音がした。
「兵力は」
 間髪いれず問い返す声がある。考えるよりも前に尊芳は紅巴を窺って、彼が自分ほどには驚いていないのを見て取った。耳に響いた、ひりつく様な呼吸の音は、跳ねた心臓の音は、自分自身のもののみだ。
「騎馬が二部隊ほど。飛田の沈黙に耐えかねての攻撃かと思われますが」
「日暮間際に、何をしだすんだ、本條殿は! 動いてはならないとずっと申し上げているのに!」
 口中、そうか、とだけつぶやいた紅巴のかわりのように、尊芳が憤慨して声を上げる。ただそれだけでも、暑さに汗がにじむ。
「突然先代を亡くされて、跡を継がれたばかりの本條殿では、苛立った兵は抑えきれなかったのだろう。臣も素直にすぐ聞き入れるとは思えない。それとも、考えがあるのかな」
 怒るのは尊芳に任せる、とでも言うように、紅巴は顔を上げてつぶやいた。
 日暮間際に攻撃をさせる。最初は少しずつ、徐々に戦力を投下していって、飛田の前衛を崩す。その頃には、日も暮れてあたりが暗くなっていることだろう。――もしかしたらすでに、どこかに伏兵を配置しているのかもしれない。今日唐突にそんな事をしだしたのは、神宮が相撲大会などをしていることは飛田にも知れているはずだから、少なくとも今日は攻撃する気がないのだと、あちらが思い込んでいるはずだと判断したのかもしれなかった。
「それにしても、我々に一言の相談もなく!」
「待て待てとばかり言って何もしてくれないぼくたちに、嫌気がさしたかな」
「援軍を請うておきながら、そんなこと許されるはずがないでしょう!」
「その通りだ」
 紅巴は、ただ静かに言う。
 後方に支援があることに、気を大きくしたのだろう。神宮はあくまで支援に来ているだけ、本條の私兵ではない。他人の援助を、他国の兵である神宮の軍をなんだと思っているのかと、尊芳は憤慨するが。
 だがともかく、そこに計画性が感じられない。
「それとも、本條殿自身も苛立っておられたか」
 これだけ追い詰められた状況で、自分の命運と領土がかかった戦だというのにこの進展では、苛立って当然かもしれない。紅巴のつぶやきにも当然一理あるが、しかし。
「そんなことで崩れる飛田でもありませんよ。そのくらい、分かりそうなものです」
「そうだ。こんな時刻に攻撃を始めれば、敵も警戒する。飛田家が同じ事をするならともかく、本條殿では底が浅い。考えが甘いな」
 同じことをするにしても、非道で恐れられる飛田家ならば。ただでさえ、行動の先が読めないと言われる彼らだ、そんな相手が妙な時刻に攻撃などしてくれば、訳もわからず深読みをして、敵が浮き足立ってくれることもあるだろう。だが、一体何をたくらんでいるのか、と相手に畏怖と疑いを持たせるような力量も経験も、本條の新しい当主にはない。
「どうしますか」
 援護するのか。このまま沈黙を守って、後方に鎮座し続けるのか。それとも、見限って帰るのか。
 暗に含めて問う尊芳に、紅巴はあくまで静かに、ゆっくりと言った。
「悪いが、援護はしない。我々はここで沈黙を守る。援軍の要請をしてきながら、勝手な行動をする相手を、無条件で支援するほどわたしは甘くない。神宮を甘く見るなら本條だって許さないよ。このまま沈黙を守りながら退却の用意をする」
「退却ですか?」
 驚いて、尊芳が声を上げる。紅巴のつむぐ言葉の内容にも驚いたが、そこまで極端に動くとは 思わなかった。
「念のためだよ。多分、この調子では本條は長くもたないだろうし、前衛の混乱に乗じて、飛田が後方の我々にも何かをけしかけてこないとも限らないから。例え本條が無事でも、もし飛田が今日神宮の方にまで来たら、交戦せずに本條を見限る。本條を見限ることは、わたしに決定権のないことかもしれないが、これは帰ってから父上に説明する。とにかく今は、退くときに慌てたくない」
 ――自業自得だ。
 そうはっきり言いきったようなものだった。
 ――これでまた、敗戦の将と言われるのかもしれないが。
 紅巴の目は、そんな目先の些事など見ていなかった。
「改めて、流紅様が、あなたのようには出来ないといつも言われるのが分かった気がします」
 一見穏やかで優しい神宮の長男は聡明で、決して情に流される愚かさは持たない。有事に際した状況でないと、そんな様子は決して見せないから、騙されている家臣が多いが。これで彼に、流紅のように迷いなく行動する意志が備わっていれば、更に良かったのだが。
 ため息交じりの尊芳に、紅巴は和やかな笑みを浮かべて言った。
「そうやって買いかぶって、後で文句を言ってきても聞かないよ」
 言いませんよ、と返すと、彼は更に楽しげに笑った。そして、報告を持ってきたまま、ずっと彼らの足元に控えていた兵に向かって指示を出す。
「急ぎ皆を集めてくれ、撤退の用意をする」
「かしこまりました」
「それから、ひとり乱波を呼んでくれ」
「らっぱ……忍びですか?」
 紅巴の命には疑問をさしはさむ余地のない兵の代わりのように、尊芳が問う。
「そう、足の速いのがいい。頼みたいことがある」
 応えた紅巴は、再び西の空の方へ顔を向けていた。時間を目線で追うように、沈んでいった日の余韻を見ている。こうしている間にも、先程よりも空は暗くなった気がする。遠く聞こえていたのが合図の音だけだったのに、喧騒が耳に届き始めている。
 後ろで束ねただけの彼の髪を重い風がさらっていく中、時間が経つのを恨むかのように、その眼差しは厳しかった。








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